しゅんだ
【動詞】しみる
例: ぶしゅかんがしゅんだ
著者名
記事タイトル
掲載開始日
「みずをくむプリンセス」 スーザン・ヴァーデ文 ピーター・H・レイノルズ絵 さくまゆみこ訳 さ・え・ら書房
ジージ―はアフリカのプリンセス。ジージ―の王国はアフリカの空。野良犬と歌い、草と踊り、風とかくれんぼすることだってできます。
そんなジージ―でも、水をよびよせることや水をきれいにすることはできません。まだ夜が明けきらない暗い朝。ジージ―とお母さんはずっとずっと遠くまで水を汲みに行かなくてはなりません。 水を汲みに行くジージ―の一日からは、水問題についての現状が端的に伝わってきます。
またあとがきでは、この絵本が生まれたきっかけや、清潔で安全な水を手に入れることが困難な人々が現在も多数いることを伝えてくれます。とても大切なさまざまなことを考えさせてくれる絵本です。が、それとともに、絵の素晴らしさも味わってほしい作品です。
歌い踊っている時のジージ―のしなやかな体。頭に壺をのせたジージ―と母親の堂々とした足取り。水くみに行く人々のシルエットの美しさ…。過酷な現状を伝えるとともに、生活を楽しみ、お互いをいつくしみ合っている家族の豊かな日常の感じられる絵本です。
8月最後の日曜日、夕食を食べ終わった頃、外で大きな音がした。森地区で花火の打ち上げが始まったのだ。
土佐町では毎年7月末から8月にかけて、町内の各地域でお祭りが開かれる。昨年と今年は、新型コロナウィルスのため全てのお祭りが中止になった。夏の風物詩であるお祭りがなくなってみると寂しいものだ。せめて花火だけでもと、相川や石原地区など、各地域で打ち上げられている。
小走りで見晴らしの良い場所へ向かうと、暗闇からくぐもった声が聞こえてきた。もうすでに何人かの人が空を見上げているようだった。
すぐそばにある「新井堰」と呼ばれる水路には、山からの水が静かにとめどなく流れている。その水面には淡い光がちらちらと揺らめいていた。
花火は打ち上がる。
家の前の椅子に座って空を見上げている人、うちわを仰ぎながら隣の人と言葉を交わしている人。いく人かの子どもの声が遠くなったり近くなったり、行ったり来たりしながら飛び跳ねているようだった。
花火が打ち上がるたび、集まっている人の輪郭と、すぐそばの山の稜線が見える。
最後の花火、いくつもの滝のような白い筋がきらめきながら流れ落ちると、拍手があちこちで起こった。
暗闇の中に響く拍手の音は、外出しにくく、人と会うこともままならないコロナ禍のなか、誰もが懸命に自分の暮らしを守り、保とうとしていることを実感させた。
来年はちょうちんの灯りのもと、皆で花火を見上げられたらうれしい。
「七度笑えば、恋の味」 古矢永塔子 小学館
表紙はアニメ。日本おいしい小説大賞…って何?と思って購入。
第一話の鮭と酒粕のミルクスープからはじまって、第七話のたっぷり山葵のみぞれ鍋までの七話になっていて、料理方法や料理のおいしさまで伝わってくる。
でもこの小説は美味しいだけじゃないんです。
主人公の日向桐子。完璧に美しすぎるため母の人形。幼い頃より辛い目にあい、大人になった。今では夫の人形。内緒でみつけた職場も、頭巾にマスク、メガネをかけての仕事。昼食も人目を避け、誰もいない処でとる。自分が自分でいられないことに泪が…。
そこにあらわれるのが72歳の匙田さん。味があって人情味満杯。まわりのみんなも人間味があるんです。
一まわりも二まわりも離れているのに抱く恋心。匙田さんの対応がしゃれていて大人なんです。
読み終えると、ほのぼのとした気持ちになりました。
作者は高知県在住でした。それだけでもうれしくなりますよねえ。
この見事な木を見てください!
これは土佐町の川村雅史さんが撮影した、柿の木の写真です。雅史さんは現在83歳。土佐町の早明浦ダムの底に沈んだ、柿の木地区に住んでいました。
柿の木地区には、一本の大きな柿の木がありました。
それはもう見上げるような大木で、甘くて美味しい実がたくさんなったそうです。この柿の木からあったことから、この地は「柿の木」と呼ばれるようになりました。
写真の木のそばに立っている男性は、川村かいじさん。同じく柿の木地区に住んでいた人だそうです。写真を撮るためにわざわざ着替えに帰り、おしゃれをしてやって来たのだとか。当時は写真を撮ってもらうことは、特別なことだったのでしょう。
写真の柿の木は、幹が真ん中で分かれています。梯子をかけてそこまで登り、夢中で柿の実を収穫したそうです。でもそれ以上登ることはとても無理、高いところの柿は泣く泣く諦めたそう。木の下では、指をくわえた子どもたちがうらめしげに見上げていたかもしれませんね。
この柿の木は、柿の木地区がダムの底に沈む前に枯れてしまったそうです。
「身辺整理、わたしのやり方」 曽野綾子 興陽館
目次
第一章: ものは必要な量だけあることが美しい。
第二章: 身辺は整理して軽やかに暮らす。
第三章: 服は持たない。
第四章: 人間関係の店仕舞いをする。
第五章: 食べ物は使い切り、食器は使い込む。
第六章: 家族を介護し、始末する。
第七章: お金はきれいに使い尽くす。
第八章: 人はそれぞれの病気とつき合い生きる。
第九章: 死ぬときは野垂れ死にを覚悟する。
第十章: 人生の優先順位を決める。
こうして目次だけを拾ってみても、曽野綾子さんの毅然とした生き方がうかがえる。
今、振り返ってみると、私の好きで読んだ本のほとんどが自分の親世代の方が書いたものだった。
曽野綾子さんも90才。実は今、その世代の方が順番に書かなくなって、生きていく指針が無くなったようで淋しい。
「山峡のおぼろ」の執筆を依頼され、引き受けた時、何を書こうかということが、具体的には即座に浮かんでこなかった。
思い浮かぶことは多々あったが、何にしぼり込むかということで2,3日迷っていた。
そんな折り、壁に掛かっている司馬遼太郎さんの色紙を見た時、ふとひらめいたことがあった。
産経新聞大阪本社で、司馬さんの「竜馬がゆく」の連載を担当し、次の「坂の上の雲」の連載を担当していた時、父が西石原の山で脊髄を痛める大怪我をし、これによって産経を退職して高知に帰った。
その時、餞別として司馬さんから色紙を頂いた。それには、
「婉なる哉故山 独座して宇宙を談ず 為窪内隆起君 司馬遼太郎」
と書かれている。これを見ていると、頂いた時の司馬さんの、
「大阪と違うて、土佐の山河はきれいやろ。そんな中で育った自分に返って、ゆっくり各種の思いに浸ったらええよ、という気持ちで書いたんよ」
という言葉が頭に甦ってきた。
小学校3年の時の昭和16年(1941)に太平洋戦争が始まり、中学校1年の昭和20年(1945)に敗戦となった。その間、色んな物が不足し、不便となり、敗戦の頃は物資不足のどん底であった。
殆どの家の青年、壮年の男は軍隊に入り、村人は老人、女性、子供が多かった。
子供でも小学校の高学年になると、農作業の手伝いなどをした。
その一方で、子供だから色々の遊びもした。テレビもない時代であり、外で遊ぶしかなかった。当然、山や川で過ごすことが多かった。
色紙を頂いた時の司馬さんの言葉が甦った時、戦中、戦後の苦しい時代の、子供たちのことを書こうと決めた。これも1つの時代の史実になるだろうという気になった。そして書いたのが、この40本の話である。
人それぞれに体験があるだろうが、自分としての“あの頃”を、思い出すままにまとめてみた。
余談だが、司馬さんの色紙には、懐かしいエピソードがある。
「婉なる哉」の「哉」の「ノ」が抜けているのに気付いたので後日、書き加えて頂くようお願いした。すると、
「君が退職と聞いて、気が動転してたんやろな。これもその時の正直な気持ちやろから、そのままにしとこうや」
と、笑いながら言われた。いかにも司馬さんらしい、思いやりに満ちた言葉である。
「山峡のおぼろ」は、司馬さんの色紙の言葉に後押しされて書き進むことができた、という思いが強い。
前述のように当時は、働き盛りの男性は軍に入っていたので、山や川での遊びや、その他色々のことを教えてくれたのは、村のじいちゃん、ばあちゃんたちだった。
思い出の中に、そういう人たちが多く浮かんできた。
書くに当たり、折りにふれて上手にすすめて頂いた担当の石川拓也さん、鳥山百合子さんに、心からお礼を申し上げたい。
「昭和天皇物語」 能條純一 小学館
「月下の棋士」をご存知の方が多いかもしれない漫画家・能條純一。
人間の感情を生々しく、同時にとても冷徹に描くことに定評がある漫画家ですが、最新作の題材が「昭和天皇」であると知ったときは非常に驚きました。
このテーマは、おそらく日本人作家が描くにあたって最も難しいもの。
同時に、昭和天皇のフィクション化というか、物語化が実現するぐらい、昭和から長い時が経ったということでもありますね。昭和は遠くなりにけり。
このテーマに手を出すのは勇気のいること。そう考えていたら、著者が4人いることに気がつきました。能條純一の他に、半藤一利(原作)・永福一成(協力)・志波秀宇(監修) です。
ですよね。一人では手に余りますよね。各々が得意分野を持つ専門家チームが共同で作っているという感じなんでしょう。打ち合わせの現場を覗いてみたいものです。
物語は昭和天皇裕仁を一人の人間として描いています。自分の心の内で、教科書でしか知らなかった人物に、少しずつ血が通っていくような感覚を覚えます。
青年・裕仁がどのような苦悩の末に8月15日の玉音放送の日を迎えるのか。日本の歴史の中で昭和天皇裕仁の役割とは一体なんだったのか。
まだまだ興味の尽きない作品です。
この記事は前回の「鹿の角ガチャの今」の続きです。
突然ですが、とさちょうものがたりの「鹿の角ガチャ」、業務提携します。
お相手は梼原町の「ゆすはらジビエの里」の平脇慶一さん。
今回の記事はその経緯と内容をご説明します。
まずは梼原町の「ゆすはらジビエの里」のご紹介から。
梼原町は鹿や猪などの野生動物が多く、そのため猟友会の活動も盛んです。ゆすはらジビエの里は、梼原の猟師さんたちと協力し、鹿や猪など農作物を荒らす野生動物の捕獲と解体、ジビエ肉としての販売を行なっています。
ゆすはらジビエの里が運用している「ジビエカー」は耳にしたことがある方が多いかもしれません。少し遠目の場所で捕獲された野生動物は、解体処理施設まで運搬する際に鮮度が落ち、販売に適さないものになってしまう場合がありますが、ならば施設側が動けばいいという逆転の発想で、「解体処理施設を搭載された車が捕獲場所まで移動する」という方法を編み出しました。
今年4月に、知人のお誘いを受けて梼原町を訪問しました。その際に梼原町前町長の矢野さんにお会いし、お話を伺っているうちに、梼原のいろいろな方々に紹介していただけることになりました。
その日のうちに矢野さんと一緒にあちこちを周り、紹介されたうちのお一人が前述の「ゆすはらジビエの里」の平脇慶一さん。
ちょうどとさちょうものがたりが鹿の角ガチャを開始する直前というタイミングもあってそのお話をしたところ、平脇さんの方でもピンとくるものがあったようでした。鹿の角ガチャ、実際の取り組みが始まった頃に「梼原でも同様の取り組みをしたい!」というご連絡をその後いただき、その後のお付き合いにつながっています。
実際、「ゆすはらジビエの里」では「竹ぼうき」という梼原町の障がい者支援施設と手を組み、鹿皮を使った工芸品などを制作していたという状況もとさちょうものがたりと似ている部分でもあります。
梼原町のガチャ本体は梼原の最も人が集う場所である「雲の上の図書館」内に設置されています。
わざわざ硬い言葉で「業務提携」などと言ってみましたが、実際は半分冗談みたいな話です笑
「ゆすはらジビエの里」ととさちょうものがたりが手を組んで協力態勢で臨むのは、鹿の角の供給部分。
とさちょうものがたりの鹿の角ガチャの材料である鹿の角、この一部を梼原から供給してもらい、その代わりに、こちらで制作した「鹿の角御守り」の一部を梼原町のガチャに入れる。
お金はぐるぐる回らないけれど、鹿の角が梼原町と土佐町をぐるぐる回る。
その態勢を「ゆすはらジビエの里」ととさちょうものがたりが一緒に進めていくということが、今回の業務提携の内容です。
上図に示した内容、活動自体はこれからどんどん進めていきますという段階です。鹿の角が媒介する梼原町と土佐町との関係も、少しずつ強固なものにしていけたらと考えています。