2026年3月

図らずもTPP。あっちのTPPではありません。

土佐町在住の写真家、石川拓也がひと月に1枚のポストカードを作るプロジェクト。

2016年11月から始まり、たまに遅れたりもしながら、いちおう、今のところ、毎月1枚発表しています。

各ポストカードは土佐町役場の玄関と道の駅さめうらにて無料で配布しています。

写真:石川拓也 宛名面デザイン:品川美歩

土佐町ポストカードプロジェクト

2026 Mar. 高須

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高須 | 和田杏茉音

これが最後のポストカードです!

私(石川)が2016年に土佐町にやってきて、初めにやったことがこの「土佐町ポストカードプロジェクト」でした。

その時々の土佐町の風景を撮影し、ポストカードにして住民の方々にお届けする。住民の方々がお手紙やメッセージカードとして送ってくれたら、それがそのまま土佐町のPRになりますよね、と始まった企画でした。

振り返って数えてみたら、これが97枚目。想像以上にたくさんの風景を撮影させていただきました。

楽しみに毎回見ていただいた方々もありがとうございました!

最終回は、高須の棚田。水が入る以前の、3月の棚田を背景に、和田杏茉音ちゃん(1才)がモデルになってくれました。

過去のポストカードは、もう配ってなくなったものも少なくないですが、まだ在庫があるものもあります。

役場玄関、とさちょうものがたりの事務所や、森の末広さんなどで配布していますので、欲しい方は持っていってくださいね。

 

 

 

 

 

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Life on Shikoku Island through Merike’s eyes

ひな祭り / Hinamatsuri

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ひな祭り

私が初めてひな祭りに出会ったのは、今からおよそ八年前。

初めて四国の地を訪れたときのことでした。

四国八十八ヶ所の巡礼を四月初旬に始めた私は、いくつかの場所で、まだ静かに佇むひな人形の祭壇を目にしました。

それが何を祝うものなのか、その歴史も意味も知らないまま、ただその繊細な美しさに、心を奪われていました。

そして年月を重ねた今、私は少しだけ、その奥に流れるものを感じ取れるようになりました。

今年は、地元の女性たちとともに、ひな祭りのための餅をつきました。


機械を使う、少し現代的なかたちではありましたが、それでもそこには、確かな喜びと、やわらかな熱がありました。

私たちが集ったのは、九十四歳の女性の、小さな台所。


他の二人は、七十六歳と八十歳――ちょうど、私の母と同じくらいの年齢でした。

ふとした瞬間、彼女たちは歌いはじめ、やがて笑いながら昔話を語りだしました。

その声、その笑い、その間合い。

あたたかく、どこか懐かしい感覚が、静かに胸の奥へと広がっていきました。

まるで、帰る場所を思い出したかのように。

三人の女性と同じ空間に座っていると、私はある“力”を感じていました。

それは、何世代にもわたって大地に根を張ってきた、一本の大樹のようなもの。

その静かな強さが、私の内側へと沁み込み、いつしか私自身の一部になっていくようでした。

彼女たちの所作の美しさ。
生き生きとした気配。
飾らない、まっすぐな喜び。

ともに料理をし、ともに過ごし、言葉を交わし、手を動かし、素材に触れる。

そのすべてが、驚くほどに確かで、まっすぐで、現実そのものでした。

それはまるで、ひとつの“系譜”。
血でも、国でもなく――
知恵と強さを受け継ぐ、女性たちの静かな連なり。

国境を越え、文化を越え、それでも確かに存在する、簡素で澄んだ在り方。

遠くまで届くような、揺るぎない、整ったエネルギー。

私は、そうした女性たちのそばに身を置き、学び続けることに、深い喜びを感じています。

この土地での、素朴で静かな暮らしそのものが、私にとっての大きな師となりました。

そのすべてに、心からの感謝を。

それは、よりよく生きるための、静かな教え。

そして私にとって、ひな祭りとは――

祈り。

女性たちの系譜へと捧げる、静かな祝福の儀式。

Hinamatsuri

I first encountered Hinamatsuri almost eight years ago, when I came to Shikoku for the very first time.

I began my Shikoku88 pilgrimage in early April, yet in a few places I could still see the beautiful altar of Hinamatsuri dolls.

At that moment, I didn’t know what was being celebrated or what kind of historical background is behind that delicate beauty.

Now, many years later, I’m more aware.

This year I prepared mochi together with local ladies for Hinamatsuri. We made it in a more modern way — using a machine — yet it was still exciting and full of joy.

Our little kitchen team worked in the tiny kitchen of a 94-year-old woman.

The others were around my own mother’s age — 76 and 80.

At one point, the women even began to sing and later on were telling funny stories with laughter.

A warm and tender feeling filled my heart. It felt strangely familiar, it felt like a home…

While sitting with these three elderly Japanese women I sensed energy as it was like a firmly and powerfully rooted century-old tree, settling into my body and becoming one with me.

I watched these dignified women with admiration, their movements, their lively spirit, their simple and sincere joy. Cooking together, being together, real-life conversation, preparing food with our own hands from pure ingredients, everything in that small moment felt so right and so real.

It was like an ancestral line — not a bloodline, nor something defined by nationality — but a universal lineage of wise and strong women.

A quiet simplicity that transcends countries and cultures, yet carries a far-reaching, steady, aligned energy.

I deeply enjoy being among women with wisdom and learning from their experience and skills.

In truth, my life here in its simplicity has been one of my greatest teachers. For that, I’m grateful from the bottom of my heart. These are teachings to me on how to become a better human being.

For me, Hinamatsuri feels like a beautiful prayer and a consecration to the feminine lineage.

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(牛と共に生きる その4

 

喜び

高廣さんと規共さんにそれぞれ、喜びを感じるのはどういう時かを聞いた。

高廣さんは「自分が餌の配合を考えてやってきた中で、当時は枝肉としての大きさは少なかったけど、賞をとった時もあった」と話してくれた。すぐ別の話になったため賞について聞きそびれ、後日調べて驚いた。2012(平成24)年10月、長崎県で行われた全国和牛能力共進会で、高廣さんの育てた牛が賞を受賞していた。全国和牛能力共進会は5年に1度開催される全国規模の和牛の品評会で、別名「和牛のオリンピック」と呼ばれている。牛は区分ごとに審査され、高廣さんは第9区の「去勢肥育牛」に出品。見事1等賞に輝いていた。そういえば、賞を受賞した枝肉の写真が川井畜産の事務所の壁に貼ってあった。「この系統がえいにゃあと飼いよったのが、えい牛になるという達成感、それがやっぱりえい。それだけやない?」生き生きとそう話していたが、壁の写真について高廣さんは何も言っていなかった。

また、規共さんは「おいしかったと言ってもらった時は、やりがいを感じる」と話していた。他にもありますか?と聞くと「肉の品評会で入賞した時はうれしい」と一言。それは壁に貼っていた高廣さんの枝肉のことかなと思い込んでしまったのだが、これもまた調べてみると2025(令和7)年、高知県嶺北地域の嶺北畜産能力共進会で、規共さんが出品した母牛がグランドチャンピオンになっていた。

賞はこれだけではないと、後日聞いた。全国規模や高知県の他の共進会などで何度も受賞しているそうだ。お二人とも自ら賞のことは話さなかった。高廣さんも規共さんも進んで話すのは牛のことで、賞のことは聞かれたから言い添えたという感じだった。こういった姿は、お二人の実直な人柄そのものを表しているなあと思う。あくまで賞はあとからついてきたもので、最も大切なのは日々の仕事の積み重ね。お二人の背中がそう言っているようだった。

 

Tosa Rouge Beef

2020年4月、高知県独自の土佐あかうしの評価基準である「TRB規格」ができた。「TRB規格」は「T=土佐あかうし、R=らしい、B=Beef (肉)」、すなわち土佐あかうしらしさを評価する基準のこと。月齢 29ヶ月以上のA2やA3の枝肉を「ロース芯の霜降り傾向、ロース芯面積、皮下脂肪厚、肉の色、光沢」の5段階で再評価。優れた品質のものをR5、標準以上をR4と格付けし、「Tosa Rouge Beef(トサ ルージュ ビーフ)」として新たにブランド化することになった。

「TRB規格」がスタートし、2020(令和2)年6月、競りで最高ランクのR5の枝肉が出た。A5を上回る価格で落札された土佐あかうしは、高廣さんと規共さんが営む川井畜産の牛だった。

川井畜産ではこれまでも、土佐あかうしはA4を目指して飼育してきた。けれども個体によってはA3やA2になることも多い。その差は経営に直結する。A4とA2のkg単価は数百円以上も異なる。それが牛一頭分ともなると何十万円も変わってくる。「TRB規格」ができたことで、A3やA2だったとしても、「Tosa Rouge Beef」としての高評価を得ることができる。

実際、「Tosa Rouge Beef」として再評価されるようになったことで、川井畜産の土佐あかうしは「あかうしのA3の後半は、価格が黒牛よりええ」「A2やA3のあかうしでも、A4くらいの価格をつけられる」ようになった。

土佐あかうしと黒牛は、同じA4等級の肉でも脂の質が全く違う。「あかうしは脂がさっぱりしてて、ねちっこくない。あかうしはおいしいですよ」そう言う高廣さんの声はひときわ大きかった。「ここまで土佐あかうしの人気が出るとは思っていなかったね。みんなの嗜好にあった、世の中が変わってきた。サシオンリーじゃなくて味。そういう売り方をしてきたのが、そういう流れに変わっていった」

今までやってきたことが「Tosa Rouge Beef」につながった。高知県独自の「Tosa Rouge Beef」という存在が、土佐あかうしを飼育する高知県の農家全体の収入増加につながり、農家が減少している状況の歯止めになってほしいと願う。

 

牛と田の関係

牛を育てる他に、稲を作ることも重要な仕事だ。現在、川井畜産では約5町(*)の田で稲を育てる。稲刈りが終わると、束ねたわらを田んぼに立てて干し、乾いたら牛の餌にする。毎年1月の良い天気が続いた日、従業員や近所の人が田に干していたわらの紐を切り取り、一列に並べて広げる。そのわらの列の上を高廣さんが運転するロールベーラーという機械が走り、わらを巻き上げていく。しばらく走るとピーっという音が鳴り、団子状に固められたわらが転がり出てくる。その後、規共さんがベールグラブという機械を使ってわらの塊を田の端に積み上げ、トラックで保存場所まで運ぶ。抜群のチームワークだ。この団子状のわらが来年の牛の餌になる。昔、農家の役牛として飼われていた土佐あかうし。牛と田の関係は、昔も今も切り離すことができない。

 

これから

高廣さんと規共さんに、それぞれのこれからを聞いた。

規共さんは「徐々に父親から渡されて、自分がやらないかんなってきた。続けていきながら、なんとか経営を安定させたい。安定して出荷していきたいですし、安定しておいしいものを生産していきたい。牛も米も、両方」そう話してくださった。

高廣さんは、少し考えて「あとは息子たちの経営を見ながら、できる範囲で手助けしちゃる。言うことは大体言うてしもうたき、もう言うことはないがですよ」

「この仕事は、今日はすることがないけ何しようと思うことがない。仕事が前にずっと続いている。お米も田の水の管理も、息子に全部ほおりかけちゅうき。肥料を振るのも、こうやったらえいという流れでやってきたき。稲を見て『こればあやったら、こればあで構わんね』『おう、やってみいや』という感じで。全部丸投げでね、いけるように。あとはね、中身の充実をしていく。流れていくしかないしね」

二頭の土佐あかうしから始まった川井畜産。二頭のあかうしを用意してくれた父親の正さんは数年前に亡くなった。高廣さんが町に帰ってきてからも正さんはお米づくりを担い、規共さんが帰ってきてからも、ずっと田の水の管理をしていたそうだ。

「親父はあかうしの飼い始めをしてくれた。やりたいようにやれと。死ぬる前に “お前はやりすぎた。ちっと、すぎたぞ ”と。そう言っちょった」。それはお父さんの最高の褒め言葉だったに違いない。

牛と共に生きる。高廣さんが重ねてきた覚悟は、規共さんに引き継がれる。今日も明日もこれからも、お二人は牛飼いとして生きる。

 

*5町 =50反=約5ha=約50,000㎡=約15,000坪

 

 

 

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香炉峰の雪は簾を撥げて看る

遮那王ものがたり

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みなさん、こんにちは!荒木です。

 

わたしは秋田犬の遮那王を飼っていますが、

今日はその遮那王の目線から土佐町を見てみようと思います💨

 

おととしの年末から、秋田犬の遮那王を飼い始めた。

イオンのペットショップで発見し、ひとめぼれ。

10円玉を財布から取り出して、「表が出たら飼う!」と決めたが、3回裏が出た(笑)

裏が出たけど、即決して飼うことにした。

それから早いもので、あと4か月で2歳になる。

1年半くらい一緒に生活してきたが、

遮那王は土佐町で年齢・種族問わず独自の交友関係を築いている。

 

夜は家の土間に入れているのだが、朝になると外に出たがる。

犬小屋のリードにつなぐと、ずっと外を見ている。朝、大屋敷の前の道を散歩している人にあいさつしているのだ。

また、近所に畑を持つ人にもかわいがってもらっている。

人がとても好きなのだ。

 

散歩に行くと、散歩ルートでだいたいいつも会う人にあいさつしていく。

「わん!」と勢いよく吠えるが、威嚇しているわけではなくて、

「遊んでくれよ!」と呼び掛けているようだ。

 

なじみのない人とすれ違う時は、1人1かわいいもらわないと気が済まないようだ。

遮那王のほうを見て、「かわいい」と言ってもらうまでしつこく追いかけようとする。

そのくせ、いつもかわいがってくれている人と散歩で会うと、めちゃくちゃそっけない。

「遮那王くん」と呼び掛けられても、ガン無視である。

 

近所の薬局の前を通ると、薬局のお姉さんたちがチヤホヤしてくれる。チヤホヤされるのが好きなので、いつも薬局をのぞきに行っている。

あとはDolce&Merendaさんも大好きで、いつも店舗の前にかたくなに居座ろうとするので、引っ張っていくのが大変である。

小学生や中学生にも大人気である。

去年、中学生が遮那王に会いに遊びに来てくれることもあった。

しかし、遮那王は未成年と自分を怖がっている人に対して、とても高圧的で偉そうである。

自分を怖がっている人を一番に追いかけたり追い立てたりしようとする。

 

一度、私たちが散歩しているときに、少しぼーっとしながら自転車に乗っていた学生が、こっちにふらっと来た。

その瞬間、「お前、どこみて漕いどんのじゃ」と言わんばかりに遮那王が吠えまくって、学生さんも目が覚めたようになっていた。

 

遮那王と散歩していて思うのは、土佐町は犬が好きな人が多いというのと、みんな足腰がしっかりしていることである。

遮那王が飛びついてくると結構な力なのだが、みんなそれに動じない。

実家に帰省した時、母が遮那王に飛びつかれて倒れて尻もちをついていた。こんなきれいな尻もちを初めてみた、というくらいの尻もちだった。

土佐町で遮那王に飛びつかれて尻もちをついた人を見たことがない。

 

わたしが旅行しているときなど、かわりに面倒をみてくれる心優しい方々もいる。

その人たちとは、コミュニケーションが取れるようになってきたようで、言葉で言ったことをなんとなく理解して行動している、という話を教えてもらった。

賢い自慢の犬である!

 

色んな人にちやほやされて育っている遮那王だが、一つ土佐町にいて大変なことがある。

それは、湿気!!

遮那王は体質的に肌が弱く、濡れるとすぐ炎症をおこして汗疹のようになってしまうのだが(うつらない)、

梅雨から秋にかけて皮膚病になるのが大変である。

もともと秋田犬は比較的乾燥した寒冷地生まれで、毛皮もぶあつくただでさえ暑さに弱い。

それに湿気が加わって皮膚病になってしまうわけで、動物病院にずっと通院している。

もうすぐ夏が来るが、今年の夏は無事乗り切れることを祈っている。

 

遮那王と散歩していると、色んな人と気軽に挨拶ができて、わたしだけでは見られない世界がみられる。そして、健康にもいい(笑)

実はわたしは超ビビりの怖がりなのだが、遮那王を飼い始めてから、家でお化け(人生で一度も見たことない)にびくびくしなくなった(笑)

本当に、遮那王には毎日感謝が尽きない。

 

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土佐町の人々

牛と共に生きる その4

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牛と共に生きる その3

 

預託施設

町内全体で土佐あかうしを増産していくため、「土佐町内の牛を1割でも預けられる預託施設を町に構えてもらったらどうだろう」という話が組合で持ち上がった。牛を多頭化するためには牛を置く場所が必要になる。牛を預けて飼育できる場所が他にあれば、農家は労働力不足を補い、経営を効率化できる。生産性が上がれば収入が上がり、農家を守ることにつながる。高廣さんは組合長として担当の町職員や当時の町長と話し合いを重ねた。「我々生産者も頑張ってやるき」。2006(平成18)年、50頭近くの牛を預けられる預託施設が町に完成した。預けた牛は冬の間は施設で育て、夏は放牧場へ。町が施設を作り、組合が経営を担う。預けた牛の世話をする常勤の職員を組合で一人雇った。町内全戸の肉用牛農家が組合に加入し、誰もが使いたい時に使えるかたちにした。

他にも、町と農協の両方が出資した資金を置き、個人が頭数を増やしたい時にお金を借りられる仕組みをつくった。「資金がすぐに融通できんでしょ。営農指導員が一つの借用書をこしらえてくれて、連帯保証人はあまりいらないようなかたちで。5年以内に返すという約束で、それだったら返しやすいでしょ。みんなが利用できるかたちをつくって、多頭化してきた経緯があるがですよ」

複雑だった手続きをなるべく簡単にした。生産者の誰もが必要な時に使える仕組みを。使いやすくて継続できる仕組みを。組合で話し合い、町に提案し実現していった。高廣さんはさらりと話してくれたが、意見をまとめ上げる苦労や苦悩は要約して語れることではなかったはずだ。

「一つの組合長をしよった以上、みんながそうあったらいいということは常に考えていかんといかんかなと思う。それだけのことです」。

 

川井規共さんのこと

2001(平成13)年、宮崎県の農業大学校で畜産を学んだ川井規共さんが土佐町に帰ってきた。父親の高廣さんと共に仕事を開始。自分自身で仔牛を飼育して出荷するため、お金を借りて54頭ほど入る牛舎を建てた。市場の競りで生後約8ヶ月の仔牛を4頭買い、育て始めた。約20ヶ月間飼育し、出荷。出荷してスペースが空いたら、また仔牛を買ってきて育てる。そのサイクルをつくっていった。

規共さんは、幼い頃から牛がそばにいることが日常だった。両親と一緒に餌をあげたり、高校生の頃からは機械を使って稲わらや草を短く切り、餌の準備をした。中学3年生の時、家業を継ぐと決め、高知県立高知農業高等学校畜産総合科に進学。その後は畜産の先進地である宮崎県立農業大学校畜産学科へ。母牛を飼ったり牧草を育てたり、トラクターなど大型機械を扱うための大型特殊免許を取得。家畜人工受精師の資格も取得した。卒業後の半年間、宮崎県内で肉用牛の一貫経営を行う農家に住み込みで研修をさせてもらった。各農家でやり方が異なるので、とても勉強になったそうだ。本当はもっと研修を続けたかったそうだが、実家から「帰ってこい」と言われて戻ってきた。2001(平成13)年、規共さんは20歳だった。

 

 

仔牛を育てる

規共さんに、どのように仔牛を育てるのかを聞いた。

現在、川井畜産が育てる350頭の牛のうち100頭が土佐あかうしの母牛だ。母牛が仔牛を産む分娩室が全部で16ほどあり、仔牛を育てる専用の保育施設もある。産まれて2~3週間位したら親子を早期分離させる。3ヶ月間、人間が人口ミルクを与えて世話をする。少しずつ集団に慣らし、5〜6頭の群れにして順次育成。雄は肉用牛に、雌は血統や体質、成長が良いものを見極め、仔牛を産む母牛として残す牛と、肉用牛にする牛とに分ける。

繁殖農家の場合、生後9ヶ月位までに市場へ出すことが一般的だ。一貫経営を行う川井畜産では少しでも熟成させて美味しい肉にするため、31〜32ヶ月の月齢になるまで飼育し、出荷している。

仔牛は産まれて2〜3ヶ月もすれば、ミルクを飲みながら母牛の真似をして食べ始める。仔牛だけが入る部屋があり、その部屋から仔牛は自由に出入りして母牛の元へ行き、母乳を飲んだりしながら日に日に大きくなっていく。

「牛は配合飼料が大好きで。粗飼料をやってから配合飼料をあげると大体寄ってくる。寄ってこん牛は調子悪いんかなと。そういうところでも牛の体調を判断します」

牛の調子が悪い。それはどういう状態なのだろう?

「調子が悪い時は餌を食べない。そういう時は牛に熱があったり、風邪を引いていたりする。仔牛の平均体温は39度。親はそれより低くて38度ちょっと。38度を切ったら低すぎる。ミルクしか飲んでいない仔牛の下痢が続くと、脱水状態になって、低体温になって死んでしまうことがある。そうなる前に、家畜保健所の獣医さんに来てもらって点滴してもらう。そうしないと死にますね」

牛に餌をやる規共さん

健康で元気に育つ牛ばかりではない。何かを踏んで足を痛めたり、昨日まで元気だったのに次の日は体調を崩したり。特に仔牛は寒暖差で風邪を引いたり、熱を出しやすい。「仔牛の場合は下痢を見過ごしちょったら大変やし、肺炎も起こす。肺炎をこじらせたら死んでしまう。こじらせたら元気になっても、その後ずるずる引きずる。大きくなっても季節の変わり目に体調を崩しやすかったり、食べられないとか」

生まれつき弱い牛もいるし、生まれても助からない牛もいる。「風邪を引いた牛の治療が遅れたら自分のミス。朝晩は必ず餌をやるので、餌をやる時が一番牛をみる時ですね。調子の悪い牛がいたら、すぐに気づいて獣医さんに診てもらったりしてケアをする。すぐ死んだりするんで。それが牛飼いの仕事です」

ちなみに、牛が寄って来なかったとしても、反芻している牛は大丈夫なのだという。

「牛って、座ったままでも寝ながらでも口をもぐもぐしてるでしょ。牛は胃が四つあって。一気に消化できんけ、寝てる間にも食べたものが口に戻ってきて。またもぐもぐしながら、そうやって消化していく」。もぐもぐしているのは食べているから。だからこの牛は大丈夫。牛をよく観察し、体調を確認しながら、成長に必要な手助けをする。規共さんの言う「牛をみる」ことは、「見る」ではなく「看る」。人間が子どもを育てることと似ているなと思う。「それが牛飼いの仕事です」。規共さんの声が心に響いた。

 

牛の発情期

観察することはまだある。母牛の発情だ。母牛の発情期は平均21日周期。発情したら他の牛に乗ったり、落ち着きがなくなって鳴いたり、他の牛に乗られてもじーっとしている。その発情動作は一日だけ。見逃さないよう観察し、見つけて種付けをする。もし受精していなかったら、21日周期でまた発情動作が出る。発情動作を見逃したら仔牛は産まれない。見逃してしまうと餌代が増えるだけになるため、妊娠させて産ませるサイクルをできるだけ効率的に繰り返す必要がある。そのため日々の観察が欠かせない。

順調にいけば種付けから約285日後、仔牛が産まれる。無事に出産してから35日以降に発情する牛もいて、その場合はまた種をつける。健康な母牛が1年に1回仔牛を産む、それが目標だ。川井畜産の一番のベテラン母牛は、14~15頭の仔牛を産んでいるそうだ。

分娩前には牛の膣の中へセンサーを入れ、24時間確認をする。お産が近くなると連絡が来て、破水と同時にセンサーが抜け落ちた時には、携帯電話に「駆けつけてください」という連絡が入る仕組みになっている。

多い時は月に10頭以上産まれる時もある。その都度気をつけていながら、行ったらもう産まれていることも。「胎児が大きい場合や逆子の場合は、介助をしちゃらんといかん。気づいちゃれんかって、産まれても死んじゅうときもある」

生まれつき弱くて、獣医さんに点滴をしてもらっても、どこか異常があったりするのか死んでしまうときも。「全部が無事に産まれてきて、元気に育ってくれたらいいですけど。途中で死んだりしたら、死なすのが一番かわいそうなんで。殺してしまうとね、精神的にもしんどい」

牛が死ぬ。規共さんは、そのことを話す時は伏し目がちだった。

 

牛と共に生きる その5 に続く)

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土佐町の人々

牛と共に生きる その3

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牛と共に生きる その2

 

大失敗

高廣さんが30代後半、息子の規共さんが小学生だった時のこと。経験したことのない大失敗をした。

それまで、自分なりの自分の餌一本で土佐あかうしを育てていた。どのように育てているのか見せてほしいと見学に来る人もいた。そんな時、ある人から「これは発育がようなるき、ええぞ。やったらどうぜ」と声をかけられた。

「その一言で狂うた。それまではビタミンBの入った一番安い餌で、年間通じて決めた餌をあげて、仔牛が仕上がっていきよったのよ。その途中、使いよった餌に混ぜる添加物が手に入らなくなった時があった。その時に色々な工夫をしすぎてよね、それが失敗につながった」

牛が肉になった時「あれっ?」となった。肉質があからさまに変わっていた。

「やばいっすよ。恐怖よ、何が悪いんやと」

遡って考えた。時間は戻ってこない。基本からやり直す必要があった。

「餌やさんのいう通りにしよったらやり過ぎるがよ。やるのはしよいがですよ。けど引き算ができんでしょ、蓄積したものは引けないんですよ」

大打撃だった。育ててきた土佐あかうしの価格が年間を通じ、下落した。「めちゃくちゃ安い、餌代を払ったら何ちゃあなかったというやつよ」

育ち盛りの子どもや家族、牛たち。どうやって経営を生活をしていけばいいのか…。途方に暮れた。

「肥育牛には、この時期にこうしたらこうなるって、色々研究したいでしょ。もうちょっとええもんにしたいと思うでしょ。色々やってよね、つまらんことしたなと。分かってない時は良かったけど、半わかりになった時にくるがよ」

これ以上のことをやっちゃろう。色々なことに手を出しすぎてしまった。

「ほんまにこたえた。2年ばあは沈没しちょったけ」

その時、もうやめたいと思わなかったのだろうか?

「いや、やめられんでしょ。食うもんがぶらさがっちゅうきよね。食わさんと、牛たちは生きていけんき。自分は食えんでも食わさないけんきよ。やり始めた以上、後へひけんき」

規模を拡大している途中だったため、まだ助かった。もし今、同じ失敗をしたら家業は潰れる。大失敗の後も同業者と意見を交わし、試行錯誤しながら土佐あかうしを育てた。失敗した経験を振り返り「あそこが悪かった」と理解した。少しずつ、少しずつ「ここを直したらもうじき良くなるな」という体感が得られるようになった。良いと思える地点に戻るまで「めちゃくちゃ時間がかかった」という。

「一回失敗せんと分からんがよ。それを乗り越えた経験で、一つまた強くなるんじゃないかなと思うけんど。それがずっと続くような事はない。僕もええ経験したと思う。ああいうことは絶対せられんぞ、したらこうなるでって、人に話ができるし」

失敗したことも周囲の人と共有するんですねと言うと、「伝えるよ!自分が損したことはね。人を蹴っ飛ばす、落とすようなことはね、自分に返ってくる。自分はどう生きてきたかということになりますきよね。だから人にも嘘は言えん。本当のことしかよう言わんですよ」

「生きていかにゃいかんきね。共生せにゃいかんき、奴らと。全面的な愛情をもってよね、僕らが育てゆうけど、奴らに食わせてもらってるんやき。それだけよ」

高廣さんはそう言って豪快に笑った。当時はとても笑えなかっただろう。その声には失敗を自らの糧にして生き抜いてきた、揺るがない強さがあった。

土佐あかうしの母牛たち

 

糞問題

その後、高廣さんは土佐町の南川地区に土佐あかうしの放牧場をつくり、牛を増やしていった。

当然のことだが、牛は生き物。餌を食べれば糞をする。その糞の処理は、牛を育てる農家共通の頭の痛い問題だった。田畑に混ぜて処理することはとても労力がかかり、限られた耕地へ過剰に還元しすぎるのも良くない。当時、高廣さんは土佐町の肉用牛生産組合の組合長になっていた。肉牛や乳牛を育てる農家で話し合い、「糞を持ち込んで堆肥を作れる施設があればいいと思うが、どうじゃろう」と町役場の担当者に話をした。提案は認められ、町に堆肥センターができることになった。完成は2000(平成12)年。「堆肥センターがあることで、多頭化している農家さんは助かってる。センターがなかったら頭数を増やす事は無理だった。自分達で全部処理することは大変。この糞をどこに持っていこう、多頭化したらそれの繰り返しじゃないですか。安心して処理できるのは、サイクルとして一番大事なことですきね」

大きな悩みが解決し「僕らとしては最高です」。持ち込まれた糞は「たいひくん」という名の堆肥に生まれ変わって町内で販売され、多くの人たちに使われている。

 

 

黒牛を入れる

1965(昭和40)年から1985(昭和60)年頃にかけて、土佐あかうしは「おいしい牛」として、高値で取引されていた。しかし、1990(平成2)年、現在の牛枝肉取引規格による格付けが運用されるようになってから、サシの入り度合いが高いほど評価が高くなった。サシの入り具合によってA5~ C1の15等級があり、最高ランクはA5。それ以降、A5の和牛を目指して改良が進み、サシの入りやすい黒毛和牛がより高値で取引されるようになった。土佐あかうしは頭数が少ないため、改良が追いつかない。土佐あかうしの評価は「おいしい牛」から「サシの入りにくい牛」となり、価格は下がっていった。経営を維持するため黒毛和牛に転換する農家が増えた。一方、高齢化などで農家は減少し、土佐あかうしの頭数も減っていった。

「なぜうちに黒牛がおるのかというたら、そこなんですよ。息子が宮崎県の農業大学校へ行っている頃、土佐あかうしで生活ができないくらい、飼料も何もかも値上がってきて。がっつりあかうしの頭数も減り出した。この際やったら黒牛を入れていくべきかなと。そこそこええ系統の黒牛を入れて、経営してかないと面白くないぞ、と」。そこから土佐あかうしを飼育していた牛舎に黒牛も入れ始めた。現在、川井畜産の牛350頭のうち6割は土佐あかうし、4割が黒牛である。

 

牛と共に生きる その4 に続く)

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土佐町の人々

牛と共に生きる その2

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牛と共に生きる その1

 

一棟目の牛舎

1974(昭和49)年、閉山した大川村の白滝鉱山から払い下げがあると聞き、倉庫を購入した。柱や屋根を解体してトラックに積み、土佐町へ運んで移築した。現在の川井畜産の入口にあたる場所、相川橋を渡ってすぐ右側の牛舎がそれにあたる。

「主な建物が白滝の倉庫で、平屋じゃったのを二階建てに改造して。牛が入り切らんなったらいかんき、運動場付きにして屋根をして。牛舎うしろの鉄骨を継ぎ足して、前のひさしの部分は、自分くの山の木を親と二人で担いで出して、製材所に持っていって」。これが初めて建てた牛舎だった。

1979(昭和54)年、新たに青い屋根の牛舎を建てた。1981(昭和56)年には鉄骨の牛舎を。順次増える頭数に合わせて、規模を拡大していった。

1981年2月、息子の川井規共さんが生まれた。高廣さんが29歳の時である。

52年前に建てた初めての牛舎は、今も現役

 

牛が食べるもの

牛の主食は粗飼料と呼ばれる繊維質が豊富な牧草や稲わら。これだけでは栄養素が不足するため、トウモロコシや大麦、ミネラル等をバランス良く配合・加工した配合飼料を与えることが一般的だ。高廣さんが土佐あかうしを育て始めた頃、現在のような配合飼料はなかったそうだ。

配合飼料は家畜の発育段階に合わせて作られている。牛用の場合は肉牛用と乳牛用がある。肉牛用の飼料は「繁殖用」と「肥育用」があり、「肥育用」は前期、中期、後期に分かれる。それぞれの目的や時期で飼料の内容が異なる。

川井畜産では、肥育牛の前期では高タンパク低カロリーの乾草を主体とした飼料を与え、牛の第1胃を発達させてしっかりとした「腹づくり」をする。内臓や骨格をしっかりと作り上げ、筋肉をつけていく大事な過程だ。前期で失敗したら、あとの生育に大きく影響してくる。

中期からは高カロリーの濃厚飼料と稲わらを与え、仕上げに向けて少しずつ濃厚飼料の割合を増やしていく。余分な脂がつかないように餌の量を考え、じっくりと育て上げる。

栄養状態が良すぎると余分な栄養素が肝臓へ蓄積してしまう。贅沢なものを多く食べさせたらいいという話ではない。そのさじ加減が牛の肉質を変える。牛を育てる農家の腕の見せ所なのだという。

 

モーニング討論

高廣さんには、高知県窪川で牛を飼う同期の友人がいた。市場に肉用牛を出荷したら、必ず一緒に喫茶店のモーニングに行った。「当時は屠殺場の中に入れてくれて。割った牛の枝を見て、俺の牛は枝のここにサシがでちゅう、これはこういうことやな、こうやったらこうなるぞ。昼までぎっちりその話をして。大事な情報交換の場だった。それがあって今があるんですよ」

「枝」とは「枝肉」のこと。肉用牛の皮や頭、内臓や四肢や尾を除くと、肉が木の枝のような形になることからそう呼ばれる。市場取引の場では枝肉の重量やサシの入り具合、肉の色など肉質によって格付けされる。

育て上げた牛を殺すことで初めて分かる肉質。数年間の成果が試される。「俺はこう思うってみんなが意見を出し合うてよね。県の研究員とも色々話しながら、この時期が一番大事だぞ、この時期にこういう餌の与え方をしちょって、牛がこういう形になった時はその時期を過ぎたらこの餌を与えたらいい、とか。高レベル高単位のものをずっとやりぬけて牛が育ってサシが出るかっていうと、そんな問題じゃないがですよ」

「血統的にずば抜けたやつは問題ないけど。普通の流れの牛は前期12ヶ月まではこれ、20ヶ月まではこれ、という流れで仕上げていく。やり方は色々、みんな個性があってね。みんなある程度勉強してやっちゅう」

どうしたらえい牛が育つのか?この時期はこの餌。あの時期はあの餌。この流れでいったら、こういう牛になる。実践を繰り返しながら、「えい牛」が育つ一連の流れが少しずつできていった。

 

 

牛と共に生きる その3 へ続く)

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土佐町の人々

牛と共に生きる その1

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日当たりの良い山あいの道を上っていくと、時折牛の鳴き声が響く。土佐町相川地区で牛を育てる川井畜産。道の途中に建つ牛舎には、土佐あかうしの母牛と仔牛、黒牛がいた。8頭ほどの牛たちは皆、太陽に体を預けるように目を細め、人の気配を感じたのか、ゆっくりと顔をこちらに向けた。仔牛はコンクリートの餌場にちょこんと収まって日向ぼっこ。仔牛が母牛に体を寄せると母牛は優しいまなざしを向け、気持ちよさそうに日差しを浴びていた。

土佐町は土佐あかうしの日本一の生産地。土佐あかうしは土佐褐毛牛ともいわれ、高知県の山間部を中心に飼育されている褐色の毛をした牛のこと。年間500~600頭しか出荷されていない貴重な品種で「幻の和牛」と呼ばれている。赤身のなかに適度なサシ(網目のような白い脂肪)が入り、上品で控えめな脂があって、旨味が濃い。近年ますます人気が高まっている。

牛の生産農家には2種類ある。母牛を飼育して仔牛を産ませ、約7~9ヶ月間飼育した仔牛を市場へ出荷する繁殖農家と、市場で仔牛を買って約20ヵ月かけて肉牛として飼育し、出荷する肥育農家がある。

川井畜産では繁殖から肥育、出荷までの一貫経営をおこなっており、土佐あかうしと黒牛を合わせ、現在約350頭の牛を飼育している。

土佐町にはかつて100戸ほど牛の畜産農家があったが、現在は生産者の高齢化などで20戸以下に減少。その中で一貫経営をしているのは川井畜産を含めて3戸。川井高廣さんが一貫経営を開始し、息子の規共さんが経営を引き継ぎながら、家族や従業員と共に日々牛を育てている。

 

一日の始まり

早朝5時半すぎ、川井畜産の一日が始まる。

8つある牛舎を順番に回り、牛に餌をやる。生後17ヶ月から出荷するまでの牛を育てる牛舎で、餌を与えるところを見せてもらった。

凍てつく12月の朝。牛も人も呼吸するたび白い息があがる。牛舎は6畳程の広さに区切られた部屋が並び、床にはおがくずが厚く敷かれている。柵の間から顔を出せるようになっていて、高廣さんが近づくとそばに寄ってくる。仔牛は生まれてからひと月も経たないうちに親から離し、牛用のミルクをやって育てる。「一頭ずつ3ヶ月間、毎日朝晩。初めは二リットルの哺乳瓶であげて、だんだんと量を増やしていく。人間が全部やっちゅうきよね、うんと甘えよね」

牛舎外側には牛の水飲み場が設けられている。牛が飲む水は山の谷から引いている。「牛にとって水を飲むのはすごく大事なこと。きれいな水を飲まんといかん」

牛は柵の外へ顔を出し、水を飲む。高廣さんは手桶とバケツ、小さなスポンジを持って水飲み場の掃除を始めた。牛が水を飲むうちに、糞や餌のかすが水中に混じる。手桶でかすを汲み取ってバケツへ。ザブン、ザブン。冷え切った空気に水音が響く。高廣さんは水飲み場を1箇所ずつ、スポンジで擦ってきれいにする。水が減ると新しい水が供給され、氷点下になると水が凍らないよう自動的にヒーターのスイッチが入る。水を触ってみたら、ぬるま湯よりもややぬるい。

その間に高廣さんの妻・三津子さんが飼槽に稲わらを入れていき、掃除を終えた高廣さんが配合飼料を入れる。牛は鼻先やあごに飼料をくっつけながら、長い舌で舐め取って口に運ぶ。「おいしいんやねえ」と思わず声をかけたほど、満ち足りた表情だった。

8時過ぎ、朝の餌やりが終わると、人間が朝ごはんを食べる。朝ごはんを食べ終わったら、田畑の仕事をし、調子の悪い牛がいれば獣医さんに診察をしてもらったり、発情期を迎えた牛がいれば家畜人工授精師に連絡をし、来てもらって種付けをする。夕方16時頃からは夜の餌やり。全ての牛舎の餌やりが終わるのは18時過ぎ。明日の朝の餌の準備をして、一日の仕事は終了となる。

一年中365日、毎日の仕事。従業員の休日はあるが、高廣さんご夫妻と規共さんご夫妻は何か用事がある時以外、休みはない。

朝の餌やりが終わった頃、雪が降り始めた。

 

 

ブルー・ライト・ヨコハマ

牛舎ではFM放送が流れている。ほぼ昭和の歌謡曲で、隣の人との会話が聞こえないくらいの音量だ。「ラジオをつけるのは音や人の気配に慣れるため。音が何にもないところへ知らん人が来たら、走り回ったりして大変なことになる。夜に餌をやって家に帰るまで、一日中聴かせてる。あの曲聴きたいって牛は言わんけど」そう言って高廣さんは笑った。

川井畜産の牛たちは、いしだあゆみさんが歌うブルー・ライト・ヨコハマを聴いて育つ。

 

川井高廣さんのこと

1952(昭和27)年、川井高廣さんは土佐町相川の中代地区で生まれた。学校へ行く前、山にコブテ(小枝で作った罠)を仕掛け、小鳥を捕ったりして遊んだ。両親は農業を営み、田畑を耕す役牛として土佐あかうしを一頭飼っていた。

「僕が高校を卒業する頃には、農家は機械化されていった。10戸の内5戸くらいは役牛として土佐あかうしを飼いよったのが、だんだんと肉用に切り替わってきて。畜産センターなどを利用して種をつけて、子は市場で売る流れになってきた」

当時、近所には酪農を営む家が20戸ほどあり、後継者もいた。肉用牛を育てる人の後継者はおらず、多頭化する人もいなかった。嶺北高校を卒業後、親戚の勧めもあり山口営農技術研修所へ進学。2年間畜産について学び、1973(昭和47)年、20歳の時に土佐町に帰ってきた。

帰ってくる前、父親の正さんが牛小屋を建て「やりたいようにやらしちゃるき、飼え」と、土佐あかうしを二頭用意した。「親父は『長男はやるべきや、そうせないかん』と。戻ってきたのはええけんど、何にもない状態よね。酪農組合の青年部の付き合いをしながら、ホルスタインのヌレ子(産まれて間もない生後2週間くらいの赤ちゃん)を分けてもろうてね、それを育てて、肉牛に仕上げて出荷するという感じでやり始めた」

それが、川井畜産のはじまりだった。

 

(牛と共に生きる その2 に続く)

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4001プロジェクト

藤田光三(田井)

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藤田光三さんは、私(石川)のすぐご近所にお住まいの、山の達人。

道つくりの日には班の全員が鎌を手に集合しているところ、光三さんだけは草刈機やチェーンソーを持って現れる。

私がいつもの犬の散歩道を歩いていると、ふだん人影を見ることのない細い山道に光三さんの人影が。

聞くと、ツル野菜のツル用の網を作るため、竹を採りに来たという。

確認はしなかったけれど、ここも光三さんの山?なのかもしれない。

いつ会っても、なんか楽しそうにニコニコしている大先輩です。

 

 

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三代さんの力こぶ その3

 

夫の死

三代さんが59歳の時だった。夫である秀昭さんが自ら命を断った。林業会社の経営がうまくいかなくなり、お金が回らなくなっていた。

三代さんと秀昭さんは同級生で、駆け落ちをしたほどの大恋愛だった。「とてもいい人だった。頭も良くて。賢い人って目の奥が光ってるじゃない?そんな人やった」

結婚後、秀昭さんは三代さんの父親が経営していた林業会社で働き始め、後に製材を始めた。

小径木は原木のままだと売れにくいため、製材して売ろう。そう考え、お金を借りて設備投資し、大型機材を入れた。海外から安い材木がどんどん入ってくる時期でもあり、量では戦えないと判断。質を重視し、全国各地の設計士と関係を作っていった。30年間経営を続けたが、それ以上は難しかった。「いかんくなる時は抗い難い流れになっていく。流されて、巻き込まれてしまった」。秀昭さんが亡くなった後、残務処理は息子さんが一手に引き受けてくれた。

三代さんは仕事を探すため、ハローワークに通い始めた。高知市まで車で約1時間。山を抜けるように国道32号線を走った。

「その車の中が一番地獄やった」

一番近くにおったのにあの人を一人にしてしもうた。もっとできることがあったんじゃないか。あの時こうしよったらよかった、ああしたらよかった。

「繰り返し、繰り返し自問する。それが一番苦しかった」

自問自答しても過去に戻ることはできない。それは分かっているのに、何度も自分に問いかけて、自分を責め続けた。なんで、なんで、なんで。

「その時に色々考えるわね。ああ、あそこのあの人もああいうことがあって大変やったろうな、こっちのあの人もああいうことがあったから幸せじゃなかったろうね、とか。人の不幸ばっかり考える。あの人も不幸やった、あの人も不幸やった、私だけじゃない、みたいな。多分それは自分の生命力なんやろうと思う。生きていくための。今は全然そんなことは考えんきね。自分だけじゃないっていうことで自分を納得させる、頑張らないかんって。自分の寂しさとか苦しさを押し込めていく原動力にしたんじゃないかなと思う」

「押し込めて生きていくしかないもんね。そういう思いを持ちながら、そういう覚悟を持ちながら、今を生きていくしかない。みんな大なり小なり、その人の一番しんどいのを味わっちゅうがよ」

三代さんはハローワークに通いながら、パソコンの勉強をした。失業手当がもらえる間に何か仕事を見つけないといけない。そんな時に友人が声をかけてくれた。先述した役場の臨時職員の仕事、青木幹勇記念館の仕事だった。

「友人は同級生やけど、ずっと連絡を取り合っているような仲じゃなかった。でも、そういう巡り合わせの人っているわね。記念館の仕事の話もそうやし、娘が入院した時も、ちょうど役場の住民福祉課に勤めていて、障害者年金について教えてくれた。こういう制度があるよ、って。そのおかげで金銭的に助かってね」

地獄の底にいた時、手を差し出してくれた人たちがいた。付かず離れずの距離感で、いつもどこかで伴走してくれていた。残務処理をする息子さんを手助けしてくれた人や、たびたび訪れてさりげなく声をかけてくれる人もいた。

「一番しんどい時、本当に親身になってくれた人たちが何人もいる。その人たちがいてくれたから、今がある」

あの時、あとを追って死のうとは思わなかった。「いろいろなことを経験して、走ってきた。何とかやりくりしながら、ここまで生きてきた。生きる力やろうね」

 

言葉って大事

今回三代さんにお話をうかがっている間、何人もの人が記念館にやって来た。

ある時、三代さんと一緒に食べようとお弁当を二つ持ってきた人がいた。80歳を超えた位の年齢のその人は、私にも「一緒に食べようや!」と声をかけてくれた。お弁当のふたを裏返してお皿代わりに、おかずの煮物やみかんをのせてくれた。三代さんも「ごはんが多めだから食べて」と分けてくれた。ふたの上にはもう一つのお弁当ができた。「みんなで食べると美味しいよねえ!」とその人は言った。そして、「三代さんはすごいよ!いつもここにいてくれて。私もおしゃべりしに、よくここに来るんよ」と言った。続けて「毎日その日にすることを箇条書きにして、終わったものは線を引いていくと励みになる」という話をしてくれた。「私はね、私に解決できないことはない!と思って生きてるんよ」と一際大きな声で言った。三代さんは「すごいよねえ!かっこえい。勉強になります」と拍手しながら、笑顔で頭をさげていた。

三人で話しながらお弁当を食べた。しみじみと、とても美味しいお弁当だった。人は関わり合って言葉を交わし合って、互いに影響を与え合っている。知っていたはずのことを再確認した思いだった。

三代さんも訪れる人たちに生きる力をもらっているのだ。この場所は、来る人も迎える人も誰しもがあたたかい。互いの存在を応援し合っているような気がする。ここにいると自分の存在には意味があると思える。それは人間が人間らしく生きる上で必須の実感なのだと思う。人は誰しも、誰かに応援されながら、誰かを応援しながら生きているし、そうやって生きていきたいのだと思う。だから人は記念館に足を運ぶ。

三代さんが言っていた。「ある人が “言葉って刺すんですよね” って話してくれたことがあって。言葉も視線も人を刺す。だからどんな言葉を使うのか、どんな風に向き合うかが大事だよね」。三代さんはそれが綺麗事でないことを知っている。

言葉は時には武器になることもある。言った言葉は取り消すことはできない。でも交わされる言葉が、相手を思いやったものであり、互いによかったなあと思えるものであれば、人はお互いの応援者になれる。互いの応援者である人たちが集まれば、そこは誰にとっても安心できる居場所になる。

今日も記念館は開いている。お土産のカステラを持って行こう。三代さんはきっと喜んでくれるだろう。きっとどなたかがいて、笑い合えるだろう。6年前、三代さんが見せてくれた力こぶは、今も変わらずに私の背中を押し続ける。

 

 

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