国道439号沿いにある「道の駅土佐さめうら」にあるレストラン「与作」。
訪れる人々の胃袋をがっつり掴んでいる名店です。
今日のこの写真は、与作で働く4人の女性陣。左から伊藤あおいさん、中村久美子さん、伊藤歳美さん、田岡マリア・ジェーンさん。いつも仲良さげに働いている姿が印象的です。
ちなみに私(石川)、この3年ほど与作を訪れるたびにカツカレーを頼んでいます。(どうでもいい情報でした笑)
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土佐町の現在の人口です。(2017年6月末時点・土佐町公式サイトによる)
注:土佐町の総人口が3,997人(2017年4月末時点)から4,001人(6月末時点)に増加したことに伴い、当プロジェクト名も「4,001プロジェクト」に変更になりました。
“4,001プロジェクト”は土佐町に住む人々を、全員もれなく、写真家の石川拓也が撮影する計画。
念のため書いておくと、「全員もれなく」…あくまで目標です。
土佐町の人口の増減によって、タイトルもたまに変わります。 (敬称略・撮れたときに不定期更新)
「哲学と宗教全史」 出口治明 ダイヤモンド社
500ページ近くある分厚い本ですが、読了したときには静かに拍手を送りたくなるような良い本でした。
以前「全世界史」も紹介した出口治明さんが、「哲学と宗教」にフォーカスして「人類全史」を書くとこうなる。
有史以来、人類が命がけで紡いできた生き延びるための「思想」の全体像が、朧げながらつかめてくるような気がします。
個人的に、抜群におもしろいのはやはり古代。
東は仏教・バラモン教・ジャイナ教などが発祥したインド、古代〜中世中華が育んだ儒教・道教・仏教の中華三大宗教。
西はギリシャ哲学の諸々派や、世界最古の宗教といわれるゾロアスター教(拝火教)から、セム系一神教(アブラハムの宗教)のユダヤ教・キリスト教・イスラム教の誕生と発展。
私たちが生きる現代のこの世界が、先人たちの知的格闘の末に作り上げられたものであるということがよくわかります。
仏典や聖書・クルアーン、四書五経、実存主義・唯物論から構造主義まで。頭がクラクラしてきます。
蛇足ですが、古代・中世の日本では、時の権力者の方針により、仏教と儒教を行ったり来たりしていたようです。
このふたつに対しては、日本人として理解できる肌感覚がありますが、なぜそこで道教が3つ目の選択肢として根付かなかったのか。謎であるとともに、道教のスローライフ的な教えが興味深く、少々惜しい気がします。
7月20日に発行した「とさちょうものがたりzine 06」。おかげさまで多くの方々から反響、感想などいただいております。
06号は「とさちょうものづくり」と題して、これまでの取り組みをご紹介した号になっています。今回の記事は、その06号に掲載した文章です。シルクスクリーン事業の根本的な目的などに触れた「仕事のことお金のこと」(著:石川拓也)です。
とさちょうものがたりには様々な事業が同時進行している中で、全てに共通している根本があります。
それはこれまで土佐町で紡がれてきた「物語」の続きの一部であろうすること。
歴史の中で辿りようもないぐらいはるか以前から、この地で暮らしてきた何世代にも渡る人々の営みが現在の土佐町を作ってきました。
おじいちゃんやおばあちゃんの世代、またその前の世代と、時代は違えどそのときそのときの町の人々の小さな営みのひとつひとつが、現在の土佐町を作ってきたと考えています。
その小さな営みの膨大な積み重ねのほんのわずかな表面に、現在という時間があるということは、土佐町の地面、田んぼや石垣などが与えてくれる実感です。
とさちょうものがたりはその「物語」をできるだけ深く理解した上で、その物語にきちんと接続した小さな「新しい物語」を繋げることを目的のひとつとしています。
深く、さらに深く土佐町の地面につながっていくこと。そこから芽生えてくる物語を大切にすること。
それがとさちょうものがたりの「縦糸」です。
対してとさちょうものがたりの「横糸」は、同時代を生きる人々との繋がり。
特に現在の土佐町に生きる人々ときちんと繋がり、できるだけお互いを理解した上で、力を合わせて共に仕事をしたい。
さらに多くの周りの人々を少し笑顔にするために、地域の人々とお互いに持てる力を出し合って一つの仕事を完遂していく。そのことが自分たちの笑顔も作っていく。それがとさちょうものがたりの横糸です。
縦糸と横糸、この両方がバランスよく揃ってとさちょうものがたりの全体が編まれていく。そんな思いがとさちょうものがたりの活動のひとつひとつの根底に流れています。
これもとさちょうものがたりがとても大切にしていることのひとつです。
特にシルクスクリーン事業に関してはこれを可能な限り徹底しようとしています。「商売が商売である」とはどういうことか?
これは町で商売や事業をしている方々にとっては当たり前の単純明快なこと。
①ものを作る。②販売する。③その代金を関わった人たちのお給料にする。④利益を遣って次の材料や機材を仕入れる。⑤さらに良いものを作る。 そして①〜⑤の繰り返し。
自分たちがきちんと稼ぐためには、まずお客さんを喜ばすこと。お客さんがお金を払って「ほしい」と言ってくれるものを作っていること。その単純明快な論理の中に踏みとどまって良い仕事を続けていくこと。
それがとさちょうものがたりが考える「商売が商売である」ということです。
とさちょうものがたりのシルクスクリーン事業のスタートは、「地域の自分たちで作れるものは自分たちで作ろう」という思いからでした。
都会の業者さんにお願いした場合には地域外に流れていくお金を、自分たちで作ることで地域外に逃がさないようにするということ。そうしてできた仕事に、仕事を必要としている地域の人が取り組み実現させていくということ。さらにこういった仕事のひとつひとつを、たとえ不器用でも着実に完遂していくことで、仕事をする人々だけでなく、仕事をお願いしてくれる地域の人々にも、その経験値が蓄積されていくということ。
そうした一方通行ではない、相互に生きた経験を積み上げるほどに、関わってくれる地域の方々との間に理解が深まっていくのを実感します。
主に地域の方々のおかげで、シルクスクリーン事業は年間約1,000点~1,200点の商品を製作し販売することができています。ざっとした言い方になりますが、これは単純計算で約250~300万円の売上になります。
そこから人件費や材料費・機材費などをまかなっています。シルクスクリーンの作業に必須の乾燥機・プレス機などは売上を少しずつプールした上で購入しています。インクなどの材料代や、Tシャツやポロシャツなどの仕入れ代もこの売上を循環させる形での購入です。 もちろん、どんぐりやファーストのメンバーさんの賃金もこの売上から。年間約80万円前後が賃金として支払われます。
この事業にとって、お金は最終的な目的ではありませんが、目的に到達するためのとても大切な一要素。際限の無い右肩上がりの成長を目標としている訳でもなく、この事業にとっての「適正サイズ」であることが大事と考えています。
全ての仕事、全てのものづくりの目的は、関わるすべての方々の目の輝き。もしくは笑顔、と言い換えてもかまいません。「すべての方々」は共に仕事をする人々、関心を持って応援をしてくれる町の方々、もちろん購入していただくお客さん、文字通り「すべての方々」です。
「商売が商売である」仕事には多少なりとも失敗するリスクが付きものと思いますが、(例えばシルクスクリーンでは仕入れたTシャツをミスしてダメにすることが時にあります)そのリスクを乗り越えて世の役に立つものを作れた時に、本当の意味で仕事の価値や喜びや誇りが培われるのだと思います。
その少しのリスクを自分たちの力で解決して、お客さんが必要とするものを作ることができた時に、本当の意味での目の輝き、本当の意味での笑顔が見れるのだろうと考えています。
とさちょうものがたりの様々な事業で関わってくれている全ての方々が、本当の意味での目の輝きを見せてくれること。それがとさちょうものがたりの仕事をする最終的な目的であると考えています。
その目的のために仕事がある。その目的のためにみんなで力を合わせて、一人では乗り越えられない問題を乗り越えていく。
「商売が商売であること」や「各人がお金をきちんと稼ぐこと」は、その目的に到達するための大事な手段。すべきことをきちんとやって、みんなで気持ちよく笑おうよ。それがとさちょうものがたりの基本的な姿勢です。
撮影場所は中島観音堂。
土佐町役場の若手職員が今春に挑戦した「中島観音堂クラウドファンディング」は、左上に見える通夜堂と左中の石灯籠の修復資金を募るためのものでした。
本当にたくさんの方々にご協力いただき、おかげさまで無事に修復は完了しました。この写真は修復後に撮影したものです。
本来であれば、7月25日に予定していた中島の夏祭りでの一コマの写真になるはずでしたが、コロナ禍のため今年の夏祭りは中止に。ではせめて提灯だけでも飾って(提灯の下に下がっているのは、CFのリターンのひとつであるネームタグです。支援者のお名前が刻まれています)写真を撮ろうということに相成りました。
このポストカードは、やはりCFのリターンのひとつでもあり、支援していただいた全ての方々にお礼のメッセージとともに送られます。
7/22現在、プロジェクトチームのメンバーがメッセージを丁寧に書いている最中ですので、支援していただいた方々は楽しみにしていてくださいね。
「チェーザレ 破壊の創造者」 惣領冬実 講談社
このコロナ禍で遠出がままならなかった時期に、以前から気になっていたマンガを大人買いして一気読みという休日を過ごしていました。
「チェーザレ」は1500年代に活躍した政治家チェーザレ・ボルジアの伝記マンガ。
小耳に挟んだところによると、西欧史の中でチェーザレ・ボルジアはどちらかというと悪役イメージを担わされていることが多いのだそうですが、この作品はそのチェーザレ像に新たな光を当て、とても奥深く魅力的な主人公として命を吹き込んでいます。
同時にルネッサンス期のイタリアを中心としたヨーロッパの政治宗教的な状況や、学生や庶民の文化習俗にいたるまで、説明過多にならず、且つその息遣いも聞こえてくるような距離感で展開されます。
紙面での建築物の再現も息を呑むほどの精密さで、システィーナ礼拝堂の内観などもストーリー上登場しますが、ミケランジェロが天井画を描く前の時期の礼拝堂を、想像力も交えながら精密に再現しています。ちなみに2枚目の写真はピサに実在したボルジア邸の内観。見事です。
歴史マンガの非常に面白いところは、教科書で「習う」「覚える」ものであった歴史の一要素を、登場人物の様々な感情に共感しながらその出来事や事件を「体験」できるものとして現前してくれること。
例えば「カノッサの屈辱」というキリスト教史の大事件が、この漫画に出てきます。ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世から信徒としての破門を言い渡される大事件です。
教科書で読むとそういう説明になってしまうのですが、マンガの中ではそれが皇帝も教皇も1人の感情豊かな人間として、怒り、悔しさ、怖れなどを抱えながら先の見えない未来を掴もうともがく様が伝わってきます。
そうすると「カノッサの屈辱」は、生々しい体験として読者の心に刻まれる。そこがマンガの強さでもあると思います。