山深く入っていった能地という地域にあります。写真中央に流れる一筋の滝が見えるでしょうか。
翠ヶ滝は日本でもなかなか珍しい「裏見の滝」。滝の裏側にある窪地にお堂が建っていて、滝の裏からの風景が臨めます。お堂を覗いているのは氏次大和くん。
ここは昔から地元の方の信仰の地であったようで、以下のような空海伝説も残っています。
弘法大師の申し出をこんなに無下にするお話も珍しいんではないでしょうか?少し笑ってしまいました。
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図らずもTPP。あっちのTPPではありません。
土佐町在住の写真家、石川拓也がひと月に1枚のポストカードを作るプロジェクト。
2016年11月から始まり、たまに遅れたりもしながら、いちおう、今のところ、毎月1枚発表しています。
各ポストカードは土佐町役場の玄関と道の駅さめうらにて無料で配布しています。
ここは昔から地元の方の信仰の地であったようで、以下のような空海伝説も残っています。
弘法大師の申し出をこんなに無下にするお話も珍しいんではないでしょうか?少し笑ってしまいました。
文:渡部仁海
前編はこちら
6月末再び土佐町を訪れ、髙峯神社の宮司を務めておられた宮元先生や世話人さん達と共に、車3台を連ねて再び髙峯神社へのガレ道を進んでいきました。
参道までの道すがら車内で宮元先生や世話人さんに髙峯神社の成り立ちや祀られている御祭神などについて色々とお話を伺いました。
まず神社が最初に建立されたのは今より1600年余りも昔のことで、御祭神は山の神である大山祇神(オオヤマツミノカミ)をはじめ、古事記にも記されている食べ物や産業の神様「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」や竈の神様など、山で暮らす人々にとっていずれも身近な神様であります。
現代社会のように流通が発達しているわけでもなく、ほんの少しの自然の力によって自分たちの命を支える作物が失われてしまう古い時代に生きた人々にとっては、食や自然を司る神仏に関する畏敬の念は相当なものであったであろうことは想像に難くありません。
道中かつての参道が残っているという場所を走り、現存する町石(ちょういし:参拝者の為に一町ごとに置かれた道標)も見せていただきました。
「是従(是より)三宝山へ〇丁」と刻まれております。
先に述べた扁額の「三寶山(三宝山)」という名前の山が近隣に見当たらないことから、三宝とは竈の神である、三宝荒神のものではないかなと推測しています。
こうした道標も参拝者が少ない寺社には不必要なものであることから、往時は多くの参拝者で賑わっていたことを示す貴重な資料です。
やがて私達一行は神社の参道入り口に辿り着き、豊かな苔の参道を歩いていきました。
当初よそ者扱いされないかと一抹の不安があったものの、有り難いことに「若い人がこの神社に興味を持ってくれている」と皆さん好意的で、参道の途中でみんなで記念撮影となりました。
ささやかですが、自分が興味を持った場所にこうして少しでも足跡が残るというのは嬉しいものです。
『ああ、都市部を中心に信仰が形だけのものになりつつあるけれど、ここには神社を中心とした昔ながらの人の輪が残されているんだなぁ。』と一宗教家として感慨深いものがありました。
さて、参道沿いには数々の石灯籠がありますが、その中に一つ前回訪れた際に気になっていた、これまた他ではまず無い面白いものがあります。
通常神社仏閣の石灯籠は実際に灯すかどうかは別として、参道や境内を照らす明かりとして設置されることが多いのですが、ここの石塔の一つはそうした用途のものではなく、ポーズも凝った大きな鷹の像が飾られています。
初めて見るものでしたから、解説してくれる人が居なかったら何かとんでもなく恐ろしいモノでも封じ込めてるのかと勘違いしそうな程造り込まれたものです。
(実際強い生き物や伝説の人物等をお祀りすることで災いを避けようという意味合いの物を置いてある神社もあります)
宮司の宮元先生のお話によるとこの辺りは雑穀、特に豆類が育ちにくかったらしく、それらを荒らすスズメやネズミを捕食する鷹を神格化したものではないでしょうか。
これだけでも一見の価値ありです。
樹齢が200年は越えているという巨木を眺めながらさらに参道を進み、縁起物の象徴である鶴と蓑亀が彫られた屋根をくぐり、いよいよ前回は入ることができなかった拝殿の中へと進みます。
拝殿の中は至ってシンプルな空間ではありますが、かつて境内で行われていた奉納相撲の様子を描いた古い額や、往時の賑わいを思わせる神輿や古い書物など興味深く拝見しました。
中にひと際大きな額があり、描かれている絵は経年によりだいぶ薄れてはいましたが、中心に姫神様(豊受大御神だと思われる)を中心に恵比寿様や大黒天様など七福神らしい縁起のいい神様達が描かれております。
今回も残念ながら神様がお祀りされている正殿へはカギが無かったため入ることはできませんでしたが、神様や信奉されている方々に僭越なことがあってはなりません。
ここまでなら良し、という御神意だと受け止めることにしました。
拝殿内で宮元先生や総代さん達に伺ったところでは昔は讃岐のこんぴらさんと並ぶほどの参詣者があり、麓には旅館や飲食店までもあったそうです。
「ワシらが子供の頃は夏祭りには今よりもっと夜店が出て、ここらの子は皆遊びに来とった。」
「そうそう、この下で相撲とったりもしよった。」
と思い出話を語り合う総代さん達が実に懐かしそう。
皆さんとの参拝を終え、集会所に残された古い文を読むとそうした賑やかだった頃、神社の参道、つまり山の上まで大勢の男女で重さおよそ13トンにも及ぶ巨石を手洗い石とするために引き上げたとあります。
現在この手洗い石は参道を少し下った辺りに今もあり、その脇には当時の様子が刻まれた「傳永遠(でんえいえん:永遠に伝える)」と書かれた石碑が立っております。
傳永遠
当山鎮座髙峰神社は、古来農作の守護神にして藩主の 信篤く、県内外各地に多数の崇敬者を有する格別由緒深き古社なり。
明治十年三月偶本山東麓石原川畔に好適の手洗石を発見し、これが曳き揚げ奉納の計画をたてたり。
しかるに現位置までは羊腸たる坂路三十町余りにして、しかも数千貫の巨石をただ人力のみに頼りて曳き揚ぐるは容易の業にあらざりしが、これの壮挙を伝え聞きたる遠近の崇敬者等相集まり、毎春農閑の季に熱誠曳石作業を奉仕し、わずかに五ヶ年にしてついに山の九合目までは運び揚げたるも、明治十五年にいたり諸種の故障ありてこの事業を中止せり。
しかり春風秋雨五十余年いたずらにその巨体を路傍に曝すのみにして、まことに大神に対し奉り恐懼に堪えざりき。ここにおいて昭和三年村長西村繁太郎、崇敬者と相謀り、御大典記念事業として奉献曳石完成同盟会を組織し篤志家の献金と崇敬家の協力とを得て、昭和三年十一月曳揚を終わりこの所をよき所と選び定め、据付工事を竣工し、多年の念願を成就したり。
よってその経緯を録し、永く記念せんがため石に刻してこれを建つと伝えんや。
昭和十一年十一月
選文 高知県神職会長 従七位勲八等 竹崎五朗
題書 元地方事務官 正六位勲六等 近森茂樹
勲七等 梶浦憲夫 謹書
近藤壽美 彫
*編集部注:送り仮名・旧漢字の一部を読みやすく改変しています。
羊腸の如く細く曲がりくねった山道を、人力のみで13トンもの巨石を引っ張り上げる・・・私のようなモヤシは想像しただけで気が遠のきそうですが、それほどまでに当時の人々を惹きつけた髙峯神社の御神徳にただただ恐れ入るばかりです。
現在都会にも観光地にも有名で大きく、塗り直されて社殿もきらびやかな神社はたくさんありますが、戦後の高度経済成長期における開発ラッシュや、その他時代の流れと共に鎮守の森のような本来の御神域は消えてしまったところも少なくはなく、そういった意味でも髙峯神社のような存在は貴重であります。
お金さえかければ設備も技術も豊かな現代ですから、いくらでも華やかな物は造れるでしょう。ですが物に限らず、所謂宝というものは宝箱や宝石のような、いかにもな姿であるとは限りません。見る人が見ればわかるものであったり、見る人の心が変わればその姿を現すものであったりします。
人が住めるように切り拓くだけでも大変な山奥にも関わらず、目に見えぬ神仏への敬いを忘れず守り続けてきた人々の心こそが遥かに貴いことです。
一度失われたものを再び元に戻すのは不可能に近いですが、今もなお昔の姿のまま残るこの地域の宝がいつまでもここにあって、いつかまた賑やかな姿を見せて欲しいなと願ってやみません。
地域の方々はもちろん、縁あって神様に呼ばれた方々には是非この御神域の空気を感じ取っていただきたいなと思います。
もしかすると嶺北地域でしばしばお姿を現されていた白髪の神様にお会いできるかもしれません(笑)
最後になりましたが、今回この手記をまとめるにあたってご案内頂きました、宮元先生や氏子総代の皆さん、地域の方々に深く御礼申し上げます。
書いた人 渡部仁海 わたなべじんかい
1974年 愛媛県生まれ。地元公立高校卒業後、高野山大学密教学科へ入学。家はお寺ではないものの、在学中に加行(修行)を受けて僧侶となる。会社員生活を経た後、現在お寺を持たず僧侶として活動している。
文:渡部仁海
私が髙峯神社を初めて知ったのは、移住相談のために土佐町役場を訪れた時でした。
私は生まれも育ちも愛媛なのですが、進学した大学が和歌山の高野山大学という坊さん大学だったこともあり、卒業後は四国遍路を巡ったりしていました。高知巡錫の砌、嶺北地域の豊かな自然と魅力的な産物とに感動し、いずれはこういった自然豊かな土地に住みたいと強く思うようになり、以後10数年に渡ってバイクや車で嶺北地域周辺に足繁く通っていたものです。
ただ当時は今ほど移住に関する情報は無く、ほとんど観光や買い物をするだけでしたが、近年はインターネットで移住や地域の情報もたくさん得られるようになり、そんな御縁で役場の移住担当の鳥山さんとお会いすることとなりました。
移住に関するお話を伺っている中、ふと鳥山さんから山中の神社の参道を子供が歩いている、どこか郷愁を誘う写真を渡され、「近くの山の上にこの神社があるので行ってみませんか?」と誘われ、行ってみることに。
※巡錫の砌(じゅんしゃくのみぎり)・・・ (錫杖を持った)僧侶が各地をめぐり、
車で山道を登り始めたものの、途中からは少し不安を感じるような荒れた道になり、正直この時までは『こんな山奥の人も来ないような場所の神社なんてきっと小さなしょんぼりしたようなお社がある程度なんだろうなぁ・・・』などと不届きな事を思っていたものです。
荒れた道で激しく揺れる車の中で数十分。
やがて「着きましたよ。」と言われ車を降りると、写真にあったあの風情のある苔むした参道。
ま、せっかく来たんだし見てみるか・・・くらいの気持ちで参道を進み、やがて石段にさしかかり登り始めた私の目に飛び込んできたのは、下から見ても相当にデカいとわかる堂々とした権現造りの唐破風の屋根。
※権現造り(ごんげんづくり)・・・日光東照宮に代表される建築様式。一般に豪華・華美なもので手間も費用もかかるので、あまり見られない。
※唐破風(からはふ)・・・拝殿正面に突き出した弓なりのカーブを描いた屋根の部分。
この時は本当に心の中で「ええっ!?」と叫んだものです。(もしかしたら声に出てたかもしれない)
見えている破風の部分だけでざっと4,5メートル・・・いやもっとある。一体どんな社殿がこの上に?・・とやや興奮気味に石段を上がると、そこには何段もの肘木類と凝った彫刻が施された、想像を遥かに上回る豪華な社殿がありました。
屋根の部分の肘木類はよく観光地の寺社などでも見られますが、髙峯神社の場合は人が歩く廊下の部分にまで肘木が組まれ、さらにはそれらの間に鶯の彫刻まで施されているという凝った造りであります。
実際に現地を歩いていただくと一番わかりやすいのですが、社殿以外にも鷹の石塔などほぼ全ての部分が入念に吟味され、意匠を凝らした非常に稀有な神社であります。
私は若い頃高野山で修行し沢山の古い社寺を見てきましたが、正直地方の山中でここまで凝った造りの神社に出会ったのはこれが初めてです。
これまで建物の豪華さばかりを述べて参りましたが、重要なのはそこに込められた人々の信仰心であるとか、熱い想いであると私は考えるのです。
道も険しく、現代のような重機も無い時代に山奥にこれだけの建築物を拵えるというのは、現代人の我々の考えが及びもしないような、地域の善男善女の人々の並々ならぬ想いがあってこそ成しえた事業であると言えるでしょう。
一体ここにはどのような大神様がどのような経緯でお祀りされるようになったのか、そして今日までどのように信仰されてきたのか、この日は中に入れませんでしたので、外から興味津々と眺めるばかりでした。
正面の扁額を読むと「土佐國本宮 髙峯神社 三寶山鎮座」とあります。
本宮というのは、「宮」を「店」と読み替えればわかりやすいかと思いますが、ここが神社の中でも重要な存在であることがわかります。
最近は京都や奈良などに代表される有名な観光地の寺院や神社をパワースポットと呼んで有り難がる風潮がありますが、本来は自分達を見守り育んでくれる地元の氏神様(産土神:うぶすながみ、と呼ぶところもあります)こそが、私たちに心身の力を与えてくれる存在なのであります。
現代社会は資本主義に傾き、お金や物にばかり価値を求める傾向にありますが、髙峯神社の佇まいを見ているとカネよりもっと大事なものがあるぞ、という神様の息遣いや建立に携わった地域の御先祖様達の情熱を感じられるのではないでしょうか。
さてすっかり髙峯神社の迫力に魅了されてしまったのですが、生憎とこの日は日帰りでありましたので、地域の方々のお許しを頂けるのならば後日改めて訪問したいと鳥山さんにお伝えして帰りました。
帰宅後「いや待てよ、冷静に考えればあれだけの社殿だ。他所の土地から来た見ず知らずの人間が立ち入ることを許してもらえるものだろうか?」と不安の混じった気持ちでありましたが、後日宮司さんや世話人さん達が立ち会っていただけると聞き、少し興奮を抑えきれなかったことを覚えています。
後編に続く!
書いた人 渡部仁海 わたなべじんかい
1974年 愛媛県生まれ。地元公立高校卒業後、高野山大学密教学科へ入学。家はお寺ではないものの、在学中に加行(修行)を受けて僧侶となる。会社員生活を経た後、現在お寺を持たず僧侶として活動している。
後編はこちらからどうぞ!
高須の沢田健次さんと智恵さんのご夫婦です。(あと、牛!!‥お名前聞き忘れました。失礼!)
土佐町は希少なあか牛の生産者さんが数多い場所。健次さんと智恵さんもあか牛を何頭も育てています。
酪農や農業は、人間のタイミングを待ってくれない。動物や植物や天候が先にあって、人間の都合は二の次三の次。
経験者のように知った風に書いてしまいましたが、そういうお話をよく聞きます。そういうお仕事を長年している方は土佐町に多くいて、そうやって地に足つけて手を使い自然を相手に生きている方々は、会うたびいつも「なんか良い」と思います。
うまく言葉にならないので「なんか良い」なんですが、「なんか良い笑顔」のお二人です。