石川拓也

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

石川拓也

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「エンゲージド・ブディズム入門 しあわせの開発学」 スラック・シワラック  ゆっくり堂

エンゲージド・ブディズム(Engaged Buddhism)は日本語で「社会参画仏教」と訳されています。語感としては「行動する仏教」「闘う仏教」という意味。

「お坊さんは閉じこもって座禅や瞑想ばっかりしないで、社会の問題と真正面から立ち向かうべき」という姿勢を基にしています。

そういえば、とさちょうものがたりオープン直後に土佐町で講演をしていただいたインド仏教の指導者・佐々井秀嶺さんも「行動する仏教」を体現した人のひとり。「思想や知識は行動のためにある」ともはっきり仰ってました。

この本はエンゲージド・ブディズムの指導者スラック・シワラックの視点から、社会がなかなか解決できないでいる様々な問題について、また問題に対する考え方や解決法について語られます。「行動の人」が語る言葉には一種の重さと説得力がありますね。

GNH(国民総幸福度)の話も出てきます。印象的だったのは、「小さいビジネスをしよう」という文章。ビジネスを大きくすること、際限なく成長させることに目標を置くこと自体がそもそも間違っているし不可能なことなのではないか、という考え方。

現在、土佐町役場が準備中のGNH(国民総幸福度)による「土佐町のものさし作り」にもとても参考になる話です。

 

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土佐町のものさし

② ブータン先輩

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この連載「土佐町のものさし」は、現在進行形の旅の記録。
時代とともに変化していく世界の価値観(=ものさし)の大きな流れの中で、土佐町の人々が、土佐町のためにこれから作っていく「土佐町のものさし」を探し求めて歩く旅の記録です。

 

前回、ブータンのGNH(国民総幸福度)について触れました。

繰り返しになりますが、GNHはGNP(国民総生産)では計れない、本当の「豊かさ」を計り、国民がより幸せを感じる国にしていきましょうという指標です。

では、GNPって一体なんなんでしょう?

と、このあとGNPの問題点などを書こうと思ったのですが‥‥

ぜ〜〜んぶやめました!

なぜなら、本に書いてあるようなことをくどくどと解説するのはこの連載の目的ではない、と気づいたから。当初の予定は、GNHについての理解を深めた上で、では土佐町のやりたいことは?という話の進め方をしようとぼんやり思っていたのですが、ぜんぶやめます!

土佐町では今このときにも、現実が刻一刻と動いています。本を読めばわかることをここで書いているヒマはない。現在、土佐町役場が取り組んでいるGNHに基づいた「土佐町のものさし」作りはもうすでにスタートしています。この連載は、その「現実の取り組み」を中心に追いかけていきます。2話目で突然すみません^^;

 

さて、土佐町。

大まかに取り組みの流れをざっと書くと、

住民幸福度調査アンケート➡︎アンケート結果に基づいた土佐町のものさし(GNH)作り➡︎さらに「土佐町のものさし」に基づいた行動・施策へ➡︎「土佐町のものさし」に基づいた「10カ年総合計画」へ

 

 

 

この一連の流れの目的は、「土佐町の考え方の軸」を作ること。シャレた言い方をすれば「土佐町のグランド・デザイン」を作ることと言っても良いでしょう。ここではシャレた言い方をする必要はないので、「土佐町のものさし」がしっくりきますね。

 

2018年11月現在は、住民幸福度調査アンケート。実施へ向けてのアンケート作りが行われている真っ最中。これが実は一筋縄ではいかない、でも今後の流れの大元になる大切なものなのです。

 

比べるべきや?比べざるべきや?

まず、アンケートの目的です。「幸福度を測る」とひと言で言っても考え方は一通りではありません。なんのためのアンケート?誰のためのアンケート?そういったスタート地点を常に確認しながら一歩一歩進んでいく作業になります。

ここで大きな分岐点となった疑問。それが、「他の自治体や国と土佐町を比べるべきか?」というものです。

「他の自治体と比べること」を目的としているならば、他の自治体も広く実施したことがあるアンケート内容にすべきです。でないと比べることができなくなります。おのずと質問内容は土佐町の風土に特化したものではなくなります。

「比べる必要がない」のなら、土佐町は土佐町独自の価値観に基づいたアンケート内容、土佐町の生活に根付いたアンケート内容にすべきです。こっちの道を行くのなら、質問内容は土佐町の風土に特化したものになる。もっと言えば、質問内容そのものが土佐町の「幸せ」を体現したメッセージになる可能性もあります。「こういうことを土佐町では幸せと考えます」そういう意思がアンケート内容に反映されるでしょう。

土佐町の出した小さな結論。それは「他とは比べない」。

例えば土佐町が他県の自治体より上の順位だったとして、それが「土佐町の人々の幸福」にとって一体どんな意味があるのでしょう?もしくは下位だったとして、上位の町や市を「追い抜け追い越せ」レースが始まるんでしょうか?それってなんかおかしくないですか?

実は「他と比べること」というのは幸福度という視点から見ると、幸せ度合いを下げる考え方だそうです。「隣の芝生は青い」と言いますが、それで勝手に悔しくなるのは「幸福度」と離れていく可能性の高い考え方だそうです。なんとなくわかりますね。そういえば、FacebookなどのSNSも「他と比べるツール」として幸福度を下げるものとされています。

 

ではなんのためのアンケートなのか?

スタート地点に戻りましょう。この一連の取り組みは「土佐町の人々がより幸福を感じる町になるためのもの」。アンケートもそのためにあるべきです。

となると、現時点での結論は「土佐町の幸福の現在地」を知るためのアンケート。町の人はどんなことに幸福を感じ、どのような町になりたいと思っているのか?

そのことを知った上で、やっと次にやるべきステップが見えてくる。そのためのアンケート。

他と比べない。でも土佐町の未来と比べる。

この幸福度調査アンケートは一度きりのものではありません。今回の結果をもとに、さらに深く土佐町の幸せについて考えていく。そうやって考えたことを現実の行動や施策に反映していく。(←この現実の行動にしていくところが最も大切です)

2018年度の調査結果を踏まえて行動し、次のアンケートの時には幸福度が上がっているように努める。つまり、過去のアンケート結果と比べるということです。その「ものさし」を作る最初のとっかかりが、この幸福度調査アンケートなのです。

 

やっぱりブータンが先達としてそこにいる。

ここで参考になったのは、GNHの大元であり先輩でもある、幸せの国ブータン。ブータン先輩と呼んでかまわないでしょう。あ、それで思い出したのですが僕の高校の先輩で「ぶーちゃん先輩」と呼ばれている人がいました。ご想像の通り、体重100キロオーバーの巨漢です。

‥‥話が逸れました。ブータン先輩、2010年と2015年、5年づつ大きなアンケート調査をやっています。そしてその都度詳細な報告書をあげています。さて、ここで問題です。ブータンは他の国と比較するためにアンケート調査をやっているのでしょうか?

答えはノーです。否です。ニェットです。ブータンの国民幸福度調査アンケートの目的は、ネパールやインドやフランスなどの他国の幸福度と比較するためではありません。

ブータンのGNH調査報告書の冒頭近辺に明記している言葉、それは

幸福度を前進させる行動の指標を作るため

とあります。目的はこれ一点。「行動のためのもの」というのがいいですね。今回書いた土佐町の小さな結論には、ブータン先輩のこの文章が小さくない影響を与えてくれました。

 

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土佐町ポストカードプロジェクト

2018 Oct.

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さめうらダム湖

 

さめうらダム湖。じ〜っと静かに見続けていると、湖面にもいろいろと表情があるのがわかります。小さなさざ波の湖面に、縦にすーっと潮流のような白い道ができています。魚が泳いだ跡でしょうか?風が通った道でしょうか?

「何時間でも空を見続けられるのが、写真家や画家という人種なんだ」尊敬する人にむかし言われた言葉を思い出しました。

 

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4001プロジェクト

小松エイ子 (田井)

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みなさんご存知、スナック「なんてん」のママ、エイちゃん。土佐町の田井あたりで飲むと、二次会で訪れることの多いなんてん。エイちゃんの人柄も相まって、町の人の憩いの場所として多くの人が大切に思っている場所でしょう。

なんてんがそこにあってくれてよかった、エイちゃんがそこにいてくれてよかった、そう思ったことは土佐町の方々はみんな覚えがあるのではないでしょうか?

撮影時はハロウィンの直前でした。後ろのキラキラ帽子はハロウィン限定の飾りです。

 

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土佐町のものさし

① まずはGNH

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この連載「土佐町のものさし」は、現在進行形の旅の記録。
時代とともに変化していく世界の価値観(=ものさし)の大きな流れの中で、土佐町の人々が、土佐町のためにこれから作っていく「土佐町のものさし」を探し求めて歩く旅の記録です。
「土佐町のものさし」の目的地は、「町の人々が幸せを感じる町」になること。
これを架空の絵空事にしないために、土佐町では2018年に住民幸福度調査アンケートを行います。このアンケートは土佐町の現在地を知るためのとっかかり。その先にあるのは、ブータンのGNH(国民総幸福度)・国際目標であるSDGsを基にした「土佐町のものさし」を作ること。
更にそうやってできた「土佐町のものさし」に沿った(個人レベル・組織レベルでの)実践・行動・施策のひとつひとつが続きます。旅をするのは土佐町の人々です。
これは地図もガイドブックもない旅ですが、もしかしたら宝探しの旅なのでしょう。大げさな言い方になるけれど、ここで探そうとしている宝物は、実は世界中が見つけようとしているものなのです。行き止まりや落とし穴もないとは言い切れません。
そんな旅、土佐町が「土佐町のものさし」を探す旅のあれこれを、同行者である編集長の石川が現在進行形でお伝えします。
別の言葉で言いかえれば、専門家でもない、特に難しいことがわかるわけでもない石川が、この旅に伴走しながら学んでいく過程をお伝えしていく連載です。

 

「土佐町のものさし」を作る。

目的は、「町の人々が幸せを感じる町」になること。

でも、どうやって?

この旅の話は、土佐町がこれからやろうとしているGNHのことから始まります。

なぜならGNHを発案し実践しているヒマラヤの小さな国ブータンでは、実に91.2%の国民が人生を「幸せです」と考えているという結果が出ているのです。(2015年度幸福度調査による)

これを参考にしない手はないですよね。

GNHって一体なんですか?

※諸説あります

 

本当はこっち。GNHは「経済も含めた幸福の全体量を計ろう」というものさし。

GNH=「国民総幸福量」

 

 

 

GNHという考え方、これはそもそもブータンの前国王(4代目)が1972年に言い出したことでした。

1930年代にアメリカで考案され、一気に「豊かさ」のものさしとして世界的な尺度になったGDP(GNP)=国内総生産。世界各国はGDPが何位になった、または落ちたという競争の真っ只中にいました。

ブータン国王は、端的に言えば、その時代に(現在も)支配的な考え方であるGDP/GNPでの比べ合いに、敢然と異を唱えたのです。

GDP(稼いだお金の量)を比べて伸ばすだけでは、幸せな社会は作れませんよ

と王様は言いました。それ以降ことあるごとに

GNH(国民総幸福量)はGDP(国内総生産)よりも重要です

と公の場で発言しています。

 

ブータン国王が言ったことの意味

それは、なぜならGDP(国内総生産)とは、お金のやりとりの量を計った数値にすぎないから、ということです。

ひとつの国の中で、どのくらいの量のお金がやりとりされたのか

単純化して言うと、GDP/GNPというものさしで測れるのはそういうことなのです。

この数値はシンプルなお金のやりとりの量なので、それが幸せなやりとり不幸せなやりとりかはまったく関係ありません。

たとえば‥

●交通渋滞がひどくて、ガソリンの購入量が増えた(ガソリンに費やすお金が増えた)

●大きな災害が起きて、お葬式が増えた(お葬式に費やすお金が増えた)

 

上の例はどちらも、人間の幸福感・または生活の質にとってはマイナスになる可能性の高い要素です。

交通渋滞がひどければイライラして生活の質(幸福感)は下がっていくはずですが、ガソリンの購入量(消費量)は増えるので、お金のやりとりが増えます。するとGDPというものさしの上ではプラスになっていく。

人間が幸せになっていないのに、GDPというものさしの上ではなぜか「豊かになった」とされるのです。

「人間の豊かさを計るものさし」としてGDPが不適切という指摘があるのは、こういう理由があるのです。

それじゃあダメダメ〜と言いながら、ブータンという小さな国が、GNHという新しいものさしを持って国際社会に登場してくるわけですが、それはまた次の機会に話しましょう。今回、羽生さんは関係ありませんでした。

 

 

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4001プロジェクト

伊藤万亀江 (田井)

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万亀江おばあちゃん。大正9年生まれの98歳!元気!パワフル!

万亀江さんは田井にお住まいで、実は僕(石川)の家の斜め向かいです。
毎朝毎夕、通りかかるたびに声をかけてくれる明るいおばあちゃん。

生まれは石原の本地という集落なんだそうで、「山の空に家が3軒だけ建っちょって、そのうちの1軒がうちやった!」と当時のことを教えてくれました。偶然にも3軒とも万亀江さんと同学年の子どもがいて、一緒に平石小学校に通っていたそうです。その辺りがまだ地蔵寺村と呼ばれていた頃の話です。

ちなみに、万亀江さんは「笹のいえ」の大家さん。若かりし頃の万亀江さんが嫁いできた先が平石の笹のいえだったのです。

 

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4001プロジェクト

中町種子 (峯石原)

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峯石原にお住いの中町種子おばあちゃん、82歳。石原〜黒丸に上がるとき、峯石原あたりで見事なお花畑を目にしたことがある人は少なくないはず。それは種子おばあちゃんのお庭です。

種子おばあちゃんはここに住んで60年。2人の娘さんは高知市と南国市に住まわれているそうです。

たまに、その人の内面がそのまま家や庭を表してるなと思えるときがありますが、種子おばあちゃんのお庭もそう。

通りかかったときには少し足を止めて見て行きたくなります。

 

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土佐町ポストカードプロジェクト

2018 Sept.

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翠ヶ滝・能地 | 氏次大和

 

土佐町の秘境、翠ヶ滝(みどりがたき)。
山深く入っていった能地という地域にあります。写真中央に流れる一筋の滝が見えるでしょうか。
 翠ヶ滝は日本でもなかなか珍しい「裏見の滝」。滝の裏側にある窪地にお堂が建っていて、滝の裏からの風景が臨めます。お堂を覗いているのは氏次大和くん。

 ここは昔から地元の方の信仰の地であったようで、以下のような空海伝説も残っています。
弘法大師の申し出をこんなに無下にするお話も珍しいんではないでしょうか?少し笑ってしまいました。

 

翠ヶ滝 (能地)

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土佐町ポストカードプロジェクト

2018 Aug.

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中尾 | 田岡澄人 明咲希 高橋葵

 

8月の土佐町、稲は青々と実り、金色に輝く一歩手前まできています。
農家のみなさんが日々汗をかいて育てた稲の一本一本が、土佐町の風景を作っています。
この風景からできあがるお米が美味しくないわけがない。できたてのお米、今年も楽しみにしています。田んぼの中を元気よく遊びまわってくれたのは田岡澄人くん、明咲希ちゃん兄妹と高橋葵ちゃん。
走り回って遊んでいる中のふとした一瞬です。

 

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 5月のある日、編集部の鳥山の元へ、ある移住相談の方が訪れてきました(鳥山は移住相談の窓口もやっています)。その方、名を渡部仁海さんという、現在は新居浜に住むお坊さん。たまたま鳥山がお見せした髙峯神社のポストカードをきっかけに、仁海さんは髙峯神社を訪れることに。
お坊さんだけあって、仁海さんは神社仏閣の造りや歴史に関してとても博覧強記です。髙峯神社をとても特別な場所と思っているとさちょうものがたり編集部にとって、仁海さんのその視点からのお話はとても勉強になりました。
仁海さんがお帰りになられたその後、改めて編集部から仁海さんにある依頼をしました。「もう一度取材のために現地を訪れてほしい」「その経験を文章にして町内外に伝えてほしい」‥‥快諾してくれた仁海さんは6月末に土佐町を再訪してくれました。
これは、仁海さん2度に渡る髙峯神社訪問の手記であります。

 

土佐町の大神様 髙峯神社 後編

文:渡部仁海

前編はこちら

 

6月末再び土佐町を訪れ、髙峯神社の宮司を務めておられた宮元先生や世話人さん達と共に、車3台を連ねて再び髙峯神社へのガレ道を進んでいきました。

参道までの道すがら車内で宮元先生や世話人さんに髙峯神社の成り立ちや祀られている御祭神などについて色々とお話を伺いました。

まず神社が最初に建立されたのは今より1600年余りも昔のことで、御祭神は山の神である大山祇神(オオヤマツミノカミ)をはじめ、古事記にも記されている食べ物や産業の神様「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」や竈の神様など、山で暮らす人々にとっていずれも身近な神様であります。

現代社会のように流通が発達しているわけでもなく、ほんの少しの自然の力によって自分たちの命を支える作物が失われてしまう古い時代に生きた人々にとっては、食や自然を司る神仏に関する畏敬の念は相当なものであったであろうことは想像に難くありません。

道中かつての参道が残っているという場所を走り、現存する町石(ちょういし:参拝者の為に一町ごとに置かれた道標)も見せていただきました。

「是従(是より)三宝山へ〇丁」と刻まれております。

 

石原地区・古い参拝道の入り口に鎮座する町石 石原郵便局近く

 

「従是三宝山四十町」「相川(相川の人々からの寄進で設置されたという意)」の文字が見える町石 峯石原あたり

 

筒井賀恒さんが教えてくれた髙峯神社最寄りの町石 *編集部注:1200メートル=11町・1町=109.09091メートル

 

先に述べた扁額の「三寶山(三宝山)」という名前の山が近隣に見当たらないことから、三宝とは竈の神である、三宝荒神のものではないかなと推測しています。

こうした道標も参拝者が少ない寺社には不必要なものであることから、往時は多くの参拝者で賑わっていたことを示す貴重な資料です。

やがて私達一行は神社の参道入り口に辿り着き、豊かな苔の参道を歩いていきました。

当初よそ者扱いされないかと一抹の不安があったものの、有り難いことに「若い人がこの神社に興味を持ってくれている」と皆さん好意的で、参道の途中でみんなで記念撮影となりました。

ささやかですが、自分が興味を持った場所にこうして少しでも足跡が残るというのは嬉しいものです。

 

左から 仁井田耕一 鳥山百合子 渡部仁海 筒井賀恒 宮元千郷 仁井田亮一郎

 

『ああ、都市部を中心に信仰が形だけのものになりつつあるけれど、ここには神社を中心とした昔ながらの人の輪が残されているんだなぁ。』と一宗教家として感慨深いものがありました。

さて、参道沿いには数々の石灯籠がありますが、その中に一つ前回訪れた際に気になっていた、これまた他ではまず無い面白いものがあります。

通常神社仏閣の石灯籠は実際に灯すかどうかは別として、参道や境内を照らす明かりとして設置されることが多いのですが、ここの石塔の一つはそうした用途のものではなく、ポーズも凝った大きな鷹の像が飾られています。

初めて見るものでしたから、解説してくれる人が居なかったら何かとんでもなく恐ろしいモノでも封じ込めてるのかと勘違いしそうな程造り込まれたものです。

(実際強い生き物や伝説の人物等をお祀りすることで災いを避けようという意味合いの物を置いてある神社もあります)

 

鷹の像

 

宮司の宮元先生のお話によるとこの辺りは雑穀、特に豆類が育ちにくかったらしく、それらを荒らすスズメやネズミを捕食する鷹を神格化したものではないでしょうか。

これだけでも一見の価値ありです。

樹齢が200年は越えているという巨木を眺めながらさらに参道を進み、縁起物の象徴である鶴と蓑亀が彫られた屋根をくぐり、いよいよ前回は入ることができなかった拝殿の中へと進みます。

拝殿の中は至ってシンプルな空間ではありますが、かつて境内で行われていた奉納相撲の様子を描いた古い額や、往時の賑わいを思わせる神輿や古い書物など興味深く拝見しました。

 

奉納相撲

 

中にひと際大きな額があり、描かれている絵は経年によりだいぶ薄れてはいましたが、中心に姫神様(豊受大御神だと思われる)を中心に恵比寿様や大黒天様など七福神らしい縁起のいい神様達が描かれております。

 

七福神

 

今回も残念ながら神様がお祀りされている正殿へはカギが無かったため入ることはできませんでしたが、神様や信奉されている方々に僭越なことがあってはなりません。

ここまでなら良し、という御神意だと受け止めることにしました。

 

宮司の宮元先生にお祓いをしてもらう

 

拝殿内で宮元先生や総代さん達に伺ったところでは昔は讃岐のこんぴらさんと並ぶほどの参詣者があり、麓には旅館や飲食店までもあったそうです。

「ワシらが子供の頃は夏祭りには今よりもっと夜店が出て、ここらの子は皆遊びに来とった。」

「そうそう、この下で相撲とったりもしよった。」

と思い出話を語り合う総代さん達が実に懐かしそう。

皆さんとの参拝を終え、集会所に残された古い文を読むとそうした賑やかだった頃、神社の参道、つまり山の上まで大勢の男女で重さおよそ13トンにも及ぶ巨石を手洗い石とするために引き上げたとあります。

 

手洗い石を案内する賀恒さん

 

現在この手洗い石は参道を少し下った辺りに今もあり、その脇には当時の様子が刻まれた「傳永遠(でんえいえん:永遠に伝える)」と書かれた石碑が立っております。

 

傳永遠

当山鎮座髙峰神社は、古来農作の守護神にして藩主の 信篤く、県内外各地に多数の崇敬者を有する格別由緒深き古社なり。

明治十年三月偶本山東麓石原川畔に好適の手洗石を発見し、これが曳き揚げ奉納の計画をたてたり。

しかるに現位置までは羊腸たる坂路三十町余りにして、しかも数千貫の巨石をただ人力のみに頼りて曳き揚ぐるは容易の業にあらざりしが、これの壮挙を伝え聞きたる遠近の崇敬者等相集まり、毎春農閑の季に熱誠曳石作業を奉仕し、わずかに五ヶ年にしてついに山の九合目までは運び揚げたるも、明治十五年にいたり諸種の故障ありてこの事業を中止せり。

しかり春風秋雨五十余年いたずらにその巨体を路傍に曝すのみにして、まことに大神に対し奉り恐懼に堪えざりき。ここにおいて昭和三年村長西村繁太郎、崇敬者と相謀り、御大典記念事業として奉献曳石完成同盟会を組織し篤志家の献金と崇敬家の協力とを得て、昭和三年十一月曳揚を終わりこの所をよき所と選び定め、据付工事を竣工し、多年の念願を成就したり。

よってその経緯を録し、永く記念せんがため石に刻してこれを建つと伝えんや。

昭和十一年十一月

選文 高知県神職会長 従七位勲八等 竹崎五朗

題書 元地方事務官  正六位勲六等 近森茂樹

              勲七等 梶浦憲夫 謹書

                  近藤壽美 彫

*編集部注:送り仮名・旧漢字の一部を読みやすく改変しています。

 

羊腸の如く細く曲がりくねった山道を、人力のみで13トンもの巨石を引っ張り上げる・・・私のようなモヤシは想像しただけで気が遠のきそうですが、それほどまでに当時の人々を惹きつけた髙峯神社の御神徳にただただ恐れ入るばかりです。

現在都会にも観光地にも有名で大きく、塗り直されて社殿もきらびやかな神社はたくさんありますが、戦後の高度経済成長期における開発ラッシュや、その他時代の流れと共に鎮守の森のような本来の御神域は消えてしまったところも少なくはなく、そういった意味でも髙峯神社のような存在は貴重であります。

お金さえかければ設備も技術も豊かな現代ですから、いくらでも華やかな物は造れるでしょう。ですが物に限らず、所謂宝というものは宝箱や宝石のような、いかにもな姿であるとは限りません。見る人が見ればわかるものであったり、見る人の心が変わればその姿を現すものであったりします。

人が住めるように切り拓くだけでも大変な山奥にも関わらず、目に見えぬ神仏への敬いを忘れず守り続けてきた人々の心こそが遥かに貴いことです。

一度失われたものを再び元に戻すのは不可能に近いですが、今もなお昔の姿のまま残るこの地域の宝がいつまでもここにあって、いつかまた賑やかな姿を見せて欲しいなと願ってやみません。

地域の方々はもちろん、縁あって神様に呼ばれた方々には是非この御神域の空気を感じ取っていただきたいなと思います。

もしかすると嶺北地域でしばしばお姿を現されていた白髪の神様にお会いできるかもしれません(笑)

最後になりましたが、今回この手記をまとめるにあたってご案内頂きました、宮元先生や氏子総代の皆さん、地域の方々に深く御礼申し上げます。

 

書いた人 渡部仁海 わたなべじんかい

1974年 愛媛県生まれ。地元公立高校卒業後、高野山大学密教学科へ入学。家はお寺ではないものの、在学中に加行(修行)を受けて僧侶となる。会社員生活を経た後、現在お寺を持たず僧侶として活動している。

 

 

土佐町の大神様 髙峯神社 前編

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