土佐町森地区にある青木幹勇記念館。廃校になった小学校を利用して、2階は民具資料館、1階はギャラリーと地域の人たちが集まる場所になっている。
記念館を訪れるといつも誰かが来ていて、ワイワイと賑やかな空気で満ちている。コーヒー片手におしゃべりをしたり、手を動かしてかご作りをしたり、パッチワークをしていたり。集った皆さんがとにかくいつも楽しそうで、生き生きとしている。机の上にはお菓子の入ったかごがあり、いつでも手に取れるように置いてある。
皆さんがいる輪のなかに「コーヒー飲んでいかん?」と声をかけてくれる人がいる。その声の主が、記念館の企画・運営を担う田岡三代さんだ。

私はこの一言に何度救われてきたか分からない。三代さんは手招きして、コーヒーを淹れてくれる。卓球台が机代わりのおしゃべりに加わって、いつの間にか一緒に笑っている自分に気づく。
今から6年ほど前のことになるが、私は大きな悩みを抱えていて、何をしていてもどこかしんどいという状態が続いていた。たびたび記念館に行って、三代さんと冗談を言い合ったり、たわいないおしゃべりをしていた。そうしているうちに、凝り固まっていた肩の力が抜け、気付いたら心の内を話すようになっていた。ぽろぽろと涙がこぼれた。三代さんはいつも、うんうんと話を聞いてくれた。気持ちを受け止めるという言葉は知っていたけれど、受け止めるということはこういうことなんだ、と初めて分かった気がした。
夕方暗くなって帰る時、三代さんは腕で力こぶをつくりながら、優しい顔で笑い「がんばろうね」と言ってくれた。だから私は頑張れた。三代さんは私にとって人生の大先輩であり、大切な恩人である。
59歳のとき
三代さんは、2011(平成23)年、59歳のときに記念館で働き始めた。共に林業会社を営んでいた最愛の夫、秀昭さんが亡くなり、どうやって生活していこうかと途方に暮れていた時だった。友人が「土佐町役場の臨時職員の仕事を申し込んでみたら」と声をかけてくれた。三代さんは履歴書を書いた。年齢を書く欄に「59」と書き、「60と書くよりも59の方が先があるかもしれん」と思ったことを良く覚えているという。
当時、町では廃校になった森小学校を利用し、土佐町出身の小学校国語教育の第一人者である青木幹勇さんの記念館を開館する計画が進んでいた。後日、採用の連絡があった。仕事の内容は青木さんの残した資料を整理し、分類することだった。
三代さんは膨大な資料の整理を始めた。今でこそ1階の部屋には綺麗に整理されファイルや本が並んでいるが、当時はたくさんの段ボール箱が部屋中に散らばっていた。一つずつ箱を開け、資料を整理し、ラベルを貼ってファイルにまとめていった。大量の本も分類し本棚へ。全て完了するまで、1年半ほどかかった。
2013(平成25)年、61歳のとき、資料整理が終わった後も記念館に残って、企画と運営を担ってほしいという話があった。働かなければその月の生活費がなかった。平日午後の4時間は記念館で働き、午前中はスーパーの100円ショップで働いた。65歳になった時に年金を受け取れるようになり、記念館の仕事も忙しくなっていたため、スーパーは退職。今は記念館一本で仕事をしている。
(三代さんの力こぶ その2 に続く)



