ちょっとこの写真を見ていただきたい。
衣料コーナーの展示品だ。
時代劇などでよく見かける裃(かみしも)の上下のように見えるが、下衣の形状が明らかにおかしい。どうやら展示スペースの関係で、やむなくこの位置に展示されてしまった別物のようだ(現在は変更している)。
旧森小学校を民具資料館に改造した時、スペースの都合上、展示品の選定と展示方法には随分苦労したのだろう。そこかしこに担当者の苦労の跡が見え、頭が下がる思いがする。
ただ惜しいのは、展示室全体を通してのコーナー解説が足りないことと、資料ごとのキャプション(資料名)に説明文が少ないことだ。もちろんすべてのキャプションに説明文は不要だが、中には説明文付きにして欲しかったものもある。
このシリーズの第1、2回目でも取り上げたが、この地域では火縄銃のことを「種子島」と呼んでいた。なぜそう呼ばれていたかという理由を添えるだけで、展示がもっと説得力を持つようになる。
上記写真の資料などはその典型で、キャプションには「軽サン(モンペ風)」と書かれているが、個人的にはなぜ「カルサン」と呼ばれていたのかを知りたい。
歴民館の元同僚から提供してもらった、調査資料(1)によれば、この「カルサン」によく似た資料に「伊賀袴」(東石原中町家使用)というものがあり、戦後もしばらくは土佐町内で使われていたことが分かった。
さらに『民俗辞典』(2)などによれば、「カルサン」は山間部で使用された作業着のことで、様々な用途で用いられたとある(3)。そして、この「伊賀袴」のことを「カルサン」とも呼んでいたことをその時初めて知った。
だが、依然として「カルサン」の語源が分からなかったが、ある日唐突に思い出した。
「そうだ、南蛮屏風のなかのポルトガル人だ!」
註
(1)高知県教育委員会「民俗文化財分布調査表」1981~1982
(2)①橋尾直和『土佐弁ルネサンス 土佐ことば辞典』2000 ②『[絵引]民具の事典』河出書房新社 2008
(3)①によれば、男の仕事着袴で、「カルサンバカマ」とも呼ばれていたという。②によれば、「おもに農山村で仕事着や普段着の下衣に用いた…幅の広い裾にひだを入れて輪状の縁布を縫い付けたものが多い…」という。