
土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
カルタ
幼い頃の思い出を、記憶を辿って書いてみました。
大正15年9月27日生れ、寅年。三才上の兄、三才下の妹、赤ちゃんの弟がいました。
物心ついたのは四月から入学と云うお正月でした。外は雪が積って寒い日、炬燵に足を入れて家族皆で暖まって居た時、兄が見た事も無い、色々な絵のある物を並べたのです。絵があったり、字ばっかりだったりと父が突然「イヌモアルケバ、ボーニアタル」と云ったのです。
すると兄が「ハイ」と云って、私の目の前の1枚を取ったのです。父が分る様に説明はしてくれたものの、生れて初めて見たり聞いたりで、兄は1人で悦に入っていた。
両親の考えで、カルタで楽しみながらカタカナを覚えさせようとしたらしく、その時代はカタカナが先でした。よみかたと云っていたカルタのお陰で全部覚えるのは時間がかからず、両親の思い通りだった様でした。
教科書を揃え、先ず「ヨミカタ」の本を見てびっくりしたのは、まるで絵本の様な色刷りで、表紙には満開の桜の花、中もまるで絵本の様な色刷り、ワクワクした1頁目は「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」でした。
「キレイ」の一言でした。2頁目は「コイコイシロコイ」。大きな声で読みました。
兄はショックで見向きもしなかった。兄達は、まっ黒な本だったのです。
(続く)
この記事を書いた人
大正15年9月27日、土佐郡森村相川麦山生まれ。3歳上の兄、3歳下の妹、赤ん坊の弟がいた。父の生家は米作りの農家だったが、どういう訳か分家して「石屋さん」をしていた。お米のご飯は食べられず、年中麦ご飯で育ち、小学4年の時、高知市に移住。10年後、あの空襲で被災。不治の病で入院中の母共家族7人、着の身着のまま故郷土佐町の山奥の生活。故郷の皆さまの温かいお情けに助けられ、幼い妹の母代わり、病母の看病。3年後、気がついたら母と妹は天国へ。悲しみの中でも生まれ育った故郷に住んでいることが何よりもの心の支えになり95歳。天国の肉親との思い出に涙することも供養になろうかと、まだまだ元気でガンバローと思っています。
絵を描いた人
土佐町生まれの土佐町育ち
2009年に国際デザインビューティカレッジのグラフィックデザイン科を卒業
30代の現在は二児の母で兼業主婦。
家事や育児の合間をみて、息抜きがてらに好きな絵を描いています。