2020年8月

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

古川佳代子

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「殺人者の涙」 アン=ロール・ボンドゥ, 伏見操 訳 小峰書店

アンヘル・アレグリアは殺人者。逃亡生活にうんざりした彼は隠れ家を得るため、チリの最南端、太平洋の冷たい海にのこぎりの刃のように食い込む地の果てに住む夫婦を殺します。

一人残された息子のパオロは生きのびるため、殺人者と一緒に暮らすことになるのですが…。

なんとも強烈な出だしからはじまる、緊張感あふれる二人の生活。何も与えられず、何かを与えたことのない殺人者と愛されたことはなく愛されるとはどんなことかを知らない少年。空疎な二人が共同生活を送る中から生まれる「なにか」。

生きる意味、赦すということ、贖罪とは…。決して心温まる物語ではないし打ちのめされる展開に読み続けるのがつらいこともあるにもかかわらず、未来への希望が感じられる読みごたえのある小説です。

 

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笹のいえ

猛暑

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たくさん雨の降った梅雨が終わったら、連日晴天が続く。日中、気温はどんどん上がり、町内の電子温度計が38度を示す日もあった。

草花はしんなりとして頭を下げ、猫や鶏たちは日陰でじっと暑さを凌いでいる。

夏だから暑いのは当たり前なのだけれど、猛暑を超えて酷暑と言える高い気温はやはり身体に堪える。だから、外作業は極力朝夕の涼しい時間帯にしてる。直射日光を避けるため、服装は長袖長ズボン(半ズボンの上にヤッケを履くと動きやすい)が必須。背みのを背負い、タオルを巻いた頭にすげ笠を被る完全防備で臨む。草刈りは小一時間するだけで全身汗びっしょり。Tシャツは休憩ごとに替えるようにして、こまめな水分補給を欠かさないようにする。

最近思いついたのは、作業途中で小さなおむすびを食べること。塩の効いたおむすびを、食べたいと思うタイミングで口に入れると心身のリフレッシュできる。ひと段落着いたら水を浴びて汗を流し、少しでも昼寝をしておくと気分すっきり、午後も動ける。

さて、この猛暑はいつまで続くのかと思うけれど、ここ数日は朝晩が涼しく、明け方肌寒いときもある。山暮らしで「ありがたい」と思える瞬間のひとつだ(その分、冬寒いけど)。日差しがつくる影や雲の形にも秋の足音を感じる。田んぼでは稲の出穂が進み、キュウリやトマトなどの旬が過ぎそろそろ秋冬野菜の準備を考える時期だ。

全国的に暑い日々が続いています。皆さん、どうぞご自愛ください。

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私の一冊

川村房子

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「我が家の母はビョーキです」 中村ユキ サンマーク出版

「統合失調症」って病気、知ってますか?

「私の母は27歳のとき、突然おかしなことを言いはじめ、そしてついに、この病気を発病しました…。当時私は4歳。」という作者は、マンガ家。

統合失調症生活31年になった母と、介護福祉士で楽天家、我が家の潤滑油で私と母にとって心の安らぎの夫の3人暮らし。

何年たっても、父のギャンブルと借金癖は、なおることなく全く頼りにならない。父と母の離婚成立。17歳で後見人。

母親も苦しいだろうが、子どものかかえた苦労やつらさは壮絶。

この生活の中で母の面倒をみながら、よくぞまっすぐに生きてこられたものです。総理大臣賞でもあげてほしい。

母と暮らしながら、周囲に出せない病気のことを学び、誰かに相談することで、とても生きやすくなってきた。

相談機関、いろいろな書類の提出の仕方も詳しくかかれている。

ユーモアをまじえた親子のやりとり。

家族一緒にのんびり楽しく「失敗」と「反省」を繰り返しながら、「涙」と「笑顔」で生きてみよう…と結んでいる。

ユーモアとのんびり、ゆっくりはとても大切だと思う。

 

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今年の土佐町オリジナルポロシャツは「土佐町地蔵寺地区・地蔵堂の阿吽の大龍」!

おかげさまで町内の方だけではなく、町外の方からも多くのご注文をいただいています。本当にありがとうございます。

先日、地蔵寺地区のみなさんが「地蔵堂の龍のポロシャツを注文したい」と、わざわざとさちょうものがたりの作業場へ来てくれました。

「何色にしようか?」「ポロシャツではなくTシャツにしようか?」

賑やかに相談しながら決めている地蔵寺のみなさんのその姿は、私たち編集部にとって何よりうれしい光景でした。

左から:西村孝教さん・西村由美さん・明坂袈裟子さん

早速製作し、完成したことをご連絡すると、再び作業場を訪れてくれました。この日は、西村孝教さん、西村由美さん、明坂袈裟子さんが来てくださいました。みなさんのお顔から、楽しみに待っていてくれたことが伝わってきました。地蔵堂の龍は、本当に多くの人に愛されています。

私たち編集部にとって何よりの喜びは、町の方たちが喜んでくれる姿です。それが私たちの原動力です。

地蔵寺のみなさん、ありがとうございます!

 

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私の一冊

西野内小代

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「農山村は消滅しない」 小田切徳美 岩波新書

2013年頃に話題となった「市町村消滅論」「地方消滅」。

詳しい内容まで踏み込まなくても、この言葉の与えるインパクトはかなり強烈だった。「農山村は消滅しない」というこの本のタイトルを見た時は励ましを感じました。

移住・地域おこし協力隊の意義・受け入れる側の心構え等、現実を踏まえた上で論理的に述べられています。

先祖代々根付いてきた高齢者の方たちの住み続けるという強い意思、そして土地に対する誇りが農山村を消滅させない力強い原動力となっている。

中央によるアメとムチをちらつかせた政策として平成の大合併が行われましたが、隅々まで手の届かない地方自治体が増えた事により地方に諦め感が発生する。その諦めが地方を衰退させる遠因となりうる。

もう一度、統合の為に廃校となった学校単位での集落の活用が見直されるべきであると述べられていて、納得でした。

 

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読んでほしい

「ここにいる」こと

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7月20日に発行した「とさちょうものがたりzine 06」。おかげさまで多くの方々から反響、感想などいただいております。

06号は「とさちょうものづくり」と題して、これまでの取り組みをご紹介した号になっています。今回の記事は、その06号に掲載したあとがき(著:鳥山百合子)です。

 

シルクスクリーンの作業にどんぐりのメンバーさんが来てくれるようになってから、確か1年ほど過ぎた頃だったと思う。近所のスーパーで偶然、希保ちゃんに会った。希保ちゃんこと川井希保さんは、シルクスクリーンが始まった時からずっと作業をしてくれている。希保ちゃんが「鳥山さん!」と駆け寄って来てくれたのだった。

ぼんやり買い物をしていた私の目の前に現れた希保ちゃんは、目が覚めるような笑顔で立っていた。

「希保ちゃん!びっくりした!買い物?」とたわいのない話をしたように思う。またね、と手を振って別れた。 希保ちゃんの背中を見送りながら、じんわりと湧いてくるような思いで満たされた。少し恥ずかしがり屋の希保ちゃんが自分から声をかけて来てくれた。

その日、私は何度もそのことを思い返していた。

シルクスクリーンに来てくれているもう一人、石川寿光さんが、シルクスクリーンで印刷したポロシャツを着ている人を見かけたと声を弾ませて話してくれたことがあった。それまで必要なこと以外はあまり話さなかった寿光さんが、そういう姿を見せてくれたことは本当に嬉しかった。

それから少しずつ、寿光さんは自分のことや家族のことを話すようにもなっていった。

 

シルクスクリーン事業は、寿光さんがいるからこそ成り立っていると言っていい。印刷する生地によってインクの載り方が違うため、刷る回数や力加減を変え、先々の注文を把握して効率良い段取りを考えて仕事を進める。試行錯誤する中でより良い方法を見つけていったのは寿光さん本人だ。 丁寧に物事を進める希保ちゃんと、すでに職人のような寿光さんを私はとても頼りにしている。

私たちは最初からこのような関係ではなかった。誰でもきっとそうであるように、初めはお互いへの遠慮から来る距離感が私たちの間にはあった。順風満帆でもなかった。

時間が経ったが故の慣れのようなものから誤解が生じ、どうしたら良いのかお互いに頭を悩ませたこともあった。私たちは共に仕事をしていく中で、相手がどんな人であるのかを時間と会話を重ねながら少しずつ確かめていったように思う。振り返ればそれはとても大切な道のりであったし、その道は今も続いている。

どこかで会ったら笑って手を振り合える今の関係を、私はとても大切に思っている。

 

「仕事は、現場を1㎝でも2㎝でも動かせたかどうか」。

どこかで耳にしたこの言葉を手帳に書き留めてある。

とさちょうものがたりが作る現場は小さいかもしれないが「シルクスクリーンの仕事をするようになって貯金ができるようになった」「自分が行ける場所があることはとても楽しい」という言葉を共に働く人たちからもらって、それが原動力となっている。

この小さな現場が、誰かの日常を少しでも彩ることができるような場所であれたらと思う。

 

 

職人さんとの出会い

「土佐町ベンチプロジェクト」では、7人の職人さんたちの「誰のために、何のために作っているのか」という軸ある一貫した姿に圧倒される思いだった。

普段は個人で仕事を請け負うことがほとんどという職人さんたちは、自分の仕事の中に譲れないものを持っていた。「土佐町の建具職人は俺しかおらんき」と話していた山中さんは「思いが強すぎて疲れる」ほど建具へのこだわりを。大工の小笠原さんと森岡さんは「鉋だけは負けん」と言い合うほどの熱を。

職人さんたちは日々自分との勝負を重ね、互いに切磋琢磨しているのだった。自分の実力で食べていくということはこういうことなのか。7人のチームを作ってくれた池添さんは「みんなでやることで繋がりができていく」と言っていたが、その繋がりは、それぞれ自らの磨き上げがあった上でのことなのだった。

全てのベンチが完成した後、小笠原さんが「今回、色々な人と仕事できたのが嬉しくてね。こんなの初めてだった。みんなのおかげ」と話してくれた。

職人さんとの出会いは私にとって一つの分岐点だった。それくらい良い経験をさせていただいた。

ベンチを見るたび、座るたび、私は何度でもこの地で生きる職人さんたちの姿を思い浮かべるだろう。

 

 

 

人たる所以

中島観音堂クラウドファンディング(以下CF)では、この場所を大切に守り続けてきた先人たちの存在をあらためて知ることとなった。

修繕のために多くの人たちが寄せてくださった寄付は、想像を上回る金額となった。お金という形だけでなく、メッセージが添えられ、手紙が届き、励ましの電話もあった。この場所を心の拠り所としている地元の人たちや、距離を超えて気持ちを表そうとする人たちの存在に心打たれた。

CFの期間中は、新型コロナウィルスの影響で外出もままならず、人と会うことが憚られる日々でもあった。

その中で気付いたことがあった。

実際に顔を合わせて話をし、空間や行動を共にすることで人はどんなに癒され、励まされているか。声や視線や仕草、その人の体温を感じられることがどんなに尊いことか。その熱量や愛情で人は動かされる。その人がその場所にいることには揺るぎない意味があるのだ。

「日常」は決して当たり前のことではなかった。

 

どんなに文明が発達し、便利になったとしても、きっとその本質は変わらない。それが、人間が人間たる所以なのではないだろうか。

私は多くの人たちによって支えられ、生かされている。

この地を守り継いできた先人たちの存在と、心に浮かぶ大切な人たちのまなざしを確かに感じながら、今日もこの地に立っている。

 

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私の一冊

古川佳代子

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「いしぶみ  広島二中一年生全滅の記録」 広島テレビ放送 編 ポプラ社

表紙を開くと見開きには石に刻まれた名前が…。これは、広島二中慰霊碑に刻まれた子どもたちの名前です。

昭和20年8月6日。その日、子どもたちは世界で最初の原子爆弾により自分の命が絶たれることなど露とも知らず、家族にいつものように挨拶をし、家を出たのでした。

広島に原子爆弾が落とされた時、20数万の方が命を奪われ、多くの人が原爆症で苦しみ、今も原爆病院には長い入院生活を送っている患者もいるのです。「20数万人」「多くの人」「患者」と文字にするとなにか一つの抽象的なもののようにも感じられますが、その単語の向こうには、言葉のなかには一人ひとりの個人がおり、それぞれには家族があり、生活があり、夢があり、「明日」があったはずなのです。

ひとくくりにすることで見えなくなりがちな一人ひとりが、どのような子どもであったのか戦時下ではあっても家族との語らいを楽しみ、友達を笑いあい、今日が明日に続くと信じていた子どもたち。誰一人として奪われてよい命はないのに、簡単に奪ってしまい奪うことが正義となる戦争。

戦後75年といわれる今日が「戦前」とならないよう読み継ぎ、手渡したい1冊です。

 

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ほのぼのと

女郎蜘蛛

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夏休みに入ると、「ラジオ体操」が毎朝の日課となります。

山鳩の鳴き声に後押しされ、スタンプカードを首から下げ、旧森小学校の校庭を目指します。

ある年、スタンプカード以外にもう1セット必ず携えて行くグッズがありました。

ビニール袋と長い棒です。

ジュウシマツ、手乗り文鳥・金魚を飼っていた心優しい母がこの年は新たに九官鳥を我が家に連れて来たのです。

この九官鳥「きゅうちゃん」の朝ごはん調達が私に課せられた任務だったのです。

 

ラジオ体操からの帰路、往きに目を付けておいたポイントで、メリハリのきいた黒と黄色のキメキメ女郎蜘蛛を棒の先端に取りつかせ、ビニール袋に捕獲します。

気分はハンター!

 

「きゅうちゃん」は病気の為、その後わずか1年足らずの命でした。

夏の朝露・朝日に煌めく蜘蛛の糸を背景に「ラジオ体操」、「女郎蜘蛛」そして36歳で他界した母へと、連想ゲームのように記憶を手繰り寄せます。

花火のようにきれいな記憶のままに消えていく私のひと夏の思い出…。

 

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私の一冊

石川拓也

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「哲学と宗教全史」 出口治明 ダイヤモンド社

500ページ近くある分厚い本ですが、読了したときには静かに拍手を送りたくなるような良い本でした。

以前「全世界史」も紹介した出口治明さんが、「哲学と宗教」にフォーカスして「人類全史」を書くとこうなる。

有史以来、人類が命がけで紡いできた生き延びるための「思想」の全体像が、朧げながらつかめてくるような気がします。

個人的に、抜群におもしろいのはやはり古代。

東は仏教・バラモン教・ジャイナ教などが発祥したインド、古代〜中世中華が育んだ儒教・道教・仏教の中華三大宗教。

西はギリシャ哲学の諸々派や、世界最古の宗教といわれるゾロアスター教(拝火教)から、セム系一神教(アブラハムの宗教)のユダヤ教・キリスト教・イスラム教の誕生と発展。

私たちが生きる現代のこの世界が、先人たちの知的格闘の末に作り上げられたものであるということがよくわかります。

仏典や聖書・クルアーン、四書五経、実存主義・唯物論から構造主義まで。頭がクラクラしてきます。

蛇足ですが、古代・中世の日本では、時の権力者の方針により、仏教と儒教を行ったり来たりしていたようです。

このふたつに対しては、日本人として理解できる肌感覚がありますが、なぜそこで道教が3つ目の選択肢として根付かなかったのか。謎であるとともに、道教のスローライフ的な教えが興味深く、少々惜しい気がします。

 

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土佐町ストーリーズ

弁才天(高須)その3

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むかしむかし小栗殿いう豪士が樫山に来ておった。その娘が夜になると引地と言う所で、麻を積んで(つむぐ)来る言うて出かけて行きよったと。

ある日のこと、その引地と言う所の人に道でばったり出合うて、娘が毎晩お世話になりよります言うてあいさつしたところが、そんなこたぁちっとも知らん、家へは来ゃーせん言うたそうな。がでん(納得)がいかんもんじゃきに、オゴケ(糸を入れる物)の底板を抜いて糸を入れておいたと。娘はそれを知らんとオゴケをかかえてその晩もまた出かけたと。

そこで、引っぱっていっちょる糸をずうーとつけて行ったら、弁才天の所に出た。弁才天の田のふちに細長い水溜りがあったですがのう。それが池みたいになっていてガマがきれいに生えちょった。娘はそこに座って麻を織りよった。おっかあが行って、「オマンそんなくで麻を積みよるかよ。」言うたら、池の中にとび込んだ言うのう。それから蛇になってしもうたと。

おっかあはびっくりしてもどって来よって、じきに引地の上の畝で血がおりた(死んだ)と言うのう。そんでそこをチオレと言うようになったそうな。その上には山ノ神を祭っちょる。

町史

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