2021年1月

土佐町ストーリーズ

樽の滝の話(田井)

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吉野川に地蔵寺川と汗見川が合流して程なく、南岸側に東西に走った国道をつっきるように、鳥井谷が流れ込んでいる。

この谷は田井山に源を発して、鳥井集落八戸をうるおしていて、水は冷たく、美しく澄んでいる。

樽の滝は、この谷の中程、国道から約二百メートル位登ったところに、雌雄二双となって流れ落ちていた。雄の滝の滝つぼから雌滝まで約二十丈程で、水の豊かめな時期には水しぶきが飛散し、水音が四方の山にこだまして勇壮であった。

当時、この雌滝の水口(水の取り入れ口)に、直径一メートル、深さ七メートルと思われる穴渕があって、誰言うとなく、そこに蛇が棲んでいることが信じられ、そのために部落が富んでいた。

田井上野部落古城に、権根(ごんね)という気の強い男がいて、こうした話を信じなかったものか、または、蛇に挑戦して自分の力を人々に示そうと考えたものか、その穴を鎚で打ち割り始めたのである。驚いたのは蛇である。滝つぼに覆いかぶさるように生い繁っていた、トガの大木の穴にはいこんでしまった。

権根は、尚も蛇を追求して許さなかった。ついに、トガの大木に火をはなった。炎々と燃え続ける火は、七日七夜に及び、蛇の死霊は谷川の水に泡となって流れ去った。それからというものは、不作が続きに続いた。部落の人々は、蛇のたたりであると考えたのであろう。霊をなぐさめるために小さな祠を建て、穴菩薩を安置して祭り、今も秋の実りの頃、その祭りは続いて行われている。

蛇を焼き殺した古城の権根は熱病にかかり、七日七夜「熱い熱い水をかけてくれ、水をかけてくれ」と絶叫しつつ死んだということである。

部落の人は、この谷を焼淡谷とその後呼ぶことにした。

今、鳥井谷をたずねる人はまれであるが、蛇の棲んでいた穴渕は、二メートル位残っている。

館報

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私の一冊

石川拓也

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「へうげもの」 山田芳裕 講談社

「へうげもの」と書いて「ひょうげもの」 と読みます。「ひょうげる」という言葉の意味は「ふざける」とか「おどける」。現在でいう「ひょうきん」(これはこれで古いですが)に近いでしょうか。

ときは戦国。織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将・古田織部を主人公として描いた歴史マンガです。

戦国時代の漫画といえばほとんどが「戦(いくさ)」や「武」をテーマにしたものですが、「へうげもの」は茶道や茶器、美術や建築など、戦国時代に花開いた「美」や「数奇」を中心に物語が展開していきます。

「へうげもの」(=ふざける者)は主人公である古田織部を表す言葉です。作中で躍動する古田織部の肩の抜けたふざけっぷりの人柄を指していながら、同時に「美」や「数奇」の方向性を指す言葉でもあります。

つまりそこには対比として飾り気のないストイックな美を愛した千利休がいて、古田織部は利休の弟子でありながら、もう少しヘンテコで不細工なモノ(=へうげもの)を好んだというのです。後世ではそれを文字通り「織部好み」と称します。

史実と創造が交差しながら濃密な物語が編まれていくので、とてもこの項では紹介しきれないのですが、楽しく読めると同時に深く勉強にもなるマンガです。

 

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読んでほしい

なんちゃあない

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ほんの10分間ほどの出来事だった。

小学校2年生の娘が学校へ行くために家を出た。私は娘を見送ったあと、家の中へ戻った。そこにはぬくぬくとテレビを見ている長男がいた。「時間、大丈夫なの?」と声をかけると、彼はやれやれというように腰を上げ、準備を始めた。着替えて顔を洗い、ランドセルを背負って「いってきます」と、玄関の戸を開いたそのときだった。

「母さん、これ!」

彼の足元には、緑色の大きな山ができていた。近寄って見てみると、それは大量の「抜き菜」だった。大根やカブ、チンゲンサイ…。根にはまだ湿った土が絡み、葉には朝露が光っている。両手に抱えるのがやっとだった。

娘を見送り、長男が玄関を開けるまで、ほんの少しの間に届いた贈りもの。

一体誰が届けてくれたのか?

私は、思い浮かんだその人に電話をかけた。

その人は電話の向こうで「なんちゃあない!」と笑い、「朝、仕事に行く前に、家の前に置いたのよ」と言う。

山の人たちは朝からとても忙しい。牛の世話や田んぼの見回り、草刈り、ゆずの収穫。木を切り、猪をとるための罠も見に行かなければならない。そういったたくさんの仕事の合間に、わざわざ野菜を届けることが「なんちゃあない」わけはない。

「なんちゃあない」とは、土佐弁で「そんなことなんでもないよ!」「気にしないで!」という意味だ。山の人が言うその一言、器の深さが感じられるこの言葉に、私はいつもじんわりと痺れてしまう。

その人にとって「なんちゃあない」ことが、誰かの「特別」になることがある。その人のさりげない行動や、発した言葉。下を向いていたとき、うなだれているとき、今まで何度「なんちゃあない」に救われてきただろう。それは私自身に向けられた、確かなまなざしだったのだ。

その人は「カブは、一夜漬けにすると美味しいで」と言った。山の中をそっとかき分けると、いくつものカブがあった。泥を落とし、塩をふったその紅色は、はっとするほど鮮やかだった。

 

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私の一冊

古川佳代子

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「ほんとうのリーダーのみつけかた」 梨木果歩 岩波書店

戦後75年。日本は戦争のない平和な国だといわれるけれど、実はそう思わされているだけではないのかしら、と時々不安になる時があります。そんなとき目に入ってきたのが本書のタイトルでした。

この不安な気持ちを平らげ、私を導いてくれるリーダーの見つけ方を教えてくれるのか、なんとありがたい!と読み始めたのですが、それは大きな誤解でした。そもそも、自分で考えることを放棄して「だれか」にすがろうとすることこそ「危うい」のだと、ガツンと叱り飛ばしてくれたのが本書です。

社会が急激に変化し前例のない時代に、それでも何とかして生き延びなくてはいけません。そしてそれは、あとあと悔み、眠れない夜となるような手段ではない生きのび方でありたいものです。

その道を一緒に歩いてくれるリーダーを、そしてもしも悔むような選択をしてしまったとしても一緒に耐えてくれるリーダーを、自分の中に育てていくことが「ほんとうのリーダーをみつけること」なのだと語りかけてくるのでした。

 

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笹のいえ

あけましておめでとうございます

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新年あけましておめでとうございます。

日頃のあれやこれやを綴る雑文も足掛け四年。相変わらずの拙い文章ですが、ゴトゴトやっていきますので、今年もお付き合いいただけたら嬉しいです。

昨年12月に新しい命を迎えて、ついに七人家族になりました(別の機会でご紹介できたらと思います)。まだ小さな身体だけど、大きな存在感。彼女が加わって、僕ら家族の形が整った感があります。この先、絆が一層強くなり、一人ひとりの役割がより明確となり、次の未来に続いていくのだろうと考えると、とても楽しみです。五人兄弟たち、記事にもちょこちょこ登場する予定ですので、これからもこのエッセイと渡貫家をどうぞよろしくお願いします。

 

 

さて。

 

前回、風景のことについて書いた。

心身に潤いを与え、エネルギーと恵みを惜しみなく注いでくれる自然の中で暮らしていると、拝みたくなるくらい感動や感謝することがある。その一方では、台風や地震などの災害は遠慮なしに僕たちが積み上げてきたものを台無しする。天候だけでなく、ある種の生物に対しても注意しないといけない。スズメバチやハメ(まむし)は生死に関わるほどの強い毒を持っているし、猪や鹿などのいわゆる害獣は田畑を荒らし経済的な打撃を与える。

天気は地球の摂理だし、獣たちはぞれぞれ生きるため、命を全うするために行動している。災害とか獣害というのは、こちら側の都合であって、人間という立場を離れれば、それはただ「起こっている」だけ。

自然は人のことなどお構いないし、人類への配慮なんて持ち合わせていない。

結局、人に優しくできるのは、人しかいないのだ。

相手を想い、敬い、一緒に前を向いて進む。それは僕たち人間同士しかできないことだ。

でも、現実はどうだろうか。社会は、国は、世界は、そして、自分はどうだろう。

生まれたての三女を抱っこする。うちの猫より軽い。

吹けば飛んで消えてしまいそうな彼女の存在が、僕にそんなことを考えさせるのかもしれなかった。

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山峡のおぼろ

防空壕

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昭和20年(1945)の春、石原の小学校を出て、旧制の海南中学校に入学した。

高知市の西町に家を借りて、母と2人で住んだ。父は戦地に居り、石原の実家には祖父母が居た。

太平洋戦争が悪化の一途を辿っていることは、食糧や各種物資の不足などから、ひしひしと感じられた。小中学生の疎開も始まっていた。

一番心配なのは空襲であった。各地への空襲のニュースを聞くたびに、「高知市はいつやられるろうねえ」ということが日常的な会話になっていた。

空襲が気になるのか、春の終わり頃に祖父が馬車曳きさんを雇って1人で、防空壕掘りにやってきた。馬が曳く荷車に鍬やスコップ、鋸や手斧、金槌などの道具と、木材、板などを載せ、自分もその上に乗って来た。当時60歳過ぎだった。

家主さんの了解を貰って翌日から、庭で祖父の防空壕掘りが始まった。朝から晩まで、食後の休憩もとらずに続けた。昼食後に母が、

「ひと休みしたら」

と言っても、

「明日にでも、いや今晩にでも空襲があるかもしれんきに」

向う鉢巻で作業に熱中していた。

私も日曜日はもちろん、ほかの日も学校から帰るとすぐ、自分に出来る手伝いをした。

まず胸のあたりまでの深さの、5,6人は入れる長方形の堀が出来た。堀の内側には板で壁を作り、一辺には階段がついて板が敷かれた。

天井になる部分には厚い板をかぶせ、掘り積んでいた土をその上に盛り上げた。こんもりとした壕になった。

1週間ほどで終った。祖父は、

「思うたより早う出来たが、途中で空襲が来やせんかと、気が気じゃなかったぞ」

と、吐息をつくように言っていた。

排水設備などは無いため、雨が降ると水が溜まり、そのつどバケツで汲み捨てた。それでも、防空壕がある安心感は大きかった。

空襲警報が出るたびに、その壕に逃げ込んだ。

そして7月4日未明の、あの高知大空襲。もちろん、その時も壕に入った。

しかし、それまでとは全く様相が違っていた。飛行機の爆音が異常に近く、それがいつまでも続き、それに爆発音がまじってきた。

そのうち、

「空が真っ赤じゃ」

近所の誰かの叫び声でみんなが壕から飛び出し、揃って小高坂山へ逃げた。

山から見る高知市は、空も街も赤く染まり、それがどんどん拡がっていた。

幸い、我家は助かった。

その日の夕方祖父が、石原から歩いて様子を見にやってきた。

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