とさちょうものがたり

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

藤田純子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「泣きたくなったあなたへ」 松浦弥太郎 PHP研究所

『年齢を重ねるにつれて、いろいろなことができるようになります。

たいていのことに、うまく対応するコツみたいなものができてきます。

でもなぜが年齢を重ねるにつれて、不安はより身近に、くっきりと大きくなり、見て見ぬふりができなくなります。

そうしてどんなに疲れていても眠れないのです。

あれこれが目の前に迫ってきます。

将来の不安。自分の弱さ。一日のわだかたまり。

もうごまかしはきかない。しっかりと向きあわざるを得ないのです。歳をとればとるほど…。』

 

これは、作者のまえがきの一部ですが、この文章に心をグッと掴まれて読み始めました。

気をはらず、無理をせず、自然体でいながら大切なことを忘れない生き方、日々の小さな気づきに向き合う少しの努力…。

優しい人になれそうな気がします。

藤田純子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
くだらな土佐弁辞典

ひすばった

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

ひすばった

【動】干からびた

例:バッタがひすばった (バッタが干からびた)

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
私の一冊

鳥山百合子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「ふくろうくん」 アーノルド・ローベル作 文化出版局

座ってお茶を飲むのが大好きで、いつも大まじめ。それでいていつもクスッと笑わせてくれるふくろうくんが大好きです。

この本の中には5つお話があって、その中でも『うえとした』というお話を子どもたちは気に入っています。

「ぼくんちの2かいはどうなっているのかなあ。いっぺんに2かいと1かいにいられるやり方があるはずだぞ」。

そう考えたふくろうくんは、階段をものすごい勢いで一晩中上がったり下がったり駆けどおし。

「ぼくがうえにいるときは、ぼくはしたにいないんだ。ぼくがしたにいるときには ぼくはうえにはいないんだよ」。

ふくろうくんはそう悟ります。

ふくろうくんのような人と一緒に暮らしたらきっと楽しい。

 

表紙の写真にある羽は、ふくろうくんが階段を駆けのぼったときに抜け落ちた羽。。かな?

鳥山百合子

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
土佐町ストーリーズ

高峯神社の手洗石 後編

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

また古老によるとこの手洗石を運び始めたのは、明治10年のこと、地蔵寺の岡田勝次なる者で、神社まで6kmの坂道を運ぶ計画をたてた。

「石は大きな木のまた枝でつくった木馬にのせ、しばりつけて、おん綱めん綱をかけた。おん綱には赤ハチマキの男衆。めん綱には赤手拭い赤だすきの女衆が、声をそろえ力を合わせた。

石の上には高知から来た歌い手が乗り、赤手拭いでほうかむりし、手に紅白のざいを持ってこれをかつぎ、

高峯神社の石引きは、忠臣蔵のお芝居か、お石はおかるぢやヤレコケヤサアノウウン

など木遣節のはやしを合わせ数百人、人海戦術で山坂をずるずる引き上げたものだそうな。

引き手を引き子といい、若い元気な男女は遠くの者も聞き伝え、嶺北地方の各村、群の中部、南部、高知や遠く高岡郡南部、東は岸本あたりからも参加し、毎日数百名が奉仕したらしい。

当時は酒も土地酒をつくり、毎日40ℓから50ℓもあけることがあったというし、直径1メートルものひきなべ3杯の汁を炊き、大釜で20kgから、時によると30kgの飯を炊いたので、米が食えるという魅力で参加する者も増したという。

農閑期を利用し年中行事のようになり、明治15年、5年目、安吉部落の入り口、通称「境」というところで中止となった。

当時経済上の問題や宗教上の問題やで四国で讃岐の琴平と並び称され信仰の篤かった三宝山高峯神社の神仏合祀の大権現に紛争が生じたりして中止になったものと思われる。

爾来、歳月は流れて1928年、石が座ってから43年目、昭和の御大典記念事業にと昭和3年3月、時の地蔵寺村村長・西村繁太郎さんの肝入りで石引きが再開された。

当時の青年が中心になって奉仕したが、今度は知恵と工夫、機械器具の進歩がモノを言って人海戦術に頼らず、ぞうさなく引きつけた、とも言われている。

町史

 

高峯神社の倉庫には、その時に使用した綱が現在も保存されています。

 

以下も併せてお読みください

土佐町の大神様 髙峯神社 前編

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
私の一冊

石川拓也

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone


“New York City Transit Authority Objects”           Standards Manual

以前、NASAなどいくつか紹介したデザイン・マニュアルシリーズ。

この一冊は、ニューヨーク市交通局が制作していた様々なものを、若きデザイナーたちが収集して編集して出版して、一般の人の目にも届くようにしたもの。

おかげでなかなか面白いものを見ることができます。

ニューヨークのバスや地下鉄関連の出版物などはもちろんのこと、メトロカードのデザインや地下鉄乗務員の制服、はたまた作業用の分厚い手袋まで。ちなみに手袋は作業で実際に着用した痕跡がはっきりと付いています。
これを一冊にまとめたのはとてつもない”交通局オタク”なんでしょう。

 石川拓也

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
土佐町ストーリーズ

高峯神社の手洗石 前編

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

 

ここなあたりをまだ森郷と言うたころ、高峯神社は讃岐の金毘羅さんと並んで四国ではえらい神様であちこちは沢山お詣りにきょった。

神社の下から段々になって平い(ならい)宅地があるが、あこには宿や料理店が並んでいたそうな。

そんな頃の話よね。

三宝山(=稲叢山)の八合目ぐらいの所に土俵の大きさ位の石で、中の窪んで四・五斗ばかりの水が入る石がある。

あれは手洗石よ。

石原から平石に行く途中の、有馬林道入口のあたりの川原にあったそうなが、それをあこまで担いあげたそうな。

沢山の信者が何十人何百人となく縁日には来よったから、その信者たちが毎年毎年少しずつ引き上げて、あんな高い所まで運び上げたというから偉いもんよ。

明治になって神仏混淆はいかん言うて、三宝山も信仰が薄らいで、引き上げる人も無うて、ああやって八合目で止まっているそうな。

それが昭和三年御大典記念として村がとりあげて現在のような位置格好になった。

 

高峯神社の手洗石

後編に続く!

以下も併せてお読みください!

土佐町の大神様 髙峯神社 前編

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
私の一冊

藤田純子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「ぼくと象のものがたり」 リン・ケリー作 すずき出版

 

貧しさのために学校に行けず、一日中働かなければならない少年ハスティンは、妹の治療費のためにサーカスに出稼ぎに売られます。

そこで密漁によって家族と引き離された子象のナンディタと出会う。

人権を無視し、動物を虐待しもののように扱うサーカス団での生活は絶望的とも思えた。

子象とハスティンはどのように解放されてゆくのか…。

世界の国々の中の最低限の子どもの権利が保証されていない子どもたちについて、この本は目を開いてくれます。

そして、象が誰かを助けるために自分の命をも差し出す、愛情深い動物であることも教えてくれます。

藤田純子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
私の一冊

鳥山百合子

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「海べのあさ」 マックロスキー文・絵 岩波書店

ロバート・マックロスキーは素晴らしい絵本の数々を残しています。この「海べのあさ」をはじめ「かもさんおとおり」「サリーのこけももつみ」「すばらしいとき」など、絵も文章もとても美しく大好きです。

「海べのあさ」は、ある日、サリーの歯が一本ぐらぐらし始めたところからお話が始まります。

お母さんと話をして、いつ歯が抜けるのか楽しみに待つサリー。
海べで今晩のスープにするためにハマグリを取りに行っていた時、気づくと歯が抜けていたのです。
歯が抜けてもサリーは買い物に行ってお店の人とおしゃべりをして、アイスクリームを食べて、ハマグリのスープを楽しみに家に帰ります。

大人には「あたりまえ」になってしまったことが、小さな人にとってはどんなことも特別なこと。
毎日は「あたりまえ」なことでできているようですが、でも実はそうじゃない。

マックロスキーのまなざしは、いつもそういったことを思い出させてくれます。

すえの娘の同級生のお友達が何人も歯がぐらぐらしていたり、抜けて大人の歯が生え始めている子がいます。
娘は、自分の歯もぐらぐらするのかな?いつ抜けるのかな?とちょっとドキドキしながらも何だか楽しみにしているようです。

娘の歯がぐらぐらし始めた時、このお話をもう一度読んであげたいなと思っています。

鳥山百合子

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

地域協働学部オリジナルUSBメモリを作りました。

土佐町の職人さんが、土佐町の材で作りました。

ひとつづつ表情が違います

地域協働学部のロゴを焼き印しました

組紐の赤は下記のブランドブックとお揃いです

 

 

まず、話を最初から始めると‥。

以前、地域協働学部のブランドブックを作成させていただきました。

プロデュース・写真: 石川拓也  デザイン: 品川美歩  文章: 山崎はるか

今では珍しい「糸綴じ」です。赤は今回のUSBメモリのヒモとお揃い

 

 

今回紹介しているUSBメモリは、このブランドブックと同時進行で作成したものです。
作成したのは土佐町の職人さんである川田康富さん。

川田康富さん

 

康富さんの本職は板金職人さんですが、革細工や木工などもできてしまうオールマイティな職人さんです。

その康富さんの発案により、材料は槐(えんじゅ)という木材。土佐町にも生息しています。
槐はその丈夫な性質と「延寿」につながる語感から、「長寿の木」「幸福の木」とも呼ばれています。

その槐の木材を康富さんが加工し、紐留には鹿のツノを使用しました。鹿のツノも土佐町のものです。ロウ引きのヒモを編んでくれたのは森舞香さん。

 

鹿のツノの紐留

 

このUSBメモリとブランドブックは、高知大学地域協働学部が、卒業生が採用される可能性のある企業の採用担当者に向けて、学部のイメージを伝えるために作成したものです。

USBメモリの内部には、ブランドブックのPDFデータと、同時に作成した学部のイメージ動画が格納されています。

来春に初の卒業生を送り出す高知大学地域協働学部、ブランドブックとUSBメモリが少しでも彼らの未来の手助けになれればいいなと思っています。

実物を見たい方はいつでもご連絡くださいね。

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone
私の一冊

石川拓也

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone

「国民総幸福度(GNH)による新しい世界へ ブータン王国ティンレイ首相講演録」ジグミ・ティンレイ(著)日本GNH学会(編) 芙蓉書房出版

 

「ブータンの名宰相」と呼ばれるティンレイ首相が、2010年に高知(!)を訪れ講演を行った際の講演録です。

GNHを基にした国づくり、理想を掲げつつ口だけの理想論に終わらせないGNHという新しいモノサシについて、その推進役であるティンレイ首相自身が非常に丁寧な言葉で解説しています。とても漠然とした抽象度の高い「幸福度」というモノサシは、政策につながる具体性があってなんぼ。「言ってるだけではダメですよ」とティンレイ首相が発言しているわけではないけれど、行の合間からそんなメッセージを受け取りました。

この講演が高知で開催されたということに、なんらかの巡り合わせの妙を感じます。

 

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someone