ある日のこと。
保育園から帰ってきた次女が「とうちゃん、あそぼ!」と声をかけてきた。倉庫で何かの作業をしていた僕は、いつものように「これが終わったらね」と答えた。しかし、同時に「これ」が今日中に終わらないことを知っていた。
それを聞いた次女は僕の方をじっと見つめて、はっきりとこう言った。
「とうちゃんとあそんでもらったことない!」
驚いて振り返った僕の頭は真っ白で、言葉が出てこなかった。彼女がそう言うなんて、思ってもみなかった。
遊んでもらったことがないなんて、そんなことはないだろう。時間があるときには遊んで「あげている」じゃないか。あのときも、このときも。反論の言葉が喉まで出かかった。
しかし、ともうひとりの僕が疑問を投げかける。
本当にそうか?
もっと彼女との時間を捻出することはできなかったか?
「あとでね」と言いながら、次の瞬間スマホでどうでもいい投稿をスクロールしていたことは一度や二度ではなかったはずだ。そんな僕の様子を彼女は観察していて、だからこそ、口を突いて出てきたのが冒頭の言葉だったのではないか。
その考えが心に広がったとき、なんだかとても恥ずかしくて、気持ちがソワソワした。忙しい毎日に流され、いつも何かに追われているように感じていた僕は、彼女の一言で、子どもと遊ぶ時間さえ惜しいと思っている自分に気づかされたのだ。
僕は家の周りで仕事をすることが多い。それは、子どもたちに親の働く姿を見てほしかったからだし、親としても子どもたちの成長を身近に感じたかったからだ。しかし、その環境に慣れてしまうと、いまの僕のように時間の使い方を勘違いしてしまう。
たとえば、農作業をしているとき。子どもたちが遊びたがっているのに、「いまは忙しい」と言ってしまうことが何度もあった。その度に子どもたちは残念そうな顔をしながら去っていく。しかし、彼らが僕のそばで遊びたがっている理由は単純で明快だ。今日あった嬉しかったこと悔しかったことを聴いてもらい、今日初めてできた何かを見てほしいのだ。
そんな大切なことを、忙しさにかまけて見過ごしてしまう自分がいた。自分が何をしているのか、何が本当に大切なのかを自覚しなければ、家族との大事な時間を見過ごしてしまう。次女の一言は、そんなことに気づかせてくれたのだった。
写真:次女と三女。こんな表情もいまだから見られるのかもしれない。心身の成長とともに変化して、記憶はどんどん過去になっていく。