日当たりの良い山あいの道を上っていくと、時折牛の鳴き声が響く。土佐町相川地区で牛を育てる川井畜産。道の途中に建つ牛舎には、土佐あかうしの母牛と仔牛、黒牛がいた。8頭ほどの牛たちは皆、太陽に体を預けるように目を細め、人の気配を感じたのか、ゆっくりと顔をこちらに向けた。仔牛はコンクリートの餌場にちょこんと収まって日向ぼっこ。仔牛が母牛に体を寄せると母牛は優しいまなざしを向け、気持ちよさそうに日差しを浴びていた。
土佐町は土佐あかうしの日本一の生産地。土佐あかうしは土佐褐毛牛ともいわれ、高知県の山間部を中心に飼育されている褐色の毛をした牛のこと。年間500~600頭しか出荷されていない貴重な品種で「幻の和牛」と呼ばれている。赤身のなかに適度なサシ(網目のような白い脂肪)が入り、上品で控えめな脂があって、旨味が濃い。近年ますます人気が高まっている。
牛の生産農家には2種類ある。母牛を飼育して仔牛を産ませ、約7~9ヶ月間飼育した仔牛を市場へ出荷する繁殖農家と、市場で仔牛を買って約20ヵ月かけて肉牛として飼育し、出荷する肥育農家がある。
川井畜産では繁殖から肥育、出荷までの一貫経営をおこなっており、土佐あかうしと黒牛を合わせ、現在約350頭の牛を飼育している。
土佐町にはかつて100戸ほど牛の畜産農家があったが、現在は生産者の高齢化などで20戸以下に減少。その中で一貫経営をしているのは川井畜産を含めて3戸。川井高廣さんが一貫経営を開始し、息子の規共さんが経営を引き継ぎながら、家族や従業員と共に日々牛を育てている。

一日の始まり
早朝5時半すぎ、川井畜産の一日が始まる。
8つある牛舎を順番に回り、牛に餌をやる。生後17ヶ月から出荷するまでの牛を育てる牛舎で、餌を与えるところを見せてもらった。
凍てつく12月の朝。牛も人も呼吸するたび白い息があがる。牛舎は6畳程の広さに区切られた部屋が並び、床にはおがくずが厚く敷かれている。柵の間から顔を出せるようになっていて、高廣さんが近づくとそばに寄ってくる。仔牛は生まれてからひと月も経たないうちに親から離し、牛用のミルクをやって育てる。「一頭ずつ3ヶ月間、毎日朝晩。初めは二リットルの哺乳瓶であげて、だんだんと量を増やしていく。人間が全部やっちゅうきよね、うんと甘えよね」
牛舎外側には牛の水飲み場が設けられている。牛が飲む水は山の谷から引いている。「牛にとって水を飲むのはすごく大事なこと。きれいな水を飲まんといかん」
牛は柵の外へ顔を出し、水を飲む。高広さんは手桶とバケツ、小さなスポンジを持って水飲み場の掃除を始めた。牛が水を飲むうちに、糞や餌のかすが水中に混じる。手桶でかすを汲み取ってバケツへ。ザブン、ザブン。冷え切った空気に水音が響く。高廣さんは水飲み場を1箇所ずつ、スポンジで擦ってきれいにする。水が減ると新しい水が供給され、氷点下になると水が凍らないよう自動的にヒーターのスイッチが入る。水を触ってみたら、ぬるま湯よりもややぬるい。
その間に高廣さんの妻・三津子さんが飼槽に稲わらを入れていき、掃除を終えた高廣さんが配合飼料を入れる。牛は鼻先やあごに飼料をくっつけながら、長い舌で舐め取って口に運ぶ。「おいしいんやねえ」と思わず声をかけたほど、満ち足りた表情だった。
8時過ぎ、朝の餌やりが終わると、人間が朝ごはんを食べる。朝ごはんを食べ終わったら、田畑の仕事をし、調子の悪い牛がいれば獣医さんに診察をしてもらったり、発情期を迎えた牛がいれば家畜人工授精師に連絡をし、来てもらって種付けをする。夕方16時頃からは夜の餌やり。全ての牛舎の餌やりが終わるのは18時過ぎ。明日の朝の餌の準備をして、一日の仕事は終了となる。
一年中365日、毎日の仕事。従業員の休日はあるが、高廣さんご夫妻と規共さんご夫妻は何か用事がある時以外、休みはない。
朝の餌やりが終わった頃、雪が降り始めた。

ブルー・ライト・ヨコハマ
牛舎ではFM放送が流れている。ほぼ昭和の歌謡曲で、隣の人との会話が聞こえないくらいの音量だ。「ラジオをつけるのは音や人の気配に慣れるため。音が何にもないところへ知らん人が来たら、走り回ったりして大変なことになる。夜に餌をやって家に帰るまで、一日中聴かせてる。あの曲聴きたいって牛は言わんけど」そう言って高廣さんは笑った。
川井畜産の牛たちは、いしだあゆみさんが歌うブルー・ライト・ヨコハマを聴いて育つ。
川井高廣さんのこと
1952(昭和27)年、川井高廣さんは土佐町相川の中代地区で生まれた。学校へ行く前、山にコブテ(小枝で作った罠)を仕掛け、小鳥を捕ったりして遊んだ。両親は農業を営み、田畑を耕す役牛として土佐あかうしを一頭飼っていた。
「僕が高校を卒業する頃には、農家は機械化されていった。10戸の内5戸くらいは役牛として土佐あかうしを飼いよったのが、だんだんと肉用に切り替わってきて。畜産センターなどを利用して種をつけて、子は市場で売る流れになってきた」
当時、近所には酪農を営む家が20戸ほどあり、後継者もいた。肉用牛を育てる人の後継者はおらず、多頭化する人もいなかった。嶺北高校を卒業後、親戚の勧めもあり山口営農技術研修所へ進学。2年間畜産について学び、1973(昭和47)年、20歳の時に土佐町に帰ってきた。
帰ってくる前、父親の正さんが牛小屋を建て「やりたいようにやらしちゃるき、飼え」と、土佐あかうしを二頭用意した。「親父は『長男はやるべきや、そうせないかん』と。戻ってきたのはええけんど、何にもない状態よね。酪農組合の青年部の付き合いをしながら、ホルスタインのヌレ子(産まれて間もない生後2週間くらいの赤ちゃん)を分けてもろうてね、それを育てて、肉牛に仕上げて出荷するという感じでやり始めた」
それが、川井畜産のはじまりだった。
(牛と共に生きる その2 に続く)




