

「サンタクロースとれいちゃん」 林明子 福音館書店
何年か前、息子の担任の先生が志保先生だった時、保育園のクリスマス会でサンタさんがくれたプレゼントがこの一冊でした。(プレゼントは担任の先生がそれぞれ選んでいます^^)
作者である林明子さんは、本当に温かい絵を描く方で会ってお話ししてみたいなあと思うくらいです。
「私の一冊」でも、たくさんの方が林さんの本を紹介してくれています。
24日、日曜日はクリスマスイブ。世界中のこどもたちがサンタさんからのプレゼントを楽しみに待っていることでしょう。
著者名
記事タイトル
掲載開始日

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。
人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。
土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?
みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!
(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)
外では乾燥した強い北風が吹き、木々を揺らしてる。
こんな寒い日にぴったりの作業は、米麹の仕込み。
かまどで米を蒸しあげれば、部屋も身体も温まり一石二鳥。
テーブルに米を広げると湯気が立ちのぼり、思わず深呼吸する。
人肌くらいに冷ましたら、麹菌を満遍なくふりかける。
しゃもじで丁寧に混ぜ、麹蓋に詰めて、豆炭こたつの中へ。
数時間ごとに温度を確認しながら切り返しをしていくと、こたつから段々米の甘い幸せな香りする。
三日後に米麹のできあがり。
今回のは味噌用だけど、たくさんつくっておいて冷凍保存しておけば、甘酒などを作るときに重宝する。
近所にあるスーパーの棚に麹菌の袋(しかも、醤油用と味噌用の二種類!)を発見したときは驚いた。
麹つくりが身近な土地ならではの品揃えだ。

名高山 | 山下いろは

上地蔵寺 | 上田英奈
年に5回発行される土佐町の広報。
年末の一号ができました。もうみなさんの手元には届いている頃かもしれません。
写真は表紙・裏表紙とも「土佐町ポストカードプロジェクト」で撮影したものです。
名高山は土佐町の真ん中あたりにそびえる山。山頂付近まで棚田があることに驚きました。
上地蔵寺は土佐町の南にある集落。すごい風景を見ながら稲を育ててますね。
撮影に付き合ってくれたいろはちゃん、英奈ちゃん、ありがとうございました^^
別の記事でも触れましたが、土佐町のフリーペーパー
を創刊しました。創刊号は「下田昌克、土佐町を描く。」です。
去る10月、土佐町を訪れた絵描きの下田昌克さんが描いた、土佐町の人々と風景の絵をふんだんに掲載しています。
下田昌克さんの独特な視点から描かれた土佐町の魅力を、濃縮されたそのままの形で町内外に広くお届けしたいと思っています。
ZINE(ジン)
「magazine」(雑誌)が語源とされる。リトルプレスとも呼ばれる少部数オリジナル出版。流通や企業規模などに左右されず表現できる手段として1960年代に米国で生まれ、90年代に西海岸を中心に広まる。国内でもZINEを発表・販売するイベントやZINE専門の書店などが出現し、関心を持つ人が広がっている。
今回、このように雑誌という形態で発行することは「とさちょうものがたり」にとってとても大切な意味があります。
ひとつは、ウェブが届きにくい人や地域にも、価値ある(と思える)ことがらを伝えていきたいということ。
土佐町という場所では、過疎化、特に山間部や小さな集落での過疎化と高年齢化が著しい。これは統計やデータではなく、ここに暮らす多くの人が身体で受け止めている実感です。
現時点において、高年齢化が進むということはすなわちウェブへのアクセスを持たない人がたくさんいるということと同義語なのです。とさちょうものがたりは、そういった方々にも、(私たちが今立っている)土佐町の新しい魅力を届けていきたいと考えています。(ということをウェブで書いているという矛盾はひとまず置いておいて)
もうひとつは、町で起こった素敵なできごとを、形にして残しておきたいということ。
ともすれば膨大な情報の大波に飲み込まれがちなこの時代において、形にしておかなければたやすく流れていってしまうものごとを、できるだけ丁寧に心を尽くして残しておきたいと考えています。
今回の下田昌克さんの1週間に関しては、みつば保育園や土佐町小学校のたくさんの子どもたちが関わってくれました。たとえば10年後20年後、彼らが大きくなった時に、本棚からこの本を手に取って、2017年10月のあの瞬間に戻れるポイントを作っておきたい。またそれがこういったイベントを開催する大きな意味でもあると思っています。
そしてこれまた大切なことですが、これは「とさちょうものがたり ZINE」の創刊号です。
現在のところは不定期発行とさせていただいていますが、2号、3号と続いていきます。
こちらもお楽しみに!
以下の記事も合わせてご覧ください。
いよいよ「下田昌克とさちょうアート展」当日。
下田さんが描いた絵、子どもたちと一緒に描いた絵、下田さんの著書、シルクスクリーンでプリントしたTシャツが並んだ。
前日の深夜までパンフレットの印刷、写真の印刷、下田さんが土佐町で過ごした1週間のスライドショーの作成を行い、その準備もできた。
展覧会一番最初のお客さまは、立割地区の筒井博太郎さんだった。
切ったばかりの柿の木の枝、吊るせるようにひもをつけたあけびを軽トラックの荷台に積んで「おーーい!」と笑顔で来てくれた。
「博太郎さん!」下田さんが駆け寄る。
「わあ!うれしいなあ……。」

博太郎さんは枝をかつぎ、絵が展示してある部屋へ運んでくれた。
素敵なお土産を手に来てくれた博太郎さんの気持ちが、何よりありがたかった。
博太郎さんは飾ってある絵を1枚1枚よく見ていき、そして自分の絵の前でしばらくじっと立っていた。
この日も博太郎さんの胸ポケットにはハーモニカ。
展示室のベンチに腰掛けながら『里の秋』を演奏する博太郎さんの隣に、下田さんも座る。
博太郎さんの隣で演奏を聴いている下田さんはとても幸せそうだった。

澤田弥生さんの絵の前でじっと立っている人がいた。
しばらくすると弥生さんの絵の写真を撮り始めた。
声をかけてみると弥生さんの娘さんだった。その時、娘さんは一人で来ていた。
しばらくしてからふと気づくと、絵の展示室のベンチに弥生さんが座っていた。
103歳の弥生さんが絵を見に来てくれた。自分で仕立てただろう素敵なジャケットを着て。
下田さんは「とてもうれしい。来てくれてありがとうございます。」と耳元で言った。
弥生さんは「いえいえ。」と笑って答えた。
そばには娘さんがいた。
「さっき絵を見に来たあと父の家に寄ったら、父が展覧会に出かける準備をして玄関先で待っていたんです。」
そして、この場所にまた一緒に来てくれたのだった。
弥生さんと下田さん。
並んで座る二人の背中が「出会った」ことを教えてくれていた。

保育園や小学校の子どもたち、下田さんが絵を描いた人たち…。みんなが何だか懐かしい友達に会ったような表情で下田さんと話していた。
お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、保育園の先生、地域の方たち…。この日だけで100人以上のお客様が来てくれた。
みんなが笑顔になっていた。
「絵を描いたかっこいい人生の先輩たち、みんなが展覧会に来てくれたことがうれしかった。」下田さんもとてもうれしそうだった。
下田さんは土佐町でたくさんの人と出会って、笑って、絵を描いた。
真っ白だったスケッチブックに土佐町の人たちを映し出した。
下田さんの描いた絵はその人そのものだった。

絵を目の前にして誰もが笑顔になったのは、胸の中にぽっとちいさなあかりが灯るように、今を生きている喜びに気がついたから。そんな風に思う。
この場所にあなたがいること。私がいること。
ひとりひとりが自分の場所で自分の人生を積み重ねていること。
このことは決して当たり前ではなく、実はとても味わい深くかけがえのないことなんだと下田さんの絵は教えてくれた。
本当に大切なことはどこか遠いところにあるのではなく、きっとすぐそばにある。
下田さんはそのことに気づく種を土佐町に蒔いてくれた。


飛行場へ向かっている時、下田さんは言った。
「土佐町の人たちは最初から懐深く、初めて会った時から受けとめてくれた。ここでしかできないこと、土佐町でしかできないことがあると思う。」
下田さんの著書『PRIVATE WORLD』の最後に、こんな言葉がある。
「いろんな人に会った。いろんなことがあった。僕がいろんなところでおっことしたうんこから、芽がでて花が咲いていたらうれしいと思う。」

下田昌克 1967年生まれ。 兵庫県立明石高校美術科、桑沢デザイン研究所卒業。 1994年から2年間、中国、チベット、ネパール、インド、そしてヨーロッパを旅行。 その2年間に 会った人々のポートレイトを描き続け、1997年、日本に持ち帰った絵で週刊誌での連載を開始し、 本格的に絵の仕事を始め、現在に至る。
おわり

爽やかな朝の空気を呼吸しながら、瀬戸川渓谷を仁井田亮一郎さんと一緒に散歩する。
亮一郎さんの飼い犬2頭、ジリとソラも一緒だ。 昨晩の宴会は黒丸の地元の方々がたくさん参加して、間違いなく楽しい時間だった。
酔っぱらった下田さんはこれまた酔っぱらった亮一郎さんのハゲ頭にクレヨンでカラフルで大きな顔を描いた。頭頂部に輝くその笑顔を見て、普段は夜更かしをしない黒丸のお母さん方もワッハッハと笑いながら夜を過ごしたのだ。

明け方までの雨で山も道も空気もしっとりと濡れている。緑が鮮やかに光っている。
瀬戸川渓谷の集落、黒丸は土佐町で最も山深い地域だけあって、朝の空気は清浄そのもの。亮一郎さんは黒丸の地区長であり、林業のエキスパートでもある。この辺りの山のことは隅々まで知り尽くしている。 ジリとソラの後を追うように、ゆっくりと蛇行する山道を歩く。このときこの場所だけ時間の流れ方が違うようだ。
途中、展望台に立ち寄る。
「正面に見えるあれが剣ケ岳、その奥には剣ケ滝という滝がある。右手にずっと上がっていくと稲叢山…。」 自分の庭のことを話しているような亮一郎さんの言葉を聞きながら、下田さんはゆっくり歩く。
もうすぐ紅葉が始まるだろう。
「またゆっくり来たいなあ。」と下田さん。 「またすぐ来るやろう。」亮一郎さんが予言めいたことを言う。
まだまだ散歩したい様子のジリとソラをなだめながら瀬戸コミュニティセンターに戻ってから、黒丸と亮一郎さんに別れを告げ、再び町に降りるため車を走らせた。
宿泊した黒丸地区から田井地区のころろ広場へ向かう。
下田さんに駆け寄ってくる子どもたちや「下田さんですか?」と声をかけてくる人が何人もいた。

青木幹勇記念館で明日の展覧会の準備をする。
この日も記念館の田岡三代さんがにこにこと迎えてくれた。
土佐町で描いてきた絵をスケッチブックから切り離す。
下田さんは脚立を使って麻ひもを部屋の壁と壁の間に渡した。
渡したひもにさらにひもを結び、その先にクリップをつけ、絵を吊りさげる。
絵は壁に貼るものだと思い込んでいたから、こんな展示の仕方もあるんだと驚いた。

子どもたちと一緒に描いた絵は体育館に飾った。絵は大きくて重い。
絵の裏側にガムテープを2重にして貼り付け、竹の棒を支えにして画びょうでとめていく。
竹の棒にひもを結び、体育館の2階から5人がかりで引っ張りあげる。
2つの大きな絵が並ぶと迫力があった。

土佐町の人たちの絵が並んでいる風景は壮観だった。
絵のそばに滞在中の写真が並ぶと、一人ひとりの人を描いた時のこと、これまで過ごした6日間のことが心に浮かび、これ以上ないというくらいよき出会い、よき時間だったのだということが胸に迫ってくるようだった。
下田さんはこれからも土佐町の人たちと出会ったことを心のどこかで覚えているだろうし、土佐町の人たちも下田さんとの出会いを心のどこかに置いて、時々思い出したりするのだろう。
出会うことでお互いの人生の中の登場人物になるんだなと思う。
出会って、同じ時間を過ごして、一緒にいて、話したり笑ったり泣いたり怒ったり…。「出会った」という事実はずっと消えない。その事実を重ねながら、人は自分の場所で生きるのだなと思う。
この日は夕方まで作業し、Aコープでバナナアイスを買って一緒に食べた。
滞在中、下田さんは白くま印のクボタのアイスが美味しいと気に入って、色々な味のアイスを毎日のように食べていた。バナナ味、サイダー味、コーヒー味、あずき味…ほとんど制覇したのではないかと思ったけれど、東京へ帰る日「黒糖アイスを食べ損ねた…。」と本当に残念そうだった。(東京へ戻る時、高知竜馬空港でもクボタのアイスを食べた。)
展覧会はいよいよ明日。できることは全てやった。

つづく


「さっちゃんのまほうのて」
土佐町みつば保育園の園長先生である川村光代さんが教えてくれたのは
「さっちゃんのまほうのて」。
今までたくさんの子どもたちにこの本を読んできたけれど、そのたびに涙ぐんでしまうのだそうです。
生まれつき右手に指がないさっちゃんが、幼稚園でままごとのお母さん役を争って「さっちゃんはお母さんになれないよ、手のないお母さんなんて変だもん!」と友達に言われるシーンがあります。
「この本の中の幼稚園の先生は、この時どんな風に子どもたちに話したのかなと考えてしまう」と園長先生は話していました。
実はこの本をちゃんと読んだことがありませんでしたが、この本のことを話す園長先生の姿を見ていたら読んでみたいと思いました