2019年6月

土佐町ストーリーズ

びわの季節

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5月下旬、白やオレンジ色の袋をつけた木があちらこちらにあることに気づく。
びわの木だ。
鳥に食べられないように、びわの実の一つひとつに袋をつけるのだ。

 

土佐町で暮らし始めてからずっとお世話になっていたおじいちゃんがいた。

おじいちゃんの家にもびわの木があった。

ちょうど家の向かいに住んでいたおじいちゃんが教えてくれたこと、一緒に過ごした思い出は数え切れない。
しいたけのコマ打ちの仕方を教えてくれた。梅や柿を取りにおいでと言うために、朝出かけて行こうとする私を階段の下で待っていてくれた。しし汁をストーブにかけてあるから食べにおいでと電話をかけてきてくれた。
夕方、おじいちゃんの家を見て「灯りがついたなあ」と思っていたのは、おじいちゃんも一緒だったと知った時の気持ちは今も忘れていない。

 

毎年5月、おじいちゃんのびわの木には袋がかかって、白やオレンジの花が咲いたように見えた。その「花」が咲いてしばらくたった頃、おじいちゃんはいつも声をかけてくれた。

「びわをとりにおいで」

 

私の息子はびわが好きだ。おじいちゃんは高いところのびわはハシゴをかけて採って手渡し、びわを頬張る息子を目を細めて見ていた。

おじいちゃんは、息子をまるで自分の孫のようにかわいがってくれた。息子にたけのこの掘り方を教えてくれた。息子は学校から帰るとランドセルを置いて自転車でおじいちゃんの家に行き、一緒にテレビの時代劇を見たり、そのまま夕ご飯をご馳走になって、おじいちゃんの運転する軽トラで帰って来たこともあった。

おじいちゃんと息子は、気の合う友達のようでもあった。

 

確か土佐町での3回目の5月を迎えた時、やっと気づいた。おじいちゃんは、びわを息子に食べさせるために袋をかけてくれていたのだ。「結くんはびわが好きじゃき」と言って。

 

 

今年の2月、おじいちゃんは亡くなった。棺に入ったおじいちゃんはいつものように穏やかな優しい顔で眠っていた。声をかけたら起き上がって笑ってくれそうだった。息子は棺のそばに膝をつき「なんで、なんで…」と泣き崩れた。「おじいちゃんは結くんが大好きじゃったきねえ」と言いながらおばあちゃんも泣いていた。みんな泣いた。

 

おじいちゃんがよく薪を割っていた田んぼの畦や薪がたくさん重ねられた小屋の前を通る時、ふと、おじいちゃんの気配を感じることがある。
ここは、おじいちゃんが歩いた道。おじいちゃんが生きた場所。

 

 

今年もびわの季節になった。
おじいちゃんはもういない。

それでもびわは色づく。

おじいちゃんは、今日もどこかで見守ってくれている気がする。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「ブルーベリーもりでのプッテのぼうけん」 エルサ・ベスコフ 作, 絵 福音館書店

お母さんのお誕生日の贈り物をブルーベリーとこけももにしようと考えたプッテ。森のあちらこちらを探したけれど見つからず、しょんぼりしていたところに現れたのは小人のおじいさん。その人はブリーベリー森の王様でした。森の動物たちや王様の子どもたち、こけもも母さんのおかげでブルーベリーとこけももがカゴいっぱい集まって、このお話は終わります。ページを開くたび、なんて美しい絵なのだろうと、ずっと眺めていたくなります。

いつのことだったか、お菓子の中に入っていたブルーベリーに気づいた娘が「あ、プッテが食べてたブルーベリー!」と言ったことがありました。
娘が大きくなった時、いつかどこかでこの絵本に再会することがあったら、プッテと友達だったことを懐かしく思い出したりするのかな。

絵本はそんな楽しみもつくってくれます。

鳥山百合子

 

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土佐町のものさし

【番外編】ブータン・GNHレポート No.7 | タラヤナ財団

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 土佐町の新しい指針を作る過程を追う「土佐町のものさし」、今回は【番外編】として、GNHの産みの親であるブータンのGNHの現状を、とさちょうものがたり編集長である石川がレポートします。

 

6.  タラヤナ財団(続き)

前回の記事はこちら

タラヤナ財団は、2003年に発足した 公益法人(Public Benefit Organization)。設立者は王女の母であるアシ・ドルジ・ワンモ・ワンチュク。その運営にはブータンの王族が深く関わっています。日本語では「タラヤナ財団」と呼ばれることが多いようです。

タラヤナ財団ウェブサイト

 

前回に続いてタラヤナ財団の活動の話です。

説明してくれたのはタラヤナ財団のタシさん(Tashi Dolma)とツェリンさん( Tshering Yuden)

 

 グリーン・テクノロジー(Green technologies)

車が通れる道から歩いて6時間。そんな立地の隔絶された村は、ブータンでは珍しくないそうです。モンスーンの時期には特に、完全に周囲から孤立し外部からアクセスできなくなるような山間の小さな集落。

そういった場所に住む人々の環境を改善することも、タラヤナ財団の大きなミッションの一つです。そのための手段が「グリーン・テクノロジー」。

環境に負荷をかける発展は、「国民幸福度」の観点から持続可能性が十分とは判断されず、そのために環境に負荷をかけないグリーン・テクノロジーの様々な技術が期待され使用されています。

具体的には、マイクロ水力発電、ソーラードライヤー、エコサントイレ(Eco-san toilets)などなど。環境に優しく維持費もかからず、なおかつ人々の生活環境を改善するための技術を普及する活動を行なっています。

 

 コミュニティ・ラジオ(Community Radio)

「健全なコミュニティにとって、「正確な情報」はきれいな水と同じくらい重要なものである」

この言葉に表されるように、タラヤナ財団はブータン国内の情報格差を解消しようとしています。具体的な手段としては、ラジオを国内の隅々に普及させること。

正確な情報へのアクセスを平等にすることで、特に貧困層と社会的少数派の人々が、政治の意思決定のプロセスから除外されないようになるのが最終的な目的です。

 

 タラヤナ・クラフト (Tarayana Rural Craft Outlets)

 

最後になりましたが、これがタラヤナ財団の活動の中でも、個人的に一番紹介したいものです。

前回の記事にタラヤナ財団オフィスの外観の写真を掲載しましたが、その右手にはタラヤナ・クラフトという財団が運営するクラフトショップがあります。

ここで販売しているものは、タラヤナ財団が企画開発したオリジナルの雑貨。その材料の多くを、ブータンの貧しい地域の人々から仕入れることで、少しでも経済的格差を解消しようというものです。

例えばイラクサを使用したバッグやテーブルクロスなどを販売していますが、このイラクサを織って布にするところまでが貧しい地域の人々の仕事。そしてその後のデザインや縫製をタラヤナ・クラフトのメンバーが行うという仕組みです。

ショップの裏手では、グッズの制作が行われています。右手の女性がアイロンをかけているバッグは、イラクサを編んだ布を材料にしたもの。農村地帯の人々が現地で編んだ布がここに送られてきます。デザインや縫製はここでの仕事。

この女性が作っているのはヤクの毛で作った動物のぬいぐるみ。ブータンに実際にいる動物たち、ヤクや鶴、犬などがモチーフになっています。

ひとつずつチクチク作る作業は気が遠くなります。

 

ここにGNHの大きなポイントがあると個人的には思いました。つまり、具体的な活動や物品などがあってこその「幸福度」。「幸せになりましょう」という言葉は、もちろん真理であり最終的な目標でもあるのでしょうが、手段の伴わない目的は、ただの空虚な言葉になってしまいます。

例えばタラヤナのこのショップに並べられた商品ひとつひとつの後ろには、GNHの理念が背骨となってその成立を支えているわけです。ですがGNHになんの興味がない観光客が「これいいね!」と言って買っていってもいいわけです。ここで大事なことは「これいいね!」と手に取ってもらえるようなモノを作れるかどうか。

そして全ての人にわかってもらえなくても、仕組みとしてGNHの理念がそのモノやコトの成立のためにエンジンとして動いていることではないでしょうか。

 

 

 

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私の一冊

藤田純子

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「八月十五日に吹く風」 松岡圭祐 講談社

「軍人に限らず夫人や子どもを含む一般市民に至るまで、日本人は自他の生命への執着が薄弱である。軍部による本土決戦および一億総玉砕、一億総特攻に誰もが抵抗なく呼応している。本土決戦において婦女子を含め、非戦闘員が戦闘員となりうる。日本への上陸作戦は、米軍兵士に多大な犠牲が生じる。」

太平洋戦争時、アメリカの日本人についての分析としてこのように記された書類が、原爆投下の最終決定に大きく影響したようです。占領後も、死をも恐れぬ日本人の反撃を警戒していたアメリカ軍は、きびしい占領政策を実施しようとしていた。

後のイラク戦争終結後、米軍は治安維持部隊を組織し、ゲリラとの戦闘を続けたことと同様であったかもしれない。

しかし、ある報告により、進駐軍は見解を180度変え、日本を武力で制圧する方策はとらなかった。

その理由となる報告とは…。

1943年、キスカ島での人道を貫き5000人の救出を成し遂げた、一見弱々しくも見える木村昌福少将のとった作戦とは…。

これは実話であり、登場人物も全員実在する人々です。

この本はむごい戦争の事実と、その最中、重い任務と重責を負わされながらも戦わずして尊い命の救出を成し遂げた感動の一冊です。

藤田純子

 

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山峡のおぼろ

金突鉄砲

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家の中の壁に色々なものが掛かっている。整理していると、金突鉄砲が出てきた。木の台に針金状の銛が付いたもので、魚を突く道具である。ご丁寧に「小学校四年の時の作」と書いた紙片が付いている。それと一緒に、水中眼鏡が結びつけられている。

突いた魚の大きさを計るため、木の台に寸法の目盛りを刻んでいる。それがセンチではなく、寸で刻み、ちょうど1尺(約30センチ)まである。尺貫法の時代を反映している。

手にとって見ていると、これを握りしめて渓流に行った時のさまざまなことが、実に鮮やかに思い浮かんでくる。

 

金突鉄砲は、山村の子どもたちの夏には欠かすことの出来ない道具であった。夏は渓流でアメゴを突き、春は釣り、秋と冬は山で小鳥をとる。今のような、室内で時間をつぶす方法がなかった時代である。当然、渓流や山が遊び場となる。
そのためには刃物が必要で、金突鉄砲の木の台を作るのも、冬に山へ罠やこぶてを仕掛けるにも、必ず刃物が要った。みんな、ナイフは勿論、鉈や鋸を楽に使いこなしていた。
金突鉄砲を小学校の4年の時に作ることが出来たのも、そんな時代環境のおかげであった。戦時中で、そんなものは売っていなかったので、みんな自分で作った。

 

針金で作った銛を弾き出して、魚を突く動力となるのはゴムである。このゴムを手に入れるのが一番大変であった。
強い力で銛を弾き出すには、それなりの強い弾力を持ったゴムが要る。しかし物資不足のどん底にあった戦時下では、ゴムなどは売っていなかった。
ちょうど村内に、木材とか供出米などを運ぶ公用トラックを運転する人が居た。子どもたちはその人に頼み込んで、交換済みの古タイヤチューブを分けてもらった。これを切って使えば、ゴムは充分過ぎるほどある。みんなで分けて大事に使った。

 

当時のアメゴは、今のように養殖放流でなく、天然ものであった。
働き盛りの男性は軍隊にとられて、渓流には若い大人の男性は居なかった。そのためアメゴは結構多く、大きかった。水中で突くと大暴れして、金突鉄砲をぐるんぐるんと振り回した。
いま、その金突鉄砲を握っていると、水中で暴れるアメゴの手応えが手首に甦ってくる。もう70年も前のことであるのに、ぐるりぐるりと翻るアメゴの腹まで、脳裏にはっきりと見えてくるのである。

 

感触といえば、渕の岩の下でウナギの頭を突いた時、その下半身から尻尾まで、金突鉄砲もろとも右手首にまで、強烈に巻きついてきたことがあった。そのすごい締め付けも、体感として残っている。

小学校4年の時に作り、中学、高校、大学と使い、その後も気が向けば使った。まさに歴戦の友ともいえる金突鉄砲である。

 

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私の一冊

藤田英輔

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「おじさん図鑑」 なかむらるみ文, 絵 小学館

おじさん!の仕草や言葉には、長年社会を歩いてきた人生が詰まっています。
おじさん!は小さいことは気にしない。
いつだって自分が中心!

そのタフさと見切りの早さは、長年の経験が生み出した術。
おじさん!を見習い、たまには本能に赴くまま過ごしてみてはいかが?
おじさん!力に学ぼう!!

そうすれば気持ちは楽ですヨ。 E談(編集部注:Eとはこの本を紹介してくれた「Eisuke」のEと思われます)

 

筆者あとがき(31才時):自分が完全なおばさん!になった時、この本がどう見えるか楽しみです。世のおばさん!達、どう見えていますか?

藤田英輔

 

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笹のいえ

水と空気

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以前の僕は、水と空気はどこもさほど変わらないだろうと思っていた。実際、どこを訪ねても違いを感じてなかったし、気にしてもいなかった。胸いっぱい吸い込んで空気が美味しい!とか、飲んだ後うまい!と思わず唸ってしまう湧き水、なんてコマーシャルかテレビの演出だよって、知った顔して言っていた。

はじめて土佐町に来たとき、周囲にそびえる山々に圧倒されたのを今でも鮮明に覚えてる。迫るような存在感に息苦しさすら感じた。そして、その山からやって来る豊富な水がこの地域の暮らしを支えている風景を、あちこちで見ることができた。

集落を歩くと、道に沿って水路があり、そこには山水が惜しみなく流れていた。昔はこの水で水浴びや洗濯もしていたそうだ。いつの間にか、うちの子どもたちは素足になって、水遊びをはじめていた。手を入れてみると、冷たくて透明で清々しい。ここで暮らしてみたいと思わせる感触だった。この水の一部は田んぼへも続いている。水がたくさんにあるということが、土地に住む人びとの生活や田畑の実りを豊かにし、気持ちに安心感を与えている。そんな風に思えた。

以前住んでいた場所では、農業用水は各地域で管理され、もらえる量や順番が決まっていた。隣で田んぼをやっていたおじちゃんから、この水を自分の田んぼに勝手に引いてしまう「水泥棒」の話を聞いたことがある。田んぼの持ち主はお互い知っているので、犯人はすぐ分かってしまうのだが、水が無くては米が育たない。収穫が無ければ、食っていけない。場所によってはそのくらい深刻な事態になることもあるのだ。

笹のいえでは、近くを流れる沢水を利用している(写真)。降雨量によって増えたり減ったりはあるが、枯れたことはない。上流には誰も住んでおらず、汚染の心配もほぼゼロだ。

上の子は物心ついたときから、下の子は生まれてから、ずっとこの水を飲んでいる。彼らはこの水を、「甘い」と表現する。僕の味覚はそれほど敏感ではないけれど、確かに美味しいと思う。その反面、みな水道水のにおいと味が苦手で、積極的には飲まない。外出にはマイ水筒を携帯するようにしている。

土佐町に移り住んで六年が経ち、ここの空気にも身体が馴染んできたように思う。

ひんやりとして、湿気を含んでいる山独特の空気感。川には川の音が、森には森の香りが、空気を通して五感に触れる。日の出前、白んだ景色の中で、伸びをしながら、その日最初の深呼吸をし、空気の存在を確認する。呼吸のたびに寝ぼけた頭と身体が少しずつ解れて、動きはじめる感覚が好きだ。

普段は当たり前すぎて、感謝の気持ちが薄れてしまうけれど、旅で長い間留守にしたときなど、あの空気が恋しくなる。

車で遠出して帰ってくるとき。

高知道の大豊インターを降りて減速し、運転席の窓を開け、車内の空気を入れ替える。

風の匂いを嗅ぎ、見慣れた景色に囲まれる。

これこれ、と思う。家に戻って来た、と実感するのが嬉しい。

 

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私の一冊

藤原美穂

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「あたまをつかった小さなおばあさん」ホープ・ニューウェル 著, 山脇 百合子 絵

 

小学校の3年生くらいの時、楽しくて、本当に感心しながら読んだ本である。

おばあさんが、知恵を働かせ毎日を大切に過ごしている姿が浮かんで来て、とても面白く、ワクワクしながら読んだ事だった。

藤原美穂

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くだらな土佐弁辞典

まける

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まける

【動詞】 あふれる・こぼれる

▼使用例:

「お母さん、鍋からまけゆう〜!!」

(お母さん、鍋からあふれてる〜!!)

 

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私の一冊

石川拓也

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「土佐の民話」 市原麟一郎 土佐民話の会

市原麟一郎さんは高知の宝だと思っています。

本当に長い年月、高知の民話を集めてまわり、この雑誌「土佐の民話」のように出版して次世代に残してくれています。

以前とさちょうものがたりにて、市原さんが収集した土佐町の民話を転載したいことがあり、ご本人にお電話したことがあります。

事情を説明すると快く了承していただきました。とても気持ちの良いやり取りをしていただいて感謝しています。

民話や神話を収集し、誰もがアクセスできるように出版するということが、後世の人間にとってどれほど大きなことか。

「人間を人間たらしめるのは物語だ」「人間のアイデンティティは物語によって作られる」などなど先人の言葉は完全な真理だと思っています。

そういえば、最近はまって観たドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」も最後は「物語」がキーワードになります‥が、ネタバレ注意でこれ以上は書きません。

話が思いっきり脱線しましたが、「神話や民話を、人が省みることがなくなる国は、そう遠くないうちに滅ぶ」とも言われています。

個人を超えて種として「私たちは、どこからどのように来たのか」ということがよくわかっている人こそが、「私たちはどこへ向かうのか」という問いにも良い答えを導き出せるのではないでしょうか。

 

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