柿ノ木地区
早明浦ダム堤体の上から上流側を眺めると斜面に張り付いたように見える集落「大渕地区」があります。その大渕地区から標高差にして約400m下方、湖になる前の吉野川近くに『柿ノ木地区』はありました。
柿ノ木地区は465年前、大渕から分家した川村武市郎の「主(おも)」が始まりで、その後「主」から「山口」、「新宅」に分家。今回は「山口」出身で、早明浦ダム建設により大きく人生を動かされた川村雅史(まさふみ)さんにお話を伺いました。
ちなみに「柿ノ木」の名前の由来は、根回り2メートル、樹高20メートル、樹齢300年と言われる甘柿の木があったためです。
雅史さんは昭和12年生まれの現在83歳。張りのある声とハキハキとした口調、大口を開けて豪快に笑う姿はまさに竹を割ったような性格を印象付けます。早明浦ダム建設にまつわる歴史に「光」と「影」があるとしたら、雅史さんは「光」の歴史を包み隠すことなく教えて下さいました。
父は写真屋
雅史さんのお家は専業農家でしたが、生まれつき体が弱かったお父さんは独学で写真の勉強をし、中島地区に「ホワイト写真館」を開業。当時はカメラを持っている家庭などほとんどなく、稲村ダムや長沢ダムまで自転車に機材を積み泊まり掛けで写真を撮りに行ったこともあったそうです。当時はカメラもフィルムではなく写真乾板というガラス板に写すものだったそうで、機材の重量もかなりのものだったとのこと。
カメラの材料購入は高知市内の「キタムラ写真機店」。今もなお続く「カメラのキタムラ」の前身で、創業は昭和9年になるそうです。雅史さんのお父さんは材料の購入と同時にカメラに関する知識をお店の方に学ばせていただきました。戦時中は食糧難だったこともあり、お金だけでなく芋などの食料で物々交換をすることもあったそうです。
そんなお父さんの影響もあり、小さい頃から今もなお写真に親しんでいる雅史さん。母校である吉野小中学校を卒業すると実家の農業を継ぎました。早明浦ダム建設時には電源開発に声を掛けられ、臨時職員として勤務。全盛期は80名程が勤務していたとのこと。当時の給料は月35,000円程で同僚の女性職員は月13,000円程だったそうです。
電源開発の臨時職員は雅史さんも含め20名程でしたが、ボーナスはなく、労働組合もなし。健康保険もなく、発電所の完成とともに全員解雇されたとのこと。その後、雅史さんは所長に声を掛けられ、今度は正社員として26年勤務されたそうです。
柿ノ木の主
かつては「本山の柿本」、「寺家の村山」と並び嶺北地域きっての大地主だった「柿ノ木の川村」。旧吉野村の初代村長となった「柿ノ木の主」出身の川村壮郎、続く二代目はその長男・元衛であり、特に元衛は数多くの功績を讃えられ、吉野小学校脇に碑が建てられています。
「柿ノ木の主」が主有していた土地の多くが、ダム水没地だったこともあり、個人で一番多い補償金が下りたと言います。推定ではありますが、当時では数人分の生涯年収に値するほどの金額だったようです。水資源公団と補償金の交渉をする際には「宅地で 300 坪もあるのはここだけだ」と言われたそうです。家には馬場や射撃場があり、競馬をしたり、射的の大会を開催していたとのこと。
その補償金で高知市内の土地をたくさん買ったり、当時60万円したマツダ・ファミリア・ロータリークーペの現金一括購入に使われたとか。その後、ボルボを購入したと思ったら、今度はセスナ機を購入したといいます。そのセスナ機がダム湖上空を飛行する姿を雅史さんも目にしたとのことです。
柿ノ木の山口
雅史さんが生まれ育った「柿ノ木の山口」は大半の土地が山として残ったものの、自宅は1町5反(約4,500坪)の田畑とともにダム水没地となり、築101年の主屋は買い取られた後、平石地区の「湖畔りんご園」で今も大切に住まわれています。
ダム水没地で栽培していたブドウの木30本だけでも多くの補償金が下りたそうです。雅史さん曰く、そのお金を持って高知市内へ飛んで行き、日産のニューブルーバードの最高クラスを現金一括で購入したそうです。補償金はそれを2台購入してもお釣りが返ってくるくらいの金額だったとか
補償金の額は各地区から選出された交渉委員が水資源公団と田んぼ、家、木など1つずつ交渉し値段を付けます。柿ノ木地区ではダム建設に反対するものは一切おらず、交渉はとんとん拍子で進んだそうです。その理由は2つあり、1つは柿ノ木部落全戸が水没するため、取り残される者がいなかったこと。そしてもう1つは水資源公団の柿ノ木担当者が柿ノ木地区の女性を嫁に貰っていたため、お酒を飲み交わしたりする関係だったことです。
お金というもの
交渉後、契約書に判を交わし登記の手続きが終わると、補償金はすぐに四国銀行へ振り込まれました。当時の利息は7%以上だったため、2,000万円も入れたら、家族が利息だけで暮らせたそうです。契約書に判を押さず粘り続ける方もいたそうですが、雅史さんとしては「契約を引き伸ばしても一切得はない。早く交渉を済ませれば、その分利息でお金が増えた」と合理的な考えをされていました。柿ノ木を離れる際の心境については「住み慣れた所を出る寂しさはあったが、これも時代の流れ」と僕がダム水没に思い描いていたものとは違い、あっさりとしたものでした。
50年の時を経て、今となっては「お金というものは結局残らないもの」とのこと。実際に補償金を手に入れた方の多くがお酒を飲んだりすることでお金を失ったそうです。最初は雅史さんの話を聞いて、「大金を手にして羨ましい」と思った部分もありましたが、雅史さんに「今、数億もの金があったらどうする?」と聞かれた時に、大金を手にしても幸せになるために使う手立てが思いつかないことを実感しました。
編集後記
今回、雅史さんにお話を伺うにあたり、雅史さんの奥様である川村千枝子さんが生前に執筆された著書「ふるさと早明浦」を拝読いたしました。執筆には3年ほど掛かったらしく、色々な人に話を聞いたり、写真を借りたりしたそうです。人に借りた写真を出版社に持ち込む際は万が一に備え、雅史さんが全て複製して使用したとのことです。
雅史さんや雅史さんの父・兼福さんが撮った写真も多く使われており、内容としては町史などにはあまり描かれていない、個人や家族を中心としたストーリーが多く、よりリアルな生活風景が目に浮かぶものになっています。
僕は毎日「さめうらカヌーテラス」から見ている風景の中に数多くの歴史が眠っていることを知り、湖に隠れて見えないエリアに多くのイメージを思い描くことが出来るようになりました。ダムが出来る前を知っている方、知らない方どちらが読んでも、今ある風景により深みを感じることが出来る本ではないかと思います。
土佐町立図書館にも置いてありますので、是非手に取ってみてください。