「山峡のおぼろ」の執筆を依頼され、引き受けた時、何を書こうかということが、具体的には即座に浮かんでこなかった。
思い浮かぶことは多々あったが、何にしぼり込むかということで2,3日迷っていた。
そんな折り、壁に掛かっている司馬遼太郎さんの色紙を見た時、ふとひらめいたことがあった。
産経新聞大阪本社で、司馬さんの「竜馬がゆく」の連載を担当し、次の「坂の上の雲」の連載を担当していた時、父が西石原の山で脊髄を痛める大怪我をし、これによって産経を退職して高知に帰った。
その時、餞別として司馬さんから色紙を頂いた。それには、
「婉なる哉故山 独座して宇宙を談ず 為窪内隆起君 司馬遼太郎」
と書かれている。これを見ていると、頂いた時の司馬さんの、
「大阪と違うて、土佐の山河はきれいやろ。そんな中で育った自分に返って、ゆっくり各種の思いに浸ったらええよ、という気持ちで書いたんよ」
という言葉が頭に甦ってきた。
小学校3年の時の昭和16年(1941)に太平洋戦争が始まり、中学校1年の昭和20年(1945)に敗戦となった。その間、色んな物が不足し、不便となり、敗戦の頃は物資不足のどん底であった。
殆どの家の青年、壮年の男は軍隊に入り、村人は老人、女性、子供が多かった。
子供でも小学校の高学年になると、農作業の手伝いなどをした。
その一方で、子供だから色々の遊びもした。テレビもない時代であり、外で遊ぶしかなかった。当然、山や川で過ごすことが多かった。
色紙を頂いた時の司馬さんの言葉が甦った時、戦中、戦後の苦しい時代の、子供たちのことを書こうと決めた。これも1つの時代の史実になるだろうという気になった。そして書いたのが、この40本の話である。
人それぞれに体験があるだろうが、自分としての“あの頃”を、思い出すままにまとめてみた。
余談だが、司馬さんの色紙には、懐かしいエピソードがある。
「婉なる哉」の「哉」の「ノ」が抜けているのに気付いたので後日、書き加えて頂くようお願いした。すると、
「君が退職と聞いて、気が動転してたんやろな。これもその時の正直な気持ちやろから、そのままにしとこうや」
と、笑いながら言われた。いかにも司馬さんらしい、思いやりに満ちた言葉である。
「山峡のおぼろ」は、司馬さんの色紙の言葉に後押しされて書き進むことができた、という思いが強い。
前述のように当時は、働き盛りの男性は軍に入っていたので、山や川での遊びや、その他色々のことを教えてくれたのは、村のじいちゃん、ばあちゃんたちだった。
思い出の中に、そういう人たちが多く浮かんできた。
書くに当たり、折りにふれて上手にすすめて頂いた担当の石川拓也さん、鳥山百合子さんに、心からお礼を申し上げたい。