大川村出身の川田佐代子さん。昭和32年にお嫁入りで地蔵寺に来ました。
当時、田んぼが少なかった大川村ではお米を食べることはほとんどなく、「地蔵寺ではお米が食べられる」と聞いて嫁いできたということです。
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土佐町の現在の人口です。(2017年6月末時点・土佐町公式サイトによる)
注:土佐町の総人口が3,997人(2017年4月末時点)から4,001人(6月末時点)に増加したことに伴い、当プロジェクト名も「4,001プロジェクト」に変更になりました。
“4,001プロジェクト”は土佐町に住む人々を、全員もれなく、写真家の石川拓也が撮影する計画。
念のため書いておくと、「全員もれなく」…あくまで目標です。
土佐町の人口の増減によって、タイトルもたまに変わります。 (敬称略・撮れたときに不定期更新)
以前、「土居の散歩道」という記事でも紹介した森地区の山道。
なぜかこの道がとても好きで、仕事中に頭が煮詰まるとちょっとだけ歩きに来たりしています。
この日、午後3時ごろの木漏れ日は、冬の日差しの柔らかさはあれど身体も心も少しだけ温めてくれるような気がします。
職場や生活圏のすぐ近くにこういった環境があることが、とても豊かなことだと感じます。
歩いているのは山﨑叶登くんと健塁くんの兄弟。
まだお母さんと離れるのを嫌がる弟の健塁くんを、叶登くんが優しく抱き抱えて歩く姿は立派な「兄」の後ろ姿でした。
鎌滝山は、さめうらダムの北、土佐町と本山町の境にそびえる山です。標高は1115.8メートル。
今回はこの鎌滝山を登ってきました。
鎌滝山の入り口は、大渕地区にあります。大渕地区を行き止まりまで車で走ると、そこには下の写真のような「鎌滝山登山者記帳場」があります。
大渕は基本的に一本道なので、道は間違いようがありません。この行き止まりのスペースに車を停めて、登山スタートです。
山頂への道のあちこちには、上の写真のようなピンクのテープが巻かれていて、森の中で非常に目に入りやすくなっています。
これは山頂への方向が合っていることを示しているもので、登山者が迷わないようにとの配慮です。
小さなことかもしれませんが、こうした配慮をコツコツと維持している方々、その労力には頭が下がります。
「鎌滝山 1115.8m」の看板が設置されています。右手には仏像?神像が。
仏像自体は風化していて、形状が少しわかりづらくなっていますが、仏像右手には「蔵王大権現」と彫ってあるのが読み取れます。
蔵王大権現 (蔵王権現)、調べてみると以下のような記述がありました。
蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊である。正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)[2]。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意[3]。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという[4]。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ということは、鎌滝山は修験道の山である、と言っていいのだと思います。上の仏像も風化の進行具合を見るとだいぶ古い時代に置かれのではないかと推測されます。
もし詳しい方がいらっしゃったら、ぜひ教えていただけたらありがたいです。
今回歩いたのは上のようなルート。4.2kmの行程を、3時間35分かけて歩きました。
先日この欄でご紹介させていただいた和田直也さんのお母さんが、和田美和子さん。
和田スタジオが現在の姿になる以前には、美和子さんのお師匠である秦泉寺さんという方が営んでいる写真館があったそうです。
美和子さんはある日その秦泉寺さんから「写真をやってみませんか?」と声をかけられたそうです。
当時美和子さんが写真をやっていたり技術があったわけでもなく、美和子さんご本人も「なんで私?」という思いだったそうですが、お師匠は何かしら眼力が働いたのでしょう。
その後美和子さんは秦泉寺さんの元で写真を学び、師匠が引退された後は日本写真文化協会主催の写真学校(東京)に行って勉強し、その後労働大臣検定一級技能士の資格を取得し、「和田スタジオ」として写真館の主に。
それが現在も続く「和田スタジオ」のストーリーだそうです。
美和子さんのキャリアの初期にはカメラもフィルムも全てが大きく、撮影したフィルムを暗室で現像という工程もご自身でされていたそうです。(この辺りの話は僕も興味が尽きず、止めどなく長引いてしまうので自制します)
少しおおざっぱな記述ですが、美和子さんが写真館をご自身で経営し始めたのが昭和50年頃。現在の「和田スタジオ」の姿になったのは昭和62年頃。
女性カメラマンとしても、女性経営者としても、おそらく非常に珍しく、高知だけでなく全国でも草分け的な存在だったのではないでしょうか。