とさちょうものがたり

みんなのアルバム

1960年代の森地区消防団

  • 日時1960(昭和40)年代

  • 場所旧森屯所

  • 撮影者

  • 投稿者

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この写真は、土佐町の森地区に住む上田英一さんのアルバムの一枚です。

英一さんは現在92歳。10年ほど前まで、森地区で上田百貨店という商店を営んでいました。

若い頃、森地区の消防団にも入っていたそうで、これは操法大会で入賞した時の写真です。操法とは、消防団員がポンプ車や小型ポンプの取扱い、操作の手順を習得する訓練のこと。その操法の技術を競う大会を操法大会といい、今でも2年ごとに開かれています。(注:コロナ禍に伴い、昨年・今年度は中止になっています)

前列右端が英一さん、この時30代。

当時は嶺北消防署がなく、各地区に消防団がありました。火事が発生すると半鐘を鳴らし、町内に火事を知らせたそうです。その音を聞き、消防団員は自分の仕事を放り出して現場へ向かいました。

森地区にはポンプ車が一台あり、飛び乗って現場へ。けれども、ホースからまともに水が出ず、火を消せずに全燃してしまうことも多かったそう。

土佐町には現在も消防団が各地区にあり、町内放送が入ると団員は昼夜を問わず現場へ向かい、町の人たちの安全を守ってくれています。

 

 

上田英一(上ノ土居)

消防車

 

*現在の消防団(田井地区)です。

土佐町消防団田井分団(操法選手)

 

 

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とさちょうものづくり

鹿の角ガチャの今

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鹿の角ガチャの今

 

鹿の角ガチャのその後がご報告できていなかったので、今回はそういった趣旨の記事です。

その前に、鹿の角ガチャの記事いくつか以下にリンクを貼っておきます。

 

「鹿の角ガチャ」はじめました!

 

シカのシンカ 高知新聞に掲載されました!

 

集まる鹿の角(ありがとうございます)

 

さて、その後おかげさまで販売も順調で、2カ所の販売所である「うどん処 繁じ」と「高知蔦屋書店」両方で、約3週間ほどで補充に伺うようなペースで売れています。

ガチャの機体に満杯になるカプセル数は40です。単純に言えば、約3週間で40個が売れているような状況です。

順調な売れ行きを目の当たりにして、商売的(資本主義的)な正解として考えると、設置場所を増やしてどんどん大量生産すればもっと儲かるやないか仕事が増えるやないか、という考えが普通に脳裏によぎるのですが、この商売そう単純なことでもないようです。

 

①障がい者施設の利用者さんたちの仕事にすること ②土佐町の資源を利用してガチャの内容とすること

以上の二つがこの取り組みの目的ツートップですので、この目的を実現できないと意味がない。通常、ガチャガチャのビジネスモデルは”中国などの工場で大量生産”→”原価を抑えて大量販売”というものだと思うのですが、この鹿の角ガチャはそういった通常モデルとは根幹の目的が異なるので、言葉を変えると①地元の人々の仕事にならないと意味がない ②地元の(余った)自然資源を利用できないと意味がない という言い方もできます。

くどくどと理屈っぽいことを書いてしまいましたが、そんなような理由で、そもそもの目的実現のためには、「自分たちのペースを守る」「やたらと広げすぎない」というのが正解になるようです。

こういう考え方は最近よく耳にする「脱成長」なんかとも関連のあることとも思うのですが、それはまた、こうして実際の取り組みで実証しながらまた改めてご報告したいと思います。

 

助っ人登場

この鹿の角ガチャ製作に、頼もしい助っ人が現れました。青年海外協力隊で土佐町に半年ほど滞在していた八木裕次郎さんです。

なぜ青年海外協力隊が土佐町に?と思われるかもしれませんが、この全世界的なコロナ禍において、海外赴任を一時中断している方々がその間地方自治体に赴任するという試みをされているそうです。

八木さんがとさちょうものがたりの作業場を訪れた際に、鹿の角ガチャ製作に志願してくれたので、ありがたくやってもらうことにしました。

作業中の八木さん

 

100個製作したところで、その後の作業は大豊町の障がい者施設ファーストさんへ。利用者の皆さんと一緒にカプセルに詰めるところまで完成させました。

 

ファーストでの作業風景

 

この時に完成させた「鹿の角お守り」は近々に販売に回される予定です。

それから「鹿の角ガチャ」に関しての大切なお知らせ「業務提携します!」ということも書くつもりでいたのですが、今回の記事が長くなったのでその件は次回に回したいと思います!

 

 

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メディアとお手紙

お便りの紹介

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とさちょうものがたりが始まってから、お手紙やはがき、メールなど、たくさんのお便りをいただいています。今まで届いたお便りはすべて大切に読ませていただいています。なかには文通のようにはがきでのやりとりが続いている方も。心を寄せてくださっている方がいるということは、私たち編集部にとって大きな励みとなっています。

 

先日、絵本作家の西村繁男さんからお葉書が届きました。

2018年、西村さんは奥さまのいまきみちさんと共に土佐町立みつば保育園を訪れ、絵本の読み聞かせをしてくれました。その後も新しい絵本が出版されるたびに送ってくださり、土佐町立図書館には西村繁男さんの絵本がたくさん並んでいます。

高知市出身の西村さんですが、西村さんのおじいさんは土佐町旧地蔵寺村の村長だった西村繁太郎さん。幼い頃、繁太郎さんの家に遊びにきては地蔵寺川で泳いだそうで、土佐町にはとても懐かしい思い出があると何度も話してくれました。

 

前略

「とさちょうものがたり08」ありがとうございました。

窪内さんの文章はとてもおもしろく拝見しました。川を中心とした子供時代の生活、自然と密接につながっていた時代、体験からいろんなことを学んでいた様子、とても興味深いものがありました。

ぼくの育った高知市の家の前は鏡川で、そこで遊んだ思い出は心に残っていますが、窪内さんと川の関係の深さにはとうていおよびません。

山や川の風土はそこに暮らす人々にとても大きなものを与えてくれたのですね。

便利になったこの時代、さてと考えるものがあります。

一つ一つていねいに掘りおこしてくれてありがとうございます。お元気で。

PS . 写真もいいものでした。

 

山や川、空や土や風…。自然の数々は、コンクリートの上では味わえない何かを届けてくれます。

西村さんといまきさんに、また土佐町でお会いしたいです。

 

西村繁男さんが土佐町にやってきた!

 

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みんなのアルバム

ホワイト写真館の前で

  • 日時1950(昭和30)年末頃

  • 場所中島

  • 撮影者不明

  • 投稿者

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これは、土佐町の川村雅史さんが見せてくれた写真です。

雅史さんは現在83歳。土佐町の早明浦ダムの底に沈んだ、柿の木地区に住んでいました。これはダム建設当時の話を伺っているときに見せてくれた一枚です。(当時のお話は後日、「さめうらを記す」でお伝えします)

左に見えるのは、雅史さんのお父さんが営んでいた写真屋「ホワイト写真館」。この写真屋さんは現在の中島地区・中島観音堂のそばにあったそうです。

右から二人目の男性が、雅史さんのお父さん。右の女性は雅史さんのお母さんの妹で、妹夫婦が車で遊びに来た時の写真だそうです。

なんてかっこいい車!

ナンバーは「高385」、シンプルでいいなと思います。高知県で385台目の車だったのでしょうか?

車種については詳しくないし確証もないのですが、写真で判断するにアメリカ車フォードの「ロードスター」なのかな?と思います。詳しい方がいたら教えていただけると幸いです。

道は舗装されておらず土の道。土煙をあげて走るこの車を、道ゆく人が振り向いていたかもしれないですね。

 

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この赤い羽根のマーク、誰でも一度は目にしたことがあると思います。

そう、赤い羽根共同募金のシンボルマークです。小学生の時、「共同募金お願いします!」と言いながら校門の前に立った思い出があります。募金した人に手渡される赤い羽根は、名札に貼り付けたりしていました。

その共同募金の全国的な企画、啓発宣伝、調査研究、都道府県共同募金会の支援を行っているのが「社会福祉法人 中央共同募金会」です。

今回、職員の皆さんが着るパーカーを作って欲しいというご依頼をいただきました。今から2年前、中央共同募金会の常務理事である渋谷篤男さんが土佐町に来て、シルクスクリーン体験をしてくださったことがご縁でした。

デザインは、担当者の方とイメージをやりとりし、最終的に「今と昔をつむぐ物語として、新旧のロゴを入れる」ことに決定。

それがこちらです!

 

印刷を担当したどんぐりの寿光くん(右)ときほちゃん(左)

 

 

 

背中は、第一回共同募金運動で使われたというロゴと、共同募金の英訳「Community  Chest」の文字が入っています。ロゴは「Community  Chest」の頭文字「C C」を組み合わせたものです。共同募金運動が全国的に始まったのは1947年ということで、その年号も入っています。

そして胸には、現在のシンボルマークである赤い羽根。赤い羽根をシンボルとして使い始めたのは、第2回目の1948年から。(1回目のCCマークは幻となってしまったそう)

 

このパーカーに込められた「今と昔をつむぐ」ことが、一枚ずつ手で刷り上げていくシルクスクリーンの風合いと合っていると喜んでいただきました。

「今はコロナ禍もあり、職員一同が揃う機会がまずないのですが、このような楽しみができて本当によかったと感じています。」という担当者の方のメッセージもうれしかったです。

 

一枚ずつ手で印刷していきます

 

赤い羽根共同募金の活動

恥ずかしながら、今回のご依頼で、赤い羽根共同募金の活動の内容や意味を初めて詳しく知りました。

共同募金で集められたお金は、さまざまな地域課題や社会課題を解決するため、日本全国で取り組まれている民間の活動に使われています。

現在、赤い羽根共同募金では「赤い羽根 新型コロナ感染下の福祉活動応援全国キャンペーン」が行われています。

このキャンペーンで集められた寄付金は、「いのちをつなぐ支援活動を支える」ことをテーマに、感染症の影響の長期化とともに増加した生活に困窮している方などの支援や、いのちに直接関係するような深刻な課題に対する活動への支援に使われます。

・民間の相談活動の支援
・食に困っている人への支援(こども食堂や地域食堂、フードバンク等の食支援)
・住まいに困っている人への居住支援、孤立防止やDVシェルターなどの居場所づくり等)

など、支える人を支える支援も行っていきたいそうです。

詳しくはこちら→https://www.akaihane.or.jp/

とさちょうものがたりとしても、今何ができるのかを考え、行動していきたいと思います。

 

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いつもとさちょうものがたりをご覧いただきましてありがとうございます。

とさちょうものがたりは、8/16(月)〜8/20(金)の間、お盆休みをいただきます。

再開は8/23(月)になります。

皆さまも、素敵な夏をお過ごしください。

 

 

 

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土佐町ポストカードプロジェクト

2021 July 黒丸

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黒丸 | 和田いと

 

土佐町の北端に位置する瀬戸川渓谷。「アメガエリの滝」という地名を耳にしたことがある方は多いのではないかと思います。

この「土佐町ポストカードプロジェクト」の最初の一枚は、満月の光に照らされたアメガエリの滝だったのですが、今回は滝の少し上流のいわゆる「渕」での撮影です。

ムシムシとした夏の日の午後でしたが、滝周囲の空気はひんやり、流れる透明な水も足をつけてみればひんやり。爽やかな清涼感にひととき包まれるのでした。

岩の上に登ってくれたのは、和田いとくんです。

 

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土佐町ストーリーズ

戦中戦後の時代を生きて今思うこと 後編

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土佐町の谷種子さんが、自ら体験した戦中戦後の出来事を寄稿してくれました。(前編はこちら

 

1945年の終戦の年だったか、 その前年だったか定かではありませんが、 私の家から見て、西の空をトンボが群れ飛んでいるくらい沢山の飛行機が飛んでいるのを見たことがあります。 後でB29だと聞かされました。

高知市は、 1945年 (昭和20年) 7月4日未明に、B29が焼夷弾の雨を降らし焼け野原となり、沢山の犠牲者をだしました。

嶺北地方は、空襲されることはなかったけれど、 空襲に備えて防空壕を掘る家もあり、防火訓練をしたり、本土決戦にそなえ、 竹槍を作り敵と戦うのだとその訓練をしたり、当時の国策(精神論) に翻弄されました。

また、出征している兵士の 「武運長久」 を祈念するため、 吾川郡上八川村 (現・いの町) の若宮八幡宮に日参詣でのため、 二人組の交代で参拝に行っていました。 順番が来れば母は隣の方と二人、 朝早く提灯を灯し出かけて行きました。 現在は、国道439号を車で30分位で行くことが出来ますが、 あの時代には 「郷ノ峰トンネル」 はなく、車もなく、自分の足で歩いての山越えでしたから、 その苦労は大変だったと思います。

この様な時代に少女期をすごしましたので、小学生のころから、家族の一員、 戦力として、田植え、 田の草取り等の手伝いをしました。 当時の学校は、春と秋には農繁期の休みが一週間位あったと思います。 皆、 家の手伝い をしましたし、労働力のない家には「勤労奉仕」といって手伝いに行きました。 全て食糧増産のため、皆が生きる為でした。

 

 

田井山の八合目位に、 家の炭焼き窯があり、父は家から炭窯の煙の色を見て、 夜中でも火を止めるため、山に登っていきました。 子供心に「すごいなアーーー」と誇らしく思ったことでした。 炭が出来ると、茅で編んだ炭俵に炭を入れ、背負って家まで持ち帰る手伝いをしました。

また、 田井山の五合目あたりにあった採草地を開墾し、芋畑にしていましたので、 植付け・草取り・収穫と随分この畑には通いました。 収穫のときは、芋を「かます」 に入れ、これも背負って家まで持ち帰りました。 今と違って、なにをするにも動力はなく、全て人力での対応でした。

家は百姓でも、米も麦も保有米を除いて、残りは全て供出しなければなりませんでしたので、余分なお米はなかったけれど、 必要なものとの物々交換に使ったり、不幸ごとで、 どうしても必要な方に融通することもありましたので、麦ご飯だけでなく、サツマイモを入れたご飯や菜飯も食べました。

しかし、ひもじい思いをしたことはなかったです。 サツマイモで空腹を満たすことが出来ましたから。 また、サツマイモは大切なおやつでもありました。

戦後76年、今思うことは、戦中戦後の食糧難に命をつなぎ止めてくれた芋畑や田畑が耕作放棄地となり、荒れていくさまに、 未来の人達の為に 「これでいいのか、これでいいのか」と悩んでしまいます。

 

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土佐町ストーリーズ

戦中戦後の時代を生きて今思うこと  前編

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土佐町の谷種子さんが、自ら体験した戦中戦後の出来事を寄稿してくれました。

 

 

1933年(昭和8年) 生れの私は、小学校2年生の1941年 (昭和16年) 12月8日太平洋戦争が始まり、6年生の1945年 (昭和20年)8月15日、終戦の日を迎えました。

その日は、学校は夏休みでしたが、私は同級生数人と「当直」の当番でしたので学校に行っており、日本が戦争に負け、無条件降伏をしたことを先生から聞かされました。

戦中戦後で特に記憶に残っていることは、食糧難、食べる物がなく、ほとんどの人が飢えに苦しんだことです。

私の家は農家で、田圃では、 米と麦を作っていました。 収穫した米と麦は、保有米(一家の食べる分)を残して、残りは全部供出しなければなりませんでした。

これまで養蚕のための桑畑であった処も、食糧増産のため、桑の木を除去し、サツマイモを作りました。山の採草地も開墾し、 芋畑となりました。 サツマイモも供出の対象だったと思います。

これは私の家だけのことではなく、どこの家も米や麦は保有米を残して供出し、 草地や山林の開墾出来るところは開墾し、サツマイモを植えました。

 

また、戦争末期にはどの家庭も働き盛りの若者は、召集や徴用で狩り出され、 留守宅は高齢者・女性・子供達だけとなり、不足する労働力を補う為、 旧田井村に予科練が駐屯し、 私達が通称 「ヅンヅン山」 といっていたところを開墾して、芋畑をつくりました。面積については記憶していませんが、 広い芋畑が出来、命をつなぐ一助になったと思います。

田舎の農村地帯でさえ、このように食糧増産に努めざるを得なかったのですから、 都会は大変だったと思います。

1944年(昭和19年)頃から都会から疎開してくる人達が増え、 転校して来た同級生も10人位いたように記憶しています。

皆、食べることに精一杯でした。 特に疎開してきた人たちにとっては、 わずかばかりの配給ではお腹を充たすことは出来ず、畑を借りてサツマイモや、 南瓜を作り空腹をしのいでいたと思います。

 

後編に続く)

 

*谷種子さんのことを書いた記事はこちらです。

木を植える人 その1

 

 

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土佐町ストーリーズ

順太地蔵 (南川)後編

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(中編はこちら

ただちに名主に報告され、順太の国元へも死体発見は知らされた。

役人は その翌日検死のために部落に来たが、よそ者の死に対する村役人の処置は極めて冷酷なものであった。

何処かで仕事中事故死していた順太の死体がたまたまの出水に流れて来たと断定して帰っていった。

村人達も順太の死因についてはガンとして口を割ろうとしなかった。やがて阿波からは母親お清が、順太の姉と共に死体引取りにやって来た。

そして、現場にコモをかむされている順太の死体に涙と共に対面した。この秋には可愛いい一人息子の順太にはお花と言う美しい嫁が 来る、その日を一日千秋の思いで指折り数えて待っていたのは順太にもまして此の母親ではなかったろうか。

焼野のきぎす夜の鶴はえば立て立てばあゆめの親心、世に子を思わぬ親があろうか。

順太の死因が他殺である事は一目遺骸を見た時歴然としていたし、血を分けた可愛いい吾が子の死因が、此の母親にわからぬ筈はなかった。

が、しかし村役人の検死もすんだ今殊に異郷の地で、女ばかりの彼女達には今更 その死因を追求することも出来なかったのであろう。唯、彼女の心中は悲しみと憤りで一杯だったのであろう。

涙も枯れ果てたお清母娘は順太の遺骸を箱におさめた。そして彼女はき然として言った。「順太 くやしいであ ろうが お前の遺体は 此の母が連れて帰ってやるが、順太お前も男なら魂魄、永久に此の地に留まりかたきをっ 」と言いおいて、その翌日阿波屋の人夫に付添われたお清母娘は、順太の遺骸と共に阿波に帰って行った。

一方、お花は順太が若者に殺されたその夜から床についてしまった。玄安夫婦の優しいいたわりの言葉にも口を割ろうとはせず、寝床で泣いていたが、お清母娘が阿波に帰ったその翌日、丁度、両親の留守中にお花の結婚準備に母親の作ってくれてあった白無垢赤無垢の嫁入衣装を身にまとい自宅より約四百メートルも上方の大きい石の上に上り踊り始めた。

彼女は順太恋しさに遂に発狂したのである。

折柄、初秋の夕日をあびて岩頭に順太の名をよびながら踊り狂うお花の姿は、遠く対岸の農家からも見られたが、村人達は二目と見ることができなかっ たという。

そして三日目精魂つき果てたお花は遂に岩頭に倒れ息絶えていたのである。以来この石を里人達は不登の石と呼び、百三十年の星霜を経た今なお、部落の人達はこの石に登る事はタブーとされている。

現在も植林の中にお花の悲しみを秘めた石はそのままの姿で、お花の悲恋をいたむかの様に残っている。

さて、その後、此の部落には不幸な事が続いた。ある時は木材伐採の人夫が仕事中に大けがをして死んだ。又ある時は昨日まで元気だった若者が発狂して廃人同様に成った。

ある家では若者が入浴中に頓死したり、川に流れた子供の水死体が丁度順太の遺骸が発見された川原の砂で発見された。

こうした不幸に見舞われた家の人達 は、お寺さんや神官さんをやとって御祈騰をした。その都度、順太のたたりだと神仏からのお告げがあった。

里人達はこれを順太狸と呼んで恐れおののいていた。そして、こうした不幸に逢った家では順太の霊を慰め冥福を祈って石の地蔵さんを作って立てたと言うが、依然としてくる年もくる年もこうした不幸な出来事は絶えなかった。

そこで名主は部落の主だった者を集め部落で順太の供養をすることに成った。

年号も変わって安政五年七月二十五日部落民は戸毎にたいまつを作り瀬戸川と吉野川の合流点に集り、あかあかと燃えるたいまつを川に流し念仏を合唱して順太の霊を慰めた。

その時部落で建てたのが今に刈谷橋に残る石の地蔵さん。以来星移り時は流れ て百二十有余年、今では順太のたたりも無く平和な部落のいとなみは続けられている。

そして、この悲しい恋の物語りも部落の人にさえ忘れ去られようとしている。

以上が順太お花にまつわる悲しくも哀れな物語りである。この物語りは昭和二十年の秋、足掛け三年目に召集解除されて帰宅した私が当時九十歳近くで病の床にあった部落の古老山中福太郎翁から聞いた話を要約したものである。

この福太郎翁は昭和二十五年に九十四歳で亡くなっているが、この翁の記憶に残っているのは安政五年に部落で供養した時のたいまつ流しに行った事、帰りにはこの下の清七ぢいに背負ってもらって帰って来た事」 であったという。なお順太以外の名は必ずしも実名でないとのことである。

 

町史 竹政一二三

 

 

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