とさちょうものがたり

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

石川拓也

「昭和天皇物語」 能條純一 小学館

「月下の棋士」をご存知の方が多いかもしれない漫画家・能條純一。

人間の感情を生々しく、同時にとても冷徹に描くことに定評がある漫画家ですが、最新作の題材が「昭和天皇」であると知ったときは非常に驚きました。

このテーマは、おそらく日本人作家が描くにあたって最も難しいもの。

同時に、昭和天皇のフィクション化というか、物語化が実現するぐらい、昭和から長い時が経ったということでもありますね。昭和は遠くなりにけり。

このテーマに手を出すのは勇気のいること。そう考えていたら、著者が4人いることに気がつきました。能條純一の他に、半藤一利(原作)・永福一成(協力)・志波秀宇(監修) です。

ですよね。一人では手に余りますよね。各々が得意分野を持つ専門家チームが共同で作っているという感じなんでしょう。打ち合わせの現場を覗いてみたいものです。

物語は昭和天皇裕仁を一人の人間として描いています。自分の心の内で、教科書でしか知らなかった人物に、少しずつ血が通っていくような感覚を覚えます。

青年・裕仁がどのような苦悩の末に8月15日の玉音放送の日を迎えるのか。日本の歴史の中で昭和天皇裕仁の役割とは一体なんだったのか。

まだまだ興味の尽きない作品です。

 

 

この記事は前回の「鹿の角ガチャの今」の続きです。

 

鹿の角ガチャの今

 

業務提携します!

突然ですが、とさちょうものがたりの「鹿の角ガチャ」、業務提携します。

お相手は梼原町の「ゆすはらジビエの里」の平脇慶一さん。

今回の記事はその経緯と内容をご説明します。

 

「ゆすはらジビエの里」の平脇さん(左)ととさちょうものがたりの石川(右)

 

まずは梼原町の「ゆすはらジビエの里」のご紹介から。

梼原町は鹿や猪などの野生動物が多く、そのため猟友会の活動も盛んです。ゆすはらジビエの里は、梼原の猟師さんたちと協力し、鹿や猪など農作物を荒らす野生動物の捕獲と解体、ジビエ肉としての販売を行なっています。

ゆすはらジビエの里が運用している「ジビエカー」は耳にしたことがある方が多いかもしれません。少し遠目の場所で捕獲された野生動物は、解体処理施設まで運搬する際に鮮度が落ち、販売に適さないものになってしまう場合がありますが、ならば施設側が動けばいいという逆転の発想で、「解体処理施設を搭載された車が捕獲場所まで移動する」という方法を編み出しました。

 

きっかけ

今年4月に、知人のお誘いを受けて梼原町を訪問しました。その際に梼原町前町長の矢野さんにお会いし、お話を伺っているうちに、梼原のいろいろな方々に紹介していただけることになりました。

その日のうちに矢野さんと一緒にあちこちを周り、紹介されたうちのお一人が前述の「ゆすはらジビエの里」の平脇慶一さん。

ちょうどとさちょうものがたりが鹿の角ガチャを開始する直前というタイミングもあってそのお話をしたところ、平脇さんの方でもピンとくるものがあったようでした。鹿の角ガチャ、実際の取り組みが始まった頃に「梼原でも同様の取り組みをしたい!」というご連絡をその後いただき、その後のお付き合いにつながっています。

実際、「ゆすはらジビエの里」では「竹ぼうき」という梼原町の障がい者支援施設と手を組み、鹿皮を使った工芸品などを制作していたという状況もとさちょうものがたりと似ている部分でもあります。

梼原町のガチャ本体は梼原の最も人が集う場所である「雲の上の図書館」内に設置されています。

 

業務提携、その内容

わざわざ硬い言葉で「業務提携」などと言ってみましたが、実際は半分冗談みたいな話です笑

「ゆすはらジビエの里」ととさちょうものがたりが手を組んで協力態勢で臨むのは、鹿の角の供給部分。

とさちょうものがたりの鹿の角ガチャの材料である鹿の角、この一部を梼原から供給してもらい、その代わりに、こちらで制作した「鹿の角御守り」の一部を梼原町のガチャに入れる。

お金はぐるぐる回らないけれど、鹿の角が梼原町と土佐町をぐるぐる回る。

その態勢を「ゆすはらジビエの里」ととさちょうものがたりが一緒に進めていくということが、今回の業務提携の内容です。

 

上図に示した内容、活動自体はこれからどんどん進めていきますという段階です。鹿の角が媒介する梼原町と土佐町との関係も、少しずつ強固なものにしていけたらと考えています。

 

ゆすはら雲の上の図書館に設置されたガチャは木目調です

 

 

 

みんなのアルバム

土佐村役場落成!

この写真は、土佐町の森地区に住む上田英一さんのアルバムの一枚です。
英一さんは現在92歳。10年ほど前まで、森地区で上田百貨店という商店を営んでいました。
1955(昭和30)年3月、地蔵寺、森、田井の3町が合併し「土佐村」が誕生しました。これは旧土佐村役場の落成の日に英一さんが撮影した写真です。
町勢要覧によると、1963(昭和38年)に写真の庁舎が落成されたとのこと。万国旗がはためき、玄関先には花輪も飾られています。ちょっとしたお祭りのようだったのでしょう。子どもたちがのぞいたりと楽しげな雰囲気です。
英一さんに「餅まきもあったのでは?」と聞いてみましたが、何しろ58年も前のこと、「ちょっと覚えてないなあ」と話していました。
2012(平成24)年、この写真と同じ場所に、現在の「土佐町役場」が建てられました。
何十年という時を経ても、「この場所」が存在する。何とも言えない不思議さを感じます。

 

知り合いの農家さんからハネのトマトをたくさんいただいた。

「8月の長雨でトマトがいかんのよ」

トマトはハウスの中で育てていて雨は当たらないのだが、それでも割れてしまうのだという。

「ほんと、涙が出るばあよ。こんなことは初めて。このまま置いても傷んでしまうから、もらってもらえたら」

そう言いながら分けてくれたトマトは、大きな箱3つ分もあった。

 

これはほんの一部

この大量のトマトで、トマトジュースとトマトソースを作ることにした。

 

 

傷んでいる部分を取り除き、大まかに切ってミキサーへ。これはトマトジュースになる。

一口大に切ったトマトは大鍋へ。これはトマトソース用。

 

写真左はトマトジュース。一煮立ちしたら、塩と砂糖を入れて味付けする。表面のオレンジ色のブクブクはアクで、アクの下はきれいな赤色の果汁。もったいないのでアクは取らずに、そのまま一緒にジュースにする。これがびっくりするほど「うまい!」。トマトそのものが体の内側に染み渡っていって、一口飲むごとに元気になれる。

右はトマトソースにするべく、コトコト煮詰めているところ。煮詰めるにつれ、汁が出てきて鍋から溢れ出そうになる。

 

 

半日かかってできた数々。ペットボトルに入っているのがトマトジュース。ペットボトルのまま冷凍できる。瓶はトマトソース。煮沸消毒した瓶に詰め、蓋をぎゅっとしめる。常温で保存できる。

 

トマトが割れることなく育っていたのなら、いつものようにお店に持っていって販売できたはず。「近年は天候や気候の変動が激しい」農家さんはそう言っていた。そのなかで「なんとかやりゆうのよ」、と呟いていた。コロナ禍もあり、農業研修生の受け入れもできず、人手が足りない状況が続いている。農業を担う方たちは徐々に高齢化、多くの方たちがギリギリのところで踏ん張っているではないかと思う。あと5年、10年したら、どのような状況になっているのだろうか。

トマトを切りながら、トマトを分けてくれた農家さんの顔が何度も思い浮かんだ。

 

みんなのアルバム

1960年代の森地区消防団

この写真は、土佐町の森地区に住む上田英一さんのアルバムの一枚です。

英一さんは現在92歳。10年ほど前まで、森地区で上田百貨店という商店を営んでいました。

若い頃、森地区の消防団にも入っていたそうで、これは操法大会で入賞した時の写真です。操法とは、消防団員がポンプ車や小型ポンプの取扱い、操作の手順を習得する訓練のこと。その操法の技術を競う大会を操法大会といい、今でも2年ごとに開かれています。(注:コロナ禍に伴い、昨年・今年度は中止になっています)

前列右端が英一さん、この時30代。

当時は嶺北消防署がなく、各地区に消防団がありました。火事が発生すると半鐘を鳴らし、町内に火事を知らせたそうです。その音を聞き、消防団員は自分の仕事を放り出して現場へ向かいました。

森地区にはポンプ車が一台あり、飛び乗って現場へ。けれども、ホースからまともに水が出ず、火を消せずに全燃してしまうことも多かったそう。

土佐町には現在も消防団が各地区にあり、町内放送が入ると団員は昼夜を問わず現場へ向かい、町の人たちの安全を守ってくれています。

 

 

上田英一(上ノ土居)

消防車

 

*現在の消防団(田井地区)です。

土佐町消防団田井分団(操法選手)

 

 

とさちょうものづくり

鹿の角ガチャの今

鹿の角ガチャの今

 

鹿の角ガチャのその後がご報告できていなかったので、今回はそういった趣旨の記事です。

その前に、鹿の角ガチャの記事いくつか以下にリンクを貼っておきます。

 

「鹿の角ガチャ」はじめました!

 

シカのシンカ 高知新聞に掲載されました!

 

集まる鹿の角(ありがとうございます)

 

さて、その後おかげさまで販売も順調で、2カ所の販売所である「うどん処 繁じ」と「高知蔦屋書店」両方で、約3週間ほどで補充に伺うようなペースで売れています。

ガチャの機体に満杯になるカプセル数は40です。単純に言えば、約3週間で40個が売れているような状況です。

順調な売れ行きを目の当たりにして、商売的(資本主義的)な正解として考えると、設置場所を増やしてどんどん大量生産すればもっと儲かるやないか仕事が増えるやないか、という考えが普通に脳裏によぎるのですが、この商売そう単純なことでもないようです。

 

①障がい者施設の利用者さんたちの仕事にすること ②土佐町の資源を利用してガチャの内容とすること

以上の二つがこの取り組みの目的ツートップですので、この目的を実現できないと意味がない。通常、ガチャガチャのビジネスモデルは”中国などの工場で大量生産”→”原価を抑えて大量販売”というものだと思うのですが、この鹿の角ガチャはそういった通常モデルとは根幹の目的が異なるので、言葉を変えると①地元の人々の仕事にならないと意味がない ②地元の(余った)自然資源を利用できないと意味がない という言い方もできます。

くどくどと理屈っぽいことを書いてしまいましたが、そんなような理由で、そもそもの目的実現のためには、「自分たちのペースを守る」「やたらと広げすぎない」というのが正解になるようです。

こういう考え方は最近よく耳にする「脱成長」なんかとも関連のあることとも思うのですが、それはまた、こうして実際の取り組みで実証しながらまた改めてご報告したいと思います。

 

助っ人登場

この鹿の角ガチャ製作に、頼もしい助っ人が現れました。青年海外協力隊で土佐町に半年ほど滞在していた八木裕次郎さんです。

なぜ青年海外協力隊が土佐町に?と思われるかもしれませんが、この全世界的なコロナ禍において、海外赴任を一時中断している方々がその間地方自治体に赴任するという試みをされているそうです。

八木さんがとさちょうものがたりの作業場を訪れた際に、鹿の角ガチャ製作に志願してくれたので、ありがたくやってもらうことにしました。

作業中の八木さん

 

100個製作したところで、その後の作業は大豊町の障がい者施設ファーストさんへ。利用者の皆さんと一緒にカプセルに詰めるところまで完成させました。

 

ファーストでの作業風景

 

この時に完成させた「鹿の角お守り」は近々に販売に回される予定です。

それから「鹿の角ガチャ」に関しての大切なお知らせ「業務提携します!」ということも書くつもりでいたのですが、今回の記事が長くなったのでその件は次回に回したいと思います!

 

 

メディアとお手紙

お便りの紹介

とさちょうものがたりが始まってから、お手紙やはがき、メールなど、たくさんのお便りをいただいています。今まで届いたお便りはすべて大切に読ませていただいています。なかには文通のようにはがきでのやりとりが続いている方も。心を寄せてくださっている方がいるということは、私たち編集部にとって大きな励みとなっています。

 

先日、絵本作家の西村繁男さんからお葉書が届きました。

2018年、西村さんは奥さまのいまきみちさんと共に土佐町立みつば保育園を訪れ、絵本の読み聞かせをしてくれました。その後も新しい絵本が出版されるたびに送ってくださり、土佐町立図書館には西村繁男さんの絵本がたくさん並んでいます。

高知市出身の西村さんですが、西村さんのおじいさんは土佐町旧地蔵寺村の村長だった西村繁太郎さん。幼い頃、繁太郎さんの家に遊びにきては地蔵寺川で泳いだそうで、土佐町にはとても懐かしい思い出があると何度も話してくれました。

 

前略

「とさちょうものがたり08」ありがとうございました。

窪内さんの文章はとてもおもしろく拝見しました。川を中心とした子供時代の生活、自然と密接につながっていた時代、体験からいろんなことを学んでいた様子、とても興味深いものがありました。

ぼくの育った高知市の家の前は鏡川で、そこで遊んだ思い出は心に残っていますが、窪内さんと川の関係の深さにはとうていおよびません。

山や川の風土はそこに暮らす人々にとても大きなものを与えてくれたのですね。

便利になったこの時代、さてと考えるものがあります。

一つ一つていねいに掘りおこしてくれてありがとうございます。お元気で。

PS . 写真もいいものでした。

 

山や川、空や土や風…。自然の数々は、コンクリートの上では味わえない何かを届けてくれます。

西村さんといまきさんに、また土佐町でお会いしたいです。

 

西村繁男さんが土佐町にやってきた!

 

みんなのアルバム

ホワイト写真館の前で

これは、土佐町の川村雅史さんが見せてくれた写真です。

雅史さんは現在83歳。土佐町の早明浦ダムの底に沈んだ、柿の木地区に住んでいました。これはダム建設当時の話を伺っているときに見せてくれた一枚です。(当時のお話は後日、「さめうらを記す」でお伝えします)

左に見えるのは、雅史さんのお父さんが営んでいた写真屋「ホワイト写真館」。この写真屋さんは現在の中島地区・中島観音堂のそばにあったそうです。

右から二人目の男性が、雅史さんのお父さん。右の女性は雅史さんのお母さんの妹で、妹夫婦が車で遊びに来た時の写真だそうです。

なんてかっこいい車!

ナンバーは「高385」、シンプルでいいなと思います。高知県で385台目の車だったのでしょうか?

車種については詳しくないし確証もないのですが、写真で判断するにアメリカ車フォードの「ロードスター」なのかな?と思います。詳しい方がいたら教えていただけると幸いです。

道は舗装されておらず土の道。土煙をあげて走るこの車を、道ゆく人が振り向いていたかもしれないですね。

 

この赤い羽根のマーク、誰でも一度は目にしたことがあると思います。

そう、赤い羽根共同募金のシンボルマークです。小学生の時、「共同募金お願いします!」と言いながら校門の前に立った思い出があります。募金した人に手渡される赤い羽根は、名札に貼り付けたりしていました。

その共同募金の全国的な企画、啓発宣伝、調査研究、都道府県共同募金会の支援を行っているのが「社会福祉法人 中央共同募金会」です。

今回、職員の皆さんが着るパーカーを作って欲しいというご依頼をいただきました。今から2年前、中央共同募金会の常務理事である渋谷篤男さんが土佐町に来て、シルクスクリーン体験をしてくださったことがご縁でした。

デザインは、担当者の方とイメージをやりとりし、最終的に「今と昔をつむぐ物語として、新旧のロゴを入れる」ことに決定。

それがこちらです!

 

印刷を担当したどんぐりの寿光くん(右)ときほちゃん(左)

 

 

 

背中は、第一回共同募金運動で使われたというロゴと、共同募金の英訳「Community  Chest」の文字が入っています。ロゴは「Community  Chest」の頭文字「C C」を組み合わせたものです。共同募金運動が全国的に始まったのは1947年ということで、その年号も入っています。

そして胸には、現在のシンボルマークである赤い羽根。赤い羽根をシンボルとして使い始めたのは、第2回目の1948年から。(1回目のCCマークは幻となってしまったそう)

 

このパーカーに込められた「今と昔をつむぐ」ことが、一枚ずつ手で刷り上げていくシルクスクリーンの風合いと合っていると喜んでいただきました。

「今はコロナ禍もあり、職員一同が揃う機会がまずないのですが、このような楽しみができて本当によかったと感じています。」という担当者の方のメッセージもうれしかったです。

 

一枚ずつ手で印刷していきます

 

赤い羽根共同募金の活動

恥ずかしながら、今回のご依頼で、赤い羽根共同募金の活動の内容や意味を初めて詳しく知りました。

共同募金で集められたお金は、さまざまな地域課題や社会課題を解決するため、日本全国で取り組まれている民間の活動に使われています。

現在、赤い羽根共同募金では「赤い羽根 新型コロナ感染下の福祉活動応援全国キャンペーン」が行われています。

このキャンペーンで集められた寄付金は、「いのちをつなぐ支援活動を支える」ことをテーマに、感染症の影響の長期化とともに増加した生活に困窮している方などの支援や、いのちに直接関係するような深刻な課題に対する活動への支援に使われます。

・民間の相談活動の支援
・食に困っている人への支援(こども食堂や地域食堂、フードバンク等の食支援)
・住まいに困っている人への居住支援、孤立防止やDVシェルターなどの居場所づくり等)

など、支える人を支える支援も行っていきたいそうです。

詳しくはこちら→https://www.akaihane.or.jp/

とさちょうものがたりとしても、今何ができるのかを考え、行動していきたいと思います。

 

 

いつもとさちょうものがたりをご覧いただきましてありがとうございます。

とさちょうものがたりは、8/16(月)〜8/20(金)の間、お盆休みをいただきます。

再開は8/23(月)になります。

皆さまも、素敵な夏をお過ごしください。