鳥山百合子

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

鳥山百合子

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「繕う暮らし」 ミスミノリコ 主婦と生活社

薄くなった靴下のかかと、Gパンのズボンのポケット、木登りして盛大にお尻の部分が破れた息子のズボン、転んで穴が空いたズボンの膝小僧。

裏側から布を当てて、色々な色の糸でチクチク繕う。夜は眠くなってうとうとしながら縫うので、針で指を刺してハッと目が覚める。

息子が小さかった時、穴のあいた箇所をチクチクと繕ったズボンを嬉しそうに学校へはいていった。そうやってちょっと手を加えたものは古くなっても小さくなってもなかなか手放せず、引き出しに大事にしまってある。

ひと針ひと針、針を進める作業は自分の心と会話する時間でもある。

ざわざわ、モヤモヤする気持ちを軌道修正しながら、縫いあがってちょっとかわいく生まれ変わった靴下やズボンをたたむ。ふと見渡した周りの風景が、いつもとはちょっと違うものに見えたりする。

鳥山百合子

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「ながい旅でした。」 砂浜美術館 編集・発行

「私たちの町には美術館がありません。美しい砂浜が美術館です」

この本を作ったのは、高知県黒潮町にある「砂浜美術館」。

町に新しいハコモノを作るのではなく、もともとここにある海や砂浜、ここにある季節に沿った人々の営みや知恵を「作品」として、この環境そのものを美術館にしようという考えで砂浜美術館は生まれたそうです。
時は1989年、今から40年前。その考えにとても共感します。
40年もの間、この考えでやり抜いてきたことには並々ならぬ苦労もあったことでしょう。

今年のゴールデンウィークに訪れた黒潮町の砂浜美術館でこの本を購入しました。少し黄ばんだこの本を手にした時から、この本の持つ体温が伝わってくるようでした。本にはそういう力と役割があるように思います。

黒潮町の海に打ち上げられたものが紹介されていて、くじらの骨ややしの実、船のスクリューや気象観測器といったものもあります。

2枚目の写真はその中のひとつ「海流ビン」です。アメリカのブライアン君(当時11歳)がタンカーで働く人に頼んで太平洋側に流したもの。9ヶ国語でメッセージが書かれており、瓶の口はロウで固められて水が入らないように工夫されていたとのこと。16歳になったブライアン君からは「理科の実験で流した」と返事が届いたそうです。流れ着いたものにも物語があるのですね。

この本の中にこんな文章があります。

「海岸に流れ着いたものを、単なるゴミとしかとらえることのできない感性より、素敵な砂浜美術館の作品、そうとらえられる感性。それが私たちの求める姿です。」

私たちのそばにも「作品」となりうるものが、あちらこちらにあるのではないでしょうか。

鳥山百合子

 

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土佐町ストーリーズ

びわの季節

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5月下旬、白やオレンジ色の袋をつけた木があちらこちらにあることに気づく。
びわの木だ。
鳥に食べられないように、びわの実の一つひとつに袋をつけるのだ。

 

土佐町で暮らし始めてからずっとお世話になっていたおじいちゃんがいた。

おじいちゃんの家にもびわの木があった。

ちょうど家の向かいに住んでいたおじいちゃんが教えてくれたこと、一緒に過ごした思い出は数え切れない。
しいたけのコマ打ちの仕方を教えてくれた。梅や柿を取りにおいでと言うために、朝出かけて行こうとする私を階段の下で待っていてくれた。しし汁をストーブにかけてあるから食べにおいでと電話をかけてきてくれた。
夕方、おじいちゃんの家を見て「灯りがついたなあ」と思っていたのは、おじいちゃんも一緒だったと知った時の気持ちは今も忘れていない。

 

毎年5月、おじいちゃんのびわの木には袋がかかって、白やオレンジの花が咲いたように見えた。その「花」が咲いてしばらくたった頃、おじいちゃんはいつも声をかけてくれた。

「びわをとりにおいで」

 

私の息子はびわが好きだ。おじいちゃんは高いところのびわはハシゴをかけて採って手渡し、びわを頬張る息子を目を細めて見ていた。

おじいちゃんは、息子をまるで自分の孫のようにかわいがってくれた。息子にたけのこの掘り方を教えてくれた。息子は学校から帰るとランドセルを置いて自転車でおじいちゃんの家に行き、一緒にテレビの時代劇を見たり、そのまま夕ご飯をご馳走になって、おじいちゃんの運転する軽トラで帰って来たこともあった。

おじいちゃんと息子は、気の合う友達のようでもあった。

 

確か土佐町での3回目の5月を迎えた時、やっと気づいた。おじいちゃんは、びわを息子に食べさせるために袋をかけてくれていたのだ。「結くんはびわが好きじゃき」と言って。

 

 

今年の2月、おじいちゃんは亡くなった。棺に入ったおじいちゃんはいつものように穏やかな優しい顔で眠っていた。声をかけたら起き上がって笑ってくれそうだった。息子は棺のそばに膝をつき「なんで、なんで…」と泣き崩れた。「おじいちゃんは結くんが大好きじゃったきねえ」と言いながらおばあちゃんも泣いていた。みんな泣いた。

 

おじいちゃんがよく薪を割っていた田んぼの畦や薪がたくさん重ねられた小屋の前を通る時、ふと、おじいちゃんの気配を感じることがある。
ここは、おじいちゃんが歩いた道。おじいちゃんが生きた場所。

 

 

今年もびわの季節になった。
おじいちゃんはもういない。

それでもびわは色づく。

おじいちゃんは、今日もどこかで見守ってくれている気がする。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「ブルーベリーもりでのプッテのぼうけん」 エルサ・ベスコフ 作, 絵 福音館書店

お母さんのお誕生日の贈り物をブルーベリーとこけももにしようと考えたプッテ。森のあちらこちらを探したけれど見つからず、しょんぼりしていたところに現れたのは小人のおじいさん。その人はブリーベリー森の王様でした。森の動物たちや王様の子どもたち、こけもも母さんのおかげでブルーベリーとこけももがカゴいっぱい集まって、このお話は終わります。ページを開くたび、なんて美しい絵なのだろうと、ずっと眺めていたくなります。

いつのことだったか、お菓子の中に入っていたブルーベリーに気づいた娘が「あ、プッテが食べてたブルーベリー!」と言ったことがありました。
娘が大きくなった時、いつかどこかでこの絵本に再会することがあったら、プッテと友達だったことを懐かしく思い出したりするのかな。

絵本はそんな楽しみもつくってくれます。

鳥山百合子

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「土佐町史」土佐町史編集委員会

深緑色の布張りのこの本は「土佐町史」。土佐町の町の歴史や成り立ち、自然の様子や言い伝えが掲載されているこの本に、とさちょうものがたりは今までとてもお世話になってきました。

高峯神社を案内していただいた筒井賀恒さんは「土佐町史にも載っているけんどよ」と言って、神社の鳥居の横にある手洗い石のこと、山の中に湧いている水のこと、神社にまつわる伝説のことを色々とお話してくださいました。

賀恒さんを自宅まで送った際、ふと見上げると、2階の窓際にある机の上にこの土佐町史が置かれていることに気づきました。賀恒さんが窓際に座り、土佐町史のページをめくっているだろう姿が見えるようでした。一体どれだけの時間を費やしてきたのでしょう。窓から見えたこの本の佇まいが、賀恒さんの重ねてきたものの存在を教えてくれていました。

「土佐町史」は土佐町立図書館で借りることができますし、土佐町教育委員会では購入もできます。興味のある方はぜひ!

鳥山百合子

 

 

筒井賀恒 (東石原)

 

*賀恒さんのことを書いた記事はこちら

高峯神社の守り人 その1

*高峯神社への道を示す石碑についての記事はこちら

高峯神社への道 はじめに

 

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土佐町のものさし

幸福度調査:長野静代さんに聞きました。

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土佐町役場の職員が町の皆さんに届けた幸福度調査の回答用紙やインターネットでの回答が、続々と返ってきています。

「私のところにも来たし、娘のところにも来た」「私のところには来んかった。答えたかったのに〜」などなど、色々な感想をいただいています。

 

町の皆さんは幸福度調査の質問をどんな風に考え、答えたのでしょうか?

とさちょうものがたり編集部は、以前皿鉢料理の作り方を教えていただいた土佐町地蔵寺地区の長野静代さんにお願いをして、土佐町ならではの質問にいくつか答えていただきました。ご本人の了解を得て、長野さんがどんな風に答えたのか、ここで紹介したいと思います。

長野さんは、質問文を読み、じっくり考えて答えてくれました。

 

 

これはブータンの幸福度調査を元に作られた質問です。土佐町で昔から引き継がれてきた技や手仕事の数々が並びます。

「地元料理…、うーん、“少しできる”、かねえ」
「え?長野さん、“少し”ではないでしょう?」と思わず言ってしまった編集部。

長野さんの作る「さば寿司」は本当に美味しいと、土佐町の多くの人が知っています。他にもゼンマイの煮物や季節の野菜の天ぷら…。40年以上、地元の食材を使って美味しいものを作り続けてきた長野さんの技は「少しできる」どころではありませんが、このような質問の形になると謙遜して答えてしまうのかもしれません。

 

「米作り…、昔、私一人で6反(約60a)作っちょったよ。草刈りするのが大変でねえ」

「野菜作り…、私は野菜づくりが大好きでね。間があったら畑するの好き。畑がすいちょったら植えたいしね」

「縄ない・わらじ作り…、わらじは子どもの頃からよく作ったねえ。昔は今みたいに何でも買えなかったから、何でも作ったよ」

出てくる数々のエピソード。項目のひとつひとつがゆっくりと長野さんの持っている引き出しを開いていくようでした。重ねてきた記憶がしまわれているその引き出しは実に深く、ゆたかです。

 

 

長野さんの答えは「3」。長野さんのお母さんも色々作る方だったそうです。その背中を見て育った長野さんは、8歳の頃から自分のお弁当を作ったり家のお手伝いは何でもしていたそうです。「粟や稗、麦を育てて、ひえばっかりのご飯を炊いてね、お弁当箱からボロボロこぼれてね…」と長野さん。

 

 

こちらもブータンの質問を元に作られています。

「幸せよねえ、今は本当に。自分は自然の一部だなあと思う。そうねえ、今は豊富に何でもあるから、幸せに生活させてもらいゆうと思います」

長野さんのその言葉には、言葉として語られないこと、長野さんが重ねてきただろう実感が込められていました。

 

 

 

「イノシシ、シカ、アメゴ、アユ…、ハエ、イタドリ、タケノコ、ゼンマイ、ワラビ、ふきのとう(以前長野さんは皿鉢料理の一品として、ふきのとうの天ぷらの作り方を教えてくれました)。ふき、コシアブラ、しおり、せり、クレソン、よもぎ、アケビ、キイチゴ、ヤマモモ、山栗。クワノミは最近は食べんねえ。」

 

 

「山のごちそう」にたくさんの丸がつきました。

 

 

 

長野さんは「5」に丸をつけました。

「毎日ばあ、家で作ったものを食べゆう。野菜も全部作ってるからね。間があったら畑するの好き。畑がすいちょったら植えたいしね。今はジャガイモもどっさりあるし、ニンニクも太い玉になっちゅう。玉ねぎも作っちゅうしね。夏野菜のなす、かぼちゃ、トマトも植えちゅう。ナスは家で作ったのを焼いて食べたら美味しいがね。次に何を植えようかなあって考えるのが楽しみ。」

 

長野さんは裏の畑を案内してくれました。

じゃがいもの花が咲いていました。「もう食べられるよ」と長野さん。

 

 

ねぎ、キャベツ、ニンニク、玉ねぎ、赤玉ねぎ、夏大根…。長野さんの毎日の食卓はこの畑からうまれます。

「持っていきや」と畑から抜いてくれた玉ねぎとにんにく。

 

土が近くにあり、自分で作ったお米や野菜を自分で料理して食べる。そのことをあたりまえのように感じる人は土佐町では多いかもしれません。でもそれは本当に「あたりまえ」なのでしょうか?

 

「本物の幸福…。そうねえ、健康で美味しいものをずっと作れるのが一番しあわせ。健康が第一。美味しいものを作ってみんなに喜んでもらうのが、私はしあわせ。」

長野さんはこう言って、そっと笑いました。

 

月に2回、土佐町社会福祉協議会が毎月各地域で開いている「あったかふれあいセンター」へ、長野さんは料理を作りに行っているそうです。みんなで「来月は何にしようか?」と食事のメニューやおやつを考えるのが楽しみなのだそう。

「いつまでできるかなあと、そればかり考えてる」と長野さんは言います。

「仕事はすればなんぼでもありますね。果てがない。それが生きがい。」

 

長野さんのお店には毎日のように色々な人が集います。田んぼの仕事が終わって午後から来る人。コーヒーを飲みに来る人…。そのことを長野さんはとてもうれしそうに話してくれました。長野さんの心に浮かぶ人たちの姿がすぐそばに見えるようでした。

 

 

 


 

 

土佐町の人たちの幸福度調査アンケートは、これから高知大学の協力も得て集計に入ります。

アンケートの結果は「土佐町のものさし」でまたご報告します!

 

 

*長野さんのことを書いた記事はこちらです。

40年目の扉

*長野さんに教えていただいた「さば寿司」「皿鉢料理」の作り方はこちらです。

皿鉢料理 その2 さば寿司

皿鉢料理 その10 盛りつけ

 

 

*アンケート内容に興味のある方は、ぜひこちらからご覧ください。

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山の手しごと

ギボウシの収穫

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4月中旬、土佐町の平石地区を車で走っていると、道脇の斜面に這いつくばるように何かを収穫している人がいました。

その人は近藤雅伸さん。

「この葉の正式な学名はギボウシ。このあたりでは「きしな」というし、田井(土佐町の中心地)のあたりでは「いそな」というのよ。
 じけ(あく)もないきね、軽くぬめりがあるけんど、さっとゆがいておひたしにしたり。生姜入れたり、揚げ(油揚げ)を入れてもかまんきね、炒めても食べられるし。」

 

 

「ある程度まばらにとって残していくわけよ。おっきい方が美味しい。なるたけ元(根元)をとって。ゆがいたら量が減るきね。
これからずっと先、夏になって葉がかとうなるき、その時は葉は取って、茎は湯がいておひたしにして食べる。茎は真夏でもかとうならん。鰹節をかけたり、ほうれん草と同じように食べられるよ。」

 

「こうやって残しちょいちゃったら またおんなじ量が生えるきね。ここら辺一帯、株があるき。
 時期的に寒いとことあったかいとことあったら、だんだんに出るきね、あっちこっち取りに行ったらいい。
 ちっさい時に採って塩漬けにしても置ける。水につけて塩抜きして、そのままの形で煮物にしたり炒めたり。いろんな食べ方があるきね。」

 

食べてみて!と近藤さんが差し出してくれた。

近藤さんは言いました。

「昔の人の知恵はすごいね。昔はものがない時分やきね、ここら辺にあるもんをとって食べるしか方法がないんよね。今から先が一番お金がいらんときよ、いろんなものが出てくるきね。」

土佐町は今、ゼンマイ、わらび、イタドリ、たらの芽…、山の恵みの収穫に大忙しの季節です。

 

この日、近藤さんは稲の苗を育てる苗床を作る仕事をしていた合間に「ちょっと採っておこう」と、ギボウシを収穫していたそうです。スーパーに行かずとも、目の前の山を見渡して今日のおかずの材料を見つけることができるのです。ちょっとした合間にちょっと収穫しておく。それは、その人の心のあり方にもつながっているような気がします。

「りぐった言葉ではよう言わんけんどよ、気安うに何でも言うてもろうたら!」と近藤さんは見送ってくれました。

 

 

その日の夜、近藤さんが教えてくれたように、おひたしにしていただきました。

ギボウシのおひたし

【材料】ギボウシ・かつお節・しょうゆ

①ギボウシを洗って、さっと湯がく。

②食べやすい大きさに切り、かつお節や海苔をふりかけ、しょうゆを加えて和える。千切りした生姜を入れても美味しい。

 

くせがなくてとても美味しい!色々工夫ができそうです。

 

この日、家に帰る道の途中に気づきました。
この「ギボウシ」、なんと私の家の近くにも生えていたのです!

今日は緑の野菜がないなあという時に重宝することになりそうです。

 

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「せかいのひとびと」 ピーター・スピアー絵,文 評論社

世界にはたくさんの人がいるけれど、同じ人は誰もいない。

「生まれた時からみんな一人一人ちがっているんだ」という言葉でこの本のお話は始まります。

体のかたちや大きさ、肌の色、目の色、髪の毛、着るもの、おしゃれも休みの過ごし方もみんなちがう。

家の形、お祭り、祝日、その人の好み、食べ物、神さま、言語、文字も。

ページをめくるたび「ああ、そうだった。みんなちがうんだ」と、あらためて気付くような気持ちがします。そのことは私自身が当然わかっていることだ、と思ってはいるのですが。

世界は広い。そのことを頭の片隅に置きながら毎日過ごしたいなと思います。

鳥山百合子

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土佐町ストーリーズ

南京米の味

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筒井賀恒さん(昭和8年生まれ。85歳)の話

 

もう3年、はよう生まれちょったら戦争に行っていた。
戦争に行くかもしれないなと思っていた。

 

大東亜戦争が始まったのが小学校2年生の時、昭和16年12月8日。

それまでは満州事変や支那事変があって、小学校1年生か2年生の時に、配給で「南京米」っていう先の長いお米を馬に負わして運んで来た。南京米は中国から輸入してきたお米で、味のあったようなもんじゃなかったねえ。マニラ麻の袋に入っていて、船に積んで輸送してきたんでしょう。その匂いが染み込んで、米の味どころじゃなかった。今でもその味を覚えてる。

 

みんな食糧難の時代に育っちゅう。それなのに、どうして今、こんなに元気でいれるのかと思う。

 

小学校4年生くらいになったら「食料のいも作れ」って学校のグランドも畑にして、いもを作りよった。そんな時代だった。

小学校6年生の時に終戦になった。
6年生の時、男の子が何人もいて、友達はもう決めてしもうてた。航空兵になる、船に乗る、 陸軍へ行く…、そんな教育じゃったのよ。自分はどっちにしようか、うろうろしゆううちに終戦になった。時代の変わり目に、自分は生まれた。

 

戦争というたらね悲惨なものよ、話にならんくらい。どん底よ。
戦争がどんなもんだったかというと、国のため兵隊に行くことだけ、家に帰ってくるようなことを考えたらいかん。
脱走したら非国民じゃ、罪人扱い。 

 

今、若いもんに昔の戦争の時の話をしても、なんでそんな生活をしよったのか、と言うくらい。
品物がなかった時代のことを思うたらね、こればあ豊かな生活ができるとは夢にも思っていなかった。焼畑をして、高度成長の時代がずっと続いて、最近ちょっと不景気じゃいうけど、不景気じゃない。いちばん幸せな時代に生まれたと思う。

 

今、人生が終わりかけてるんじゃないかといろいろ振り返ってる。自分は何をしたやろう、と思ったりします。

 

 

 

*このお話をしてくれた賀恒さんの記事です。

筒井賀恒 (東石原)

高峯神社の守り人 その1

高峯神社への道 はじめに

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これは高峯神社の守り人、筒井賀恒さんと高峯神社への道しるべを辿った記録です。
今日は、この道のりのゴール、高峯神社のお話です。

 

「高峯神社」と掲げられた鳥居をくぐり、神社へと向かう。この鳥居の右側には「手洗石」と呼ばれる大きな石があり、この石にまつわるお話が土佐町史に載っている。(「土佐町ストーリーズ」でも紹介しています→『高峯神社の手洗石』)

 

この石段を登る時、高峯神社の神髄へ入っていくような感覚を覚える。自分の足元とこれからの道を代わる代わる見つめながら、息を整えながら、一歩、また一歩を歩む。

 

 

しばらく登っていくと、見上げるような木々が立ち並ぶ平坦な場所に出る。

高峯神社は作神(さくがみ)、豊穣の神を祀っている。

「相川の田んぼでスズメの被害があってよ、稲がとれんというのでここへお参りに来たんじゃろう。これは鷹じゃね。鷹がスズメを追い払ってくれた、稲がようとれたということで、相川の集落のもんがこれを奉納した」と賀恒さんが教えてくれた。

相川は土佐町の米どころである。

 

鷹の石像の下には、石像を作ったと思われる人の名前が刻まれている。

 

道々の石碑にあった「相川谷中」という文字、そしてこの鷹を奉納した人たちの名前もある。

「森」「近藤」「式地」「上田」「池添」「川田」…。

この人たちの子孫がきっと今も土佐町にいるのでしょう。
(私が子孫です!という方がいらしたら、ぜひ編集部までおしらせください!)

 

相川の人たちはこの場所へ何度も足を運び、その年の実りを祈って手を合わせてきたのだろうと思う。

「石で刻んじゅうと記録が残る」
賀恒さんはそう言った。

 

これを奉納した「相川谷中」の人たちは、その200年後、石碑に刻んだ名前を読み、自分たちが生きた時代に思いを馳せる人たちがいるだろうことを想像しただろうか。

 

昔、苔むすこの道はとても見晴らしがよく、溜井や伊勢川地区が一目に見えたのだそうだ。茶店や休む場所があって、お参りする人の接待をしていたという。

重ねられてきた時の確かさがここにある。
ここには神さまがいると思う。

 

江戸時代、ここから上は女人禁制だった

 

 

高峯神社 本殿 (写真:石川拓也)

 

「本殿の屋根を銅板にしたのは昭和28年の春。その前は桧皮葺(ひわだぶき)というて、桧の皮を屋根だった
賀恒さんもその時に、この屋根の葺き替えを手伝ったそうだ。

拝殿の左側は神社を雨風から守るために囲いがしてあるのだが、その囲いはトタンでできている。
「台風の時、拝殿に雨が吹き込んでよ、屋根裏の垂木へ杉の葉っぱがひっつくから、大工や地域のもんと話して囲うことにしてよ、この囲い、小さい運搬車を持って来て上げた。この鉄筋もそうで。長いのを入れるのは一苦労したわ!」

高峯神社は地域の人たちによって守られている。

拝殿への階段の右下に丸い石がいくつも積み重ねられている。きれいな丸い石は山の中にはないから、誰かがここへわざわざ持って来たのだろう。

「これね、お参りに来る人が河原から石を拾うてきて、色々祈願してよ、ここに置いていく」

 

 

高峯神社本殿の周りに立つ木々は「ひとりばえ」なのだそうだ。誰が植えた訳ではない自然に生えてきた木の周りの草を刈り、黙々と手を入れてきた人たちがいる。

 

本殿の横には一本の見事な大木が立っている。
「70年見てるけど、根っこの先がひとっつも太ったように見えん。これが育ち始めた時の時代のことを考えたらね…。自然に生えたと思うけんど、面白いぞね 。よくここに育ったことと思う」

 

 

70年間、賀恒さんは高峯神社へ通い続けている。

「みんな、昔の道のかたちが頭にないろ。昔のことを話しても、そんなことがあるかと笑って言われて…。ここへ来て、掃除をさせてもらい出してから70年。知らないことを知ると違ったふうに見える。自分で色々調べて土佐町史を読むし、話も聞くけんど、それよりも本物を見た方がいい」。

 


 

高峯神社への道。

石碑をたどっていくことで、昔の人が歩いた道がまだかろうじて残っていることを知った。

道しるべの場所を「とさちょうものがたり」に記すことで、多くの人にこの石碑の存在を知ってほしいと思う。そして、昔の人たちが歩んだ道のりや見ていただろう風景を感じてほしいと思う。

 

知ることで、周りの風景が今までと少し変わったように見えるかもしれない。

道も石碑も、昔と変わらない。変わったのは多分、自分自身なのだと思う。

 

賀恒さんや地域の人たちが、守り続けて来た高峯神社。
守り続けてきた意味は、行けばきっとわかる。

 

 

 

筒井賀恒 (東石原)

高峯神社の守り人 その1

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