鳥山百合子

土佐町のものさし

幸福度調査:長野静代さんに聞きました。

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土佐町役場の職員が町の皆さんに届けた幸福度調査の回答用紙やインターネットでの回答が、続々と返ってきています。

「私のところにも来たし、娘のところにも来た」「私のところには来んかった。答えたかったのに〜」などなど、色々な感想をいただいています。

 

町の皆さんは幸福度調査の質問をどんな風に考え、答えたのでしょうか?

とさちょうものがたり編集部は、以前皿鉢料理の作り方を教えていただいた土佐町地蔵寺地区の長野静代さんにお願いをして、土佐町ならではの質問にいくつか答えていただきました。ご本人の了解を得て、長野さんがどんな風に答えたのか、ここで紹介したいと思います。

長野さんは、質問文を読み、じっくり考えて答えてくれました。

 

 

これはブータンの幸福度調査を元に作られた質問です。土佐町で昔から引き継がれてきた技や手仕事の数々が並びます。

「地元料理…、うーん、“少しできる”、かねえ」
「え?長野さん、“少し”ではないでしょう?」と思わず言ってしまった編集部。

長野さんの作る「さば寿司」は本当に美味しいと、土佐町の多くの人が知っています。他にもゼンマイの煮物や季節の野菜の天ぷら…。40年以上、地元の食材を使って美味しいものを作り続けてきた長野さんの技は「少しできる」どころではありませんが、このような質問の形になると謙遜して答えてしまうのかもしれません。

 

「米作り…、昔、私一人で6反(約60a)作っちょったよ。草刈りするのが大変でねえ」

「野菜作り…、私は野菜づくりが大好きでね。間があったら畑するの好き。畑がすいちょったら植えたいしね」

「縄ない・わらじ作り…、わらじは子どもの頃からよく作ったねえ。昔は今みたいに何でも買えなかったから、何でも作ったよ」

出てくる数々のエピソード。項目のひとつひとつがゆっくりと長野さんの持っている引き出しを開いていくようでした。重ねてきた記憶がしまわれているその引き出しは実に深く、ゆたかです。

 

 

長野さんの答えは「3」。長野さんのお母さんも色々作る方だったそうです。その背中を見て育った長野さんは、8歳の頃から自分のお弁当を作ったり家のお手伝いは何でもしていたそうです。「粟や稗、麦を育てて、ひえばっかりのご飯を炊いてね、お弁当箱からボロボロこぼれてね…」と長野さん。

 

 

こちらもブータンの質問を元に作られています。

「幸せよねえ、今は本当に。自分は自然の一部だなあと思う。そうねえ、今は豊富に何でもあるから、幸せに生活させてもらいゆうと思います」

長野さんのその言葉には、言葉として語られないこと、長野さんが重ねてきただろう実感が込められていました。

 

 

 

「イノシシ、シカ、アメゴ、アユ…、ハエ、イタドリ、タケノコ、ゼンマイ、ワラビ、ふきのとう(以前長野さんは皿鉢料理の一品として、ふきのとうの天ぷらの作り方を教えてくれました)。ふき、コシアブラ、しおり、せり、クレソン、よもぎ、アケビ、キイチゴ、ヤマモモ、山栗。クワノミは最近は食べんねえ。」

 

 

「山のごちそう」にたくさんの丸がつきました。

 

 

 

長野さんは「5」に丸をつけました。

「毎日ばあ、家で作ったものを食べゆう。野菜も全部作ってるからね。間があったら畑するの好き。畑がすいちょったら植えたいしね。今はジャガイモもどっさりあるし、ニンニクも太い玉になっちゅう。玉ねぎも作っちゅうしね。夏野菜のなす、かぼちゃ、トマトも植えちゅう。ナスは家で作ったのを焼いて食べたら美味しいがね。次に何を植えようかなあって考えるのが楽しみ。」

 

長野さんは裏の畑を案内してくれました。

じゃがいもの花が咲いていました。「もう食べられるよ」と長野さん。

 

 

ねぎ、キャベツ、ニンニク、玉ねぎ、赤玉ねぎ、夏大根…。長野さんの毎日の食卓はこの畑からうまれます。

「持っていきや」と畑から抜いてくれた玉ねぎとにんにく。

 

土が近くにあり、自分で作ったお米や野菜を自分で料理して食べる。そのことをあたりまえのように感じる人は土佐町では多いかもしれません。でもそれは本当に「あたりまえ」なのでしょうか?

 

「本物の幸福…。そうねえ、健康で美味しいものをずっと作れるのが一番しあわせ。健康が第一。美味しいものを作ってみんなに喜んでもらうのが、私はしあわせ。」

長野さんはこう言って、そっと笑いました。

 

月に2回、土佐町社会福祉協議会が毎月各地域で開いている「あったかふれあいセンター」へ、長野さんは料理を作りに行っているそうです。みんなで「来月は何にしようか?」と食事のメニューやおやつを考えるのが楽しみなのだそう。

「いつまでできるかなあと、そればかり考えてる」と長野さんは言います。

「仕事はすればなんぼでもありますね。果てがない。それが生きがい。」

 

長野さんのお店には毎日のように色々な人が集います。田んぼの仕事が終わって午後から来る人。コーヒーを飲みに来る人…。そのことを長野さんはとてもうれしそうに話してくれました。長野さんの心に浮かぶ人たちの姿がすぐそばに見えるようでした。

 

 

 


 

 

土佐町の人たちの幸福度調査アンケートは、これから高知大学の協力も得て集計に入ります。

アンケートの結果は「土佐町のものさし」でまたご報告します!

 

 

*長野さんのことを書いた記事はこちらです。

*長野さんに教えていただいた「さば寿司」「皿鉢料理」の作り方はこちらです。

 

 

*アンケート内容に興味のある方は、ぜひこちらからご覧ください。

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山の手しごと

ギボウシの収穫

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4月中旬、土佐町の平石地区を車で走っていると、道脇の斜面に這いつくばるように何かを収穫している人がいました。

その人は近藤雅伸さん。

「この葉の正式な学名はギボウシ。このあたりでは「きしな」というし、田井(土佐町の中心地)のあたりでは「いそな」というのよ。
 じけ(あく)もないきね、軽くぬめりがあるけんど、さっとゆがいておひたしにしたり。生姜入れたり、揚げ(油揚げ)を入れてもかまんきね、炒めても食べられるし。」

 

 

「ある程度まばらにとって残していくわけよ。おっきい方が美味しい。なるたけ元(根元)をとって。ゆがいたら量が減るきね。
これからずっと先、夏になって葉がかとうなるき、その時は葉は取って、茎は湯がいておひたしにして食べる。茎は真夏でもかとうならん。鰹節をかけたり、ほうれん草と同じように食べられるよ。」

 

「こうやって残しちょいちゃったら またおんなじ量が生えるきね。ここら辺一帯、株があるき。
 時期的に寒いとことあったかいとことあったら、だんだんに出るきね、あっちこっち取りに行ったらいい。
 ちっさい時に採って塩漬けにしても置ける。水につけて塩抜きして、そのままの形で煮物にしたり炒めたり。いろんな食べ方があるきね。」

 

食べてみて!と近藤さんが差し出してくれた。

近藤さんは言いました。

「昔の人の知恵はすごいね。昔はものがない時分やきね、ここら辺にあるもんをとって食べるしか方法がないんよね。今から先が一番お金がいらんときよ、いろんなものが出てくるきね。」

土佐町は今、ゼンマイ、わらび、イタドリ、たらの芽…、山の恵みの収穫に大忙しの季節です。

 

この日、近藤さんは稲の苗を育てる苗床を作る仕事をしていた合間に「ちょっと採っておこう」と、ギボウシを収穫していたそうです。スーパーに行かずとも、目の前の山を見渡して今日のおかずの材料を見つけることができるのです。ちょっとした合間にちょっと収穫しておく。それは、その人の心のあり方にもつながっているような気がします。

「りぐった言葉ではよう言わんけんどよ、気安うに何でも言うてもろうたら!」と近藤さんは見送ってくれました。

 

 

その日の夜、近藤さんが教えてくれたように、おひたしにしていただきました。

ギボウシのおひたし

【材料】ギボウシ・かつお節・しょうゆ

①ギボウシを洗って、さっと湯がく。

②食べやすい大きさに切り、かつお節や海苔をふりかけ、しょうゆを加えて和える。千切りした生姜を入れても美味しい。

 

くせがなくてとても美味しい!色々工夫ができそうです。

 

この日、家に帰る道の途中に気づきました。
この「ギボウシ」、なんと私の家の近くにも生えていたのです!

今日は緑の野菜がないなあという時に重宝することになりそうです。

 

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「せかいのひとびと」 ピーター・スピアー絵,文 評論社

世界にはたくさんの人がいるけれど、同じ人は誰もいない。

「生まれた時からみんな一人一人ちがっているんだ」という言葉でこの本のお話は始まります。

体のかたちや大きさ、肌の色、目の色、髪の毛、着るもの、おしゃれも休みの過ごし方もみんなちがう。

家の形、お祭り、祝日、その人の好み、食べ物、神さま、言語、文字も。

ページをめくるたび「ああ、そうだった。みんなちがうんだ」と、あらためて気付くような気持ちがします。そのことは私自身が当然わかっていることだ、と思ってはいるのですが。

世界は広い。そのことを頭の片隅に置きながら毎日過ごしたいなと思います。

鳥山百合子

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土佐町ストーリーズ

南京米の味

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筒井賀恒さん(昭和8年生まれ。85歳)の話

 

もう3年、はよう生まれちょったら戦争に行っていた。
戦争に行くかもしれないなと思っていた。

 

大東亜戦争が始まったのが小学校2年生の時、昭和16年12月8日。

それまでは満州事変や支那事変があって、小学校1年生か2年生の時に、配給で「南京米」っていう先の長いお米を馬に負わして運んで来た。南京米は中国から輸入してきたお米で、味のあったようなもんじゃなかったねえ。マニラ麻の袋に入っていて、船に積んで輸送してきたんでしょう。その匂いが染み込んで、米の味どころじゃなかった。今でもその味を覚えてる。

 

みんな食糧難の時代に育っちゅう。それなのに、どうして今、こんなに元気でいれるのかと思う。

 

小学校4年生くらいになったら「食料のいも作れ」って学校のグランドも畑にして、いもを作りよった。そんな時代だった。

小学校6年生の時に終戦になった。
6年生の時、男の子が何人もいて、友達はもう決めてしもうてた。航空兵になる、船に乗る、 陸軍へ行く…、そんな教育じゃったのよ。自分はどっちにしようか、うろうろしゆううちに終戦になった。時代の変わり目に、自分は生まれた。

 

戦争というたらね悲惨なものよ、話にならんくらい。どん底よ。
戦争がどんなもんだったかというと、国のため兵隊に行くことだけ、家に帰ってくるようなことを考えたらいかん。
脱走したら非国民じゃ、罪人扱い。 

 

今、若いもんに昔の戦争の時の話をしても、なんでそんな生活をしよったのか、と言うくらい。
品物がなかった時代のことを思うたらね、こればあ豊かな生活ができるとは夢にも思っていなかった。焼畑をして、高度成長の時代がずっと続いて、最近ちょっと不景気じゃいうけど、不景気じゃない。いちばん幸せな時代に生まれたと思う。

 

今、人生が終わりかけてるんじゃないかといろいろ振り返ってる。自分は何をしたやろう、と思ったりします。

 

 

 

*このお話をしてくれた賀恒さんの記事です。

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これは高峯神社の守り人、筒井賀恒さんと高峯神社への道しるべを辿った記録です。
今日は、この道のりのゴール、高峯神社のお話です。

 

「高峯神社」と掲げられた鳥居をくぐり、神社へと向かう。この鳥居の右側には「手洗石」と呼ばれる大きな石があり、この石にまつわるお話が土佐町史に載っている。(「土佐町ストーリーズ」でも紹介しています→『高峯神社の手洗石』)

 

この石段を登る時、高峯神社の神髄へ入っていくような感覚を覚える。自分の足元とこれからの道を代わる代わる見つめながら、息を整えながら、一歩、また一歩を歩む。

 

 

しばらく登っていくと、見上げるような木々が立ち並ぶ平坦な場所に出る。

高峯神社は作神(さくがみ)、豊穣の神を祀っている。

「相川の田んぼでスズメの被害があってよ、稲がとれんというのでここへお参りに来たんじゃろう。これは鷹じゃね。鷹がスズメを追い払ってくれた、稲がようとれたということで、相川の集落のもんがこれを奉納した」と賀恒さんが教えてくれた。

相川は土佐町の米どころである。

 

鷹の石像の下には、石像を作ったと思われる人の名前が刻まれている。

 

道々の石碑にあった「相川谷中」という文字、そしてこの鷹を奉納した人たちの名前もある。

「森」「近藤」「式地」「上田」「池添」「川田」…。

この人たちの子孫がきっと今も土佐町にいるのでしょう。
(私が子孫です!という方がいらしたら、ぜひ編集部までおしらせください!)

 

相川の人たちはこの場所へ何度も足を運び、その年の実りを祈って手を合わせてきたのだろうと思う。

「石で刻んじゅうと記録が残る」
賀恒さんはそう言った。

 

これを奉納した「相川谷中」の人たちは、その200年後、石碑に刻んだ名前を読み、自分たちが生きた時代に思いを馳せる人たちがいるだろうことを想像しただろうか。

 

昔、苔むすこの道はとても見晴らしがよく、溜井や伊勢川地区が一目に見えたのだそうだ。茶店や休む場所があって、お参りする人の接待をしていたという。

重ねられてきた時の確かさがここにある。
ここには神さまがいると思う。

 

江戸時代、ここから上は女人禁制だった

 

 

高峯神社 本殿 (写真:石川拓也)

 

「本殿の屋根を銅板にしたのは昭和28年の春。その前は桧皮葺(ひわだぶき)というて、桧の皮を屋根だった
賀恒さんもその時に、この屋根の葺き替えを手伝ったそうだ。

拝殿の左側は神社を雨風から守るために囲いがしてあるのだが、その囲いはトタンでできている。
「台風の時、拝殿に雨が吹き込んでよ、屋根裏の垂木へ杉の葉っぱがひっつくから、大工や地域のもんと話して囲うことにしてよ、この囲い、小さい運搬車を持って来て上げた。この鉄筋もそうで。長いのを入れるのは一苦労したわ!」

高峯神社は地域の人たちによって守られている。

拝殿への階段の右下に丸い石がいくつも積み重ねられている。きれいな丸い石は山の中にはないから、誰かがここへわざわざ持って来たのだろう。

「これね、お参りに来る人が河原から石を拾うてきて、色々祈願してよ、ここに置いていく」

 

 

高峯神社本殿の周りに立つ木々は「ひとりばえ」なのだそうだ。誰が植えた訳ではない自然に生えてきた木の周りの草を刈り、黙々と手を入れてきた人たちがいる。

 

本殿の横には一本の見事な大木が立っている。
「70年見てるけど、根っこの先がひとっつも太ったように見えん。これが育ち始めた時の時代のことを考えたらね…。自然に生えたと思うけんど、面白いぞね 。よくここに育ったことと思う」

 

 

70年間、賀恒さんは高峯神社へ通い続けている。

「みんな、昔の道のかたちが頭にないろ。昔のことを話しても、そんなことがあるかと笑って言われて…。ここへ来て、掃除をさせてもらい出してから70年。知らないことを知ると違ったふうに見える。自分で色々調べて土佐町史を読むし、話も聞くけんど、それよりも本物を見た方がいい」。

 


 

高峯神社への道。

石碑をたどっていくことで、昔の人が歩いた道がまだかろうじて残っていることを知った。

道しるべの場所を「とさちょうものがたり」に記すことで、多くの人にこの石碑の存在を知ってほしいと思う。そして、昔の人たちが歩んだ道のりや見ていただろう風景を感じてほしいと思う。

 

知ることで、周りの風景が今までと少し変わったように見えるかもしれない。

道も石碑も、昔と変わらない。変わったのは多分、自分自身なのだと思う。

 

賀恒さんや地域の人たちが、守り続けて来た高峯神社。
守り続けてきた意味は、行けばきっとわかる。

 

 

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「小さな家のローラ」 ローラ・インガルス・ワイルダー作 安野光雅絵,監訳 朝日出版社

子どもの頃楽しみに見ていたテレビ「大草原の小さな家」。

他社から出版されている「大草原の小さな家」をいくつか読んできましたが、挿絵の美しさに思わず手に取りました。

この本には毎ページと言っていいほど安野光雅さんの美しい挿絵がたくさん入っています。

どうしてこんなに挿絵が入っているのかなと思いながら読み進めていましたが、あとがきを読んで合点がいきました。

(その理由はぜひ「あとがき」をお読みください。)

「文学は、挿絵とは無関係に成り立っています」と安野さんは書いています。

文章を読むことは、描かれている情景や作者の心のあり方を感じとるのが面白さでもあり魅力です。

挿絵は想像を助けてくれるものでもありながら、時には読者が絵の印象に引っ張られてしまうこともあるように思います。しかしこの本の安野さんの挿絵は、文章と呼吸を合わせてゆっくりと伴走するかのようにそこにありました。

作者ワイルダーが生きた時代に吹いていただろう風が感じられるような気がします。

この本の訳者も安野さんです。安野さんの「窓」からワイルダーの世界を味わえる一冊です。

鳥山百合子

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山の手しごと

わらびの収穫

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土佐町早明浦ダムのほとり、上津川地区の高橋通世さんが「わらび採りにきいや」と声をかけてくれました。

カゴを背負い手袋をして、いざ、わらび取りへ!

枯れたかや(ススキ)の間を縫うように生えているわらび。わらびは根っこで増えるのだそう。
「どこでも好きなところ取って!」と通世さん。子どもの頃からこの場所で、わらびの収穫の手伝いをしていたのだそうです。
「雨が降ったらようけ太るね。ようけ出だしたらね、3日置かずに取らんと」

 

茎を折ると、ぽきん、ぽきん、とみずみずしい音がします。収穫したわらびは束にして輪ゴムでとめておきます。こうしておけば湯がく時にバラバラになりません。
「お湯からあげる時、楽やきね!」と通世さん。なるほど!

 

「おーい、これ見てみいや!」とみせてくれた小さな黒い粒。
これは、鹿のフン!よく見るとあちこちに落ちています。

通世さん曰く、フンの形でオスかメスかわかるのだそうです。「片っぽがケンなのは(とんがってるのは)メス」なのだそう。(左下が確かにとんがっていますね!)

フンのそばには大抵、鹿が通る“獣道”があるそうです。
その獣道を見つけ、罠を仕掛ける。
足跡はないか、“獣道”はないか、猟師でもある通世さんの目は常にその手がかりを探しているのです。

 

 

 

 

さあ、わらびを湯がきます。

たらいに水を入れて沸かします。

 

奥は私と友人、手前は通世さんが収穫したワラビ。

通世さんが収穫したわらびの茎の先は、まるでハサミで切りそろえたかのよう!それにひきかえ、私と友人のわらびの茎はあっちにいったりこっちにいったり…。

 

たらいの底から小さな水の泡がプクプクと上がり始めました。

「母に習うたんやけどね、温度が75度になった時にわらびを素早く入れる。前に80度でやったら柔らかくなりすぎた。高温でゆがいたら溶けるきね」
「わらびを入れたら温度が60度ばあに下がっちゅうきね。元の75度になったらお湯からあげるんよ」 

時々わらびをひっくり返しながら、湯がきます。

 

なんてきれいな色なのでしょう!あたりは、わらびのいい香りでいっぱいに。

たくさん収穫したので何回かに分けて湯がきました。そのつどお湯からあげ、冷ましながら灰をまぶします。この灰はこんにゃくを作るときにも使う紅葉樹の灰で、ひとつかみ握り、まんべんなくかけておきます。

 

全部を湯がいた後、わらびと灰を優しくこすり合わせるように、灰をなじませます。
この後、お風呂のぬるま湯くらいの温度の湯にひたひたにつけ、一晩置きます。(山水がある場合は流水につけておく)

「一晩ではまだ苦味がある時があるき、その時はまた水につける。様子を見て、噛んでみて」。

 

試しにその日の晩、味はどうかと噛んでみたら、あまりの苦さにゴホゴホ咳き込むほど!一日に何度か水を変え、食べられるようになったのはその2日後でした。

 

お弁当のおかずにぴったりの一品ができました。

わらびの煮つけ

【材料】あく抜きしたわらび・油揚げ・砂糖・しょうゆ・白だし

①わらびを食べやすい大きさに切る。

②わらびを油でさっと炒め、油揚げを加えてさらに炒める。

③砂糖、しょうゆ、白だしを加え好みに味付けをし、コトコト煮る。

 

帰り際、友人が言いました。

「昔の人にとって、灰はこんにゃくを作ったり山菜のあくを抜いたり、とても大切なものだったんやないかな。昔話に“花咲かじいさん”の話があるでしょう?桜の枝に灰をまいて花が咲く。あのお話が生まれた意味がわかるような気がする」と。

通世さんも蓋つきの入れ物に入れ、大切に保存していました。木を燃やすときに、紅葉樹以外のものが混じらないよう気をつけているそうです。

そのままでは食べられないものを、灰の力を借りることによって美味しく食べられるようにする。なんて素晴らしい知恵!

昔の人にとって、灰は、暮らしに花を咲かせるような存在だったのかもしれないですね。

 

*あく抜きの方法は人それぞれ。その人ならではの方法があります。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「旅をする木」 星野道夫 文藝春秋

 

「ああ、その気持ち、私も感じたことがある」と星野さんの本を読むたびに思います。まだ輪郭しか見えずはっきりと言葉にできないような思いを、星野さんは決して難しくない言葉で目に見えるかたちにしてくれていて「ああ、こういう言い方があったのか」と新しい発見をしたような、懐かしい誰かに再会したようなそんな気持ちでページをめくります。

『人生はからくりに満ちている。日々の暮らしの中で、無数の人々とすれ違いながら、私たちは出会うことがない。その根源的な悲しみは、言いかえれば、人と人とが出会う限りない不思議さに通じている』

同じ地球上で今同じ時間を生きている人たちは気が遠くなるほどたくさんいて、すれ違うことも出会うこともなく、お互いの存在さえ知らないままお互いの一生を終えることがほとんどなのかもしれません。でもそんな中でもなぜだか出会って、怒ったり笑ったり泣いたり、悩んだり喜んだり苦しんだりしながら時を重ねる。目の前のその人とのやりとりや重ねてきた時間は、出会えたからこそのこと。やっぱりとてもかけがえのないことなのです。

星野さんはいつもそのことを思い出させてくれます。

 

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読んでほしい

高峯神社への道 その7

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これは高峯神社の守り人、筒井賀恒さんと高峯神社への道しるべを辿った記録です。
今日は地図上の「7」の場所にある石碑についてのお話です。

 

さらに道を進むと、左側に「安吉」と書かれた看板が見えてくる。そこを左に曲がり、道沿いに進む。

そして、道の右側をよーく見ていてほしい。

木に見え隠れしながら現れる、この常夜灯。
天保6年(1835年)からここに立っている。昔はろうそくを入れ、火を灯していたそうだ。常夜灯の隣に立つと土佐町の山並みが見える。

 

そして細い山道を少し登ると、最後の石碑がある。

「御神前 ヨリ 五丁」

 

今までの石碑に刻まれていた「三宝山」の文字が「御神前」に変わった。
ここから約500mで高峯神社へ着く。

きっと昔の人もこの場所で「もう少し!」と思いながら、汗を拭きふき、励まされるように坂道を登ったのではないだろうか。

 

賀恒さんは言っていた。

「道路の開発をしたら昔の道は使われなくなる。昔の人の道すじを追って来ると、昔の人たちがどんなことをやっちょったかよくわかる。昔の道がなかったように新しい道を通ってしまっているけれど、昔の道がまだちゃんとあるのよ」

昔の人の足跡が、まだかろうじて残っていた。

賀恒さんに教えてもらわなかったら私も知らないままだった。

 

さあ、いよいよ、高峯神社は目前!

(「高峯神社への道 その8」に続く)

 

 

*石碑を案内してくれた賀恒さんのことを書いた記事はこちらです。

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私の一冊

鳥山百合子

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「かわ」 加古里子作,絵 福音館書店

絵巻じたてになっているこの本。蛇腹折りになっている絵をぱたぱたと広げて伸ばしていくと、その長さ7メートル40センチ!(巻尺で測ってみました。)

山から流れ出る水が『たかいやまにつもったゆきがとけてながれます。やまにふったあめもながれます。みんなあつまってきて、ちいさいながれをつくります』。
そして谷間を通り、畑や田んぼに水を満たし、川沿いの牧草を食べる牛たちの喉を潤す。この風景はまるで高知県嶺北地方を流れる吉野川のようです。
そしてさらに大きな流れになり、港を抜け、海に出ます。『ひろいひろいうみ。ふかいふかいうみ。おおきいおおきいうみ。どこまでもどこまでもみずのつづくうみ。うみをこえていこう。ひろいせかいへ』。

その一連の流れが一枚の絵になっています。

山登りをしている人たちや田畑で仕事をする人たち、河原でお弁当を食べている人たち、海の近くの工場。川と共にある生活の様子が細かく描かれていて、見るたびに新しい発見があります。

作者である加古里子さんがこの本の向こうにいるだろう子どもたちの姿を思い浮かべながら絵を描き、お話を作っただろうことがしみじみと伝わってきます。

鳥山百合子

 

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