鳥山百合子

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

鳥山百合子

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「せかいのひとびと」 ピーター・スピアー絵,文 評論社

世界にはたくさんの人がいるけれど、同じ人は誰もいない。

「生まれた時からみんな一人一人ちがっているんだ」という言葉でこの本のお話は始まります。

体のかたちや大きさ、肌の色、目の色、髪の毛、着るもの、おしゃれも休みの過ごし方もみんなちがう。

家の形、お祭り、祝日、その人の好み、食べ物、神さま、言語、文字も。

ページをめくるたび「ああ、そうだった。みんなちがうんだ」と、あらためて気付くような気持ちがします。そのことは私自身が当然わかっていることだ、と思ってはいるのですが。

世界は広い。そのことを頭の片隅に置きながら毎日過ごしたいなと思います。

鳥山百合子

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土佐町ストーリーズ

南京米の味

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筒井賀恒さん(昭和8年生まれ。85歳)の話

 

もう3年、はよう生まれちょったら戦争に行っていた。
戦争に行くかもしれないなと思っていた。

 

大東亜戦争が始まったのが小学校2年生の時、昭和16年12月8日。

それまでは満州事変や支那事変があって、小学校1年生か2年生の時に、配給で「南京米」っていう先の長いお米を馬に負わして運んで来た。南京米は中国から輸入してきたお米で、味のあったようなもんじゃなかったねえ。マニラ麻の袋に入っていて、船に積んで輸送してきたんでしょう。その匂いが染み込んで、米の味どころじゃなかった。今でもその味を覚えてる。

 

みんな食糧難の時代に育っちゅう。それなのに、どうして今、こんなに元気でいれるのかと思う。

 

小学校4年生くらいになったら「食料のいも作れ」って学校のグランドも畑にして、いもを作りよった。そんな時代だった。

小学校6年生の時に終戦になった。
6年生の時、男の子が何人もいて、友達はもう決めてしもうてた。航空兵になる、船に乗る、 陸軍へ行く…、そんな教育じゃったのよ。自分はどっちにしようか、うろうろしゆううちに終戦になった。時代の変わり目に、自分は生まれた。

 

戦争というたらね悲惨なものよ、話にならんくらい。どん底よ。
戦争がどんなもんだったかというと、国のため兵隊に行くことだけ、家に帰ってくるようなことを考えたらいかん。
脱走したら非国民じゃ、罪人扱い。 

 

今、若いもんに昔の戦争の時の話をしても、なんでそんな生活をしよったのか、と言うくらい。
品物がなかった時代のことを思うたらね、こればあ豊かな生活ができるとは夢にも思っていなかった。焼畑をして、高度成長の時代がずっと続いて、最近ちょっと不景気じゃいうけど、不景気じゃない。いちばん幸せな時代に生まれたと思う。

 

今、人生が終わりかけてるんじゃないかといろいろ振り返ってる。自分は何をしたやろう、と思ったりします。

 

 

 

*このお話をしてくれた賀恒さんの記事です。

筒井賀恒 (東石原)

高峯神社の守り人 その1

高峯神社への道 はじめに

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これは高峯神社の守り人、筒井賀恒さんと高峯神社への道しるべを辿った記録です。
今日は、この道のりのゴール、高峯神社のお話です。

 

「高峯神社」と掲げられた鳥居をくぐり、神社へと向かう。この鳥居の右側には「手洗石」と呼ばれる大きな石があり、この石にまつわるお話が土佐町史に載っている。(「土佐町ストーリーズ」でも紹介しています→『高峯神社の手洗石』)

 

この石段を登る時、高峯神社の神髄へ入っていくような感覚を覚える。自分の足元とこれからの道を代わる代わる見つめながら、息を整えながら、一歩、また一歩を歩む。

 

 

しばらく登っていくと、見上げるような木々が立ち並ぶ平坦な場所に出る。

高峯神社は作神(さくがみ)、豊穣の神を祀っている。

「相川の田んぼでスズメの被害があってよ、稲がとれんというのでここへお参りに来たんじゃろう。これは鷹じゃね。鷹がスズメを追い払ってくれた、稲がようとれたということで、相川の集落のもんがこれを奉納した」と賀恒さんが教えてくれた。

相川は土佐町の米どころである。

 

鷹の石像の下には、石像を作ったと思われる人の名前が刻まれている。

 

道々の石碑にあった「相川谷中」という文字、そしてこの鷹を奉納した人たちの名前もある。

「森」「近藤」「式地」「上田」「池添」「川田」…。

この人たちの子孫がきっと今も土佐町にいるのでしょう。
(私が子孫です!という方がいらしたら、ぜひ編集部までおしらせください!)

 

相川の人たちはこの場所へ何度も足を運び、その年の実りを祈って手を合わせてきたのだろうと思う。

「石で刻んじゅうと記録が残る」
賀恒さんはそう言った。

 

これを奉納した「相川谷中」の人たちは、その200年後、石碑に刻んだ名前を読み、自分たちが生きた時代に思いを馳せる人たちがいるだろうことを想像しただろうか。

 

昔、苔むすこの道はとても見晴らしがよく、溜井や伊勢川地区が一目に見えたのだそうだ。茶店や休む場所があって、お参りする人の接待をしていたという。

重ねられてきた時の確かさがここにある。
ここには神さまがいると思う。

 

江戸時代、ここから上は女人禁制だった

 

 

高峯神社 本殿 (写真:石川拓也)

 

「本殿の屋根を銅板にしたのは昭和28年の春。その前は桧皮葺(ひわだぶき)というて、桧の皮を屋根だった
賀恒さんもその時に、この屋根の葺き替えを手伝ったそうだ。

拝殿の左側は神社を雨風から守るために囲いがしてあるのだが、その囲いはトタンでできている。
「台風の時、拝殿に雨が吹き込んでよ、屋根裏の垂木へ杉の葉っぱがひっつくから、大工や地域のもんと話して囲うことにしてよ、この囲い、小さい運搬車を持って来て上げた。この鉄筋もそうで。長いのを入れるのは一苦労したわ!」

高峯神社は地域の人たちによって守られている。

拝殿への階段の右下に丸い石がいくつも積み重ねられている。きれいな丸い石は山の中にはないから、誰かがここへわざわざ持って来たのだろう。

「これね、お参りに来る人が河原から石を拾うてきて、色々祈願してよ、ここに置いていく」

 

 

高峯神社本殿の周りに立つ木々は「ひとりばえ」なのだそうだ。誰が植えた訳ではない自然に生えてきた木の周りの草を刈り、黙々と手を入れてきた人たちがいる。

 

本殿の横には一本の見事な大木が立っている。
「70年見てるけど、根っこの先がひとっつも太ったように見えん。これが育ち始めた時の時代のことを考えたらね…。自然に生えたと思うけんど、面白いぞね 。よくここに育ったことと思う」

 

 

70年間、賀恒さんは高峯神社へ通い続けている。

「みんな、昔の道のかたちが頭にないろ。昔のことを話しても、そんなことがあるかと笑って言われて…。ここへ来て、掃除をさせてもらい出してから70年。知らないことを知ると違ったふうに見える。自分で色々調べて土佐町史を読むし、話も聞くけんど、それよりも本物を見た方がいい」。

 


 

高峯神社への道。

石碑をたどっていくことで、昔の人が歩いた道がまだかろうじて残っていることを知った。

道しるべの場所を「とさちょうものがたり」に記すことで、多くの人にこの石碑の存在を知ってほしいと思う。そして、昔の人たちが歩んだ道のりや見ていただろう風景を感じてほしいと思う。

 

知ることで、周りの風景が今までと少し変わったように見えるかもしれない。

道も石碑も、昔と変わらない。変わったのは多分、自分自身なのだと思う。

 

賀恒さんや地域の人たちが、守り続けて来た高峯神社。
守り続けてきた意味は、行けばきっとわかる。

 

 

 

筒井賀恒 (東石原)

高峯神社の守り人 その1

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私の一冊

鳥山百合子

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「小さな家のローラ」 ローラ・インガルス・ワイルダー作 安野光雅絵,監訳 朝日出版社

子どもの頃楽しみに見ていたテレビ「大草原の小さな家」。

他社から出版されている「大草原の小さな家」をいくつか読んできましたが、挿絵の美しさに思わず手に取りました。

この本には毎ページと言っていいほど安野光雅さんの美しい挿絵がたくさん入っています。

どうしてこんなに挿絵が入っているのかなと思いながら読み進めていましたが、あとがきを読んで合点がいきました。

(その理由はぜひ「あとがき」をお読みください。)

「文学は、挿絵とは無関係に成り立っています」と安野さんは書いています。

文章を読むことは、描かれている情景や作者の心のあり方を感じとるのが面白さでもあり魅力です。

挿絵は想像を助けてくれるものでもありながら、時には読者が絵の印象に引っ張られてしまうこともあるように思います。しかしこの本の安野さんの挿絵は、文章と呼吸を合わせてゆっくりと伴走するかのようにそこにありました。

作者ワイルダーが生きた時代に吹いていただろう風が感じられるような気がします。

この本の訳者も安野さんです。安野さんの「窓」からワイルダーの世界を味わえる一冊です。

鳥山百合子

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山の手しごと

わらびの収穫

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土佐町早明浦ダムのほとり、上津川地区の高橋通世さんが「わらび採りにきいや」と声をかけてくれました。

カゴを背負い手袋をして、いざ、わらび取りへ!

枯れたかや(ススキ)の間を縫うように生えているわらび。わらびは根っこで増えるのだそう。
「どこでも好きなところ取って!」と通世さん。子どもの頃からこの場所で、わらびの収穫の手伝いをしていたのだそうです。
「雨が降ったらようけ太るね。ようけ出だしたらね、3日置かずに取らんと」

 

茎を折ると、ぽきん、ぽきん、とみずみずしい音がします。収穫したわらびは束にして輪ゴムでとめておきます。こうしておけば湯がく時にバラバラになりません。
「お湯からあげる時、楽やきね!」と通世さん。なるほど!

 

「おーい、これ見てみいや!」とみせてくれた小さな黒い粒。
これは、鹿のフン!よく見るとあちこちに落ちています。

通世さん曰く、フンの形でオスかメスかわかるのだそうです。「片っぽがケンなのは(とんがってるのは)メス」なのだそう。(左下が確かにとんがっていますね!)

フンのそばには大抵、鹿が通る“獣道”があるそうです。
その獣道を見つけ、罠を仕掛ける。
足跡はないか、“獣道”はないか、猟師でもある通世さんの目は常にその手がかりを探しているのです。

 

 

 

 

さあ、わらびを湯がきます。

たらいに水を入れて沸かします。

 

奥は私と友人、手前は通世さんが収穫したワラビ。

通世さんが収穫したわらびの茎の先は、まるでハサミで切りそろえたかのよう!それにひきかえ、私と友人のわらびの茎はあっちにいったりこっちにいったり…。

 

たらいの底から小さな水の泡がプクプクと上がり始めました。

「母に習うたんやけどね、温度が75度になった時にわらびを素早く入れる。前に80度でやったら柔らかくなりすぎた。高温でゆがいたら溶けるきね」
「わらびを入れたら温度が60度ばあに下がっちゅうきね。元の75度になったらお湯からあげるんよ」 

時々わらびをひっくり返しながら、湯がきます。

 

なんてきれいな色なのでしょう!あたりは、わらびのいい香りでいっぱいに。

たくさん収穫したので何回かに分けて湯がきました。そのつどお湯からあげ、冷ましながら灰をまぶします。この灰はこんにゃくを作るときにも使う紅葉樹の灰で、ひとつかみ握り、まんべんなくかけておきます。

 

全部を湯がいた後、わらびと灰を優しくこすり合わせるように、灰をなじませます。
この後、お風呂のぬるま湯くらいの温度の湯にひたひたにつけ、一晩置きます。(山水がある場合は流水につけておく)

「一晩ではまだ苦味がある時があるき、その時はまた水につける。様子を見て、噛んでみて」。

 

試しにその日の晩、味はどうかと噛んでみたら、あまりの苦さにゴホゴホ咳き込むほど!一日に何度か水を変え、食べられるようになったのはその2日後でした。

 

お弁当のおかずにぴったりの一品ができました。

わらびの煮つけ

【材料】あく抜きしたわらび・油揚げ・砂糖・しょうゆ・白だし

①わらびを食べやすい大きさに切る。

②わらびを油でさっと炒め、油揚げを加えてさらに炒める。

③砂糖、しょうゆ、白だしを加え好みに味付けをし、コトコト煮る。

 

帰り際、友人が言いました。

「昔の人にとって、灰はこんにゃくを作ったり山菜のあくを抜いたり、とても大切なものだったんやないかな。昔話に“花咲かじいさん”の話があるでしょう?桜の枝に灰をまいて花が咲く。あのお話が生まれた意味がわかるような気がする」と。

通世さんも蓋つきの入れ物に入れ、大切に保存していました。木を燃やすときに、紅葉樹以外のものが混じらないよう気をつけているそうです。

そのままでは食べられないものを、灰の力を借りることによって美味しく食べられるようにする。なんて素晴らしい知恵!

昔の人にとって、灰は、暮らしに花を咲かせるような存在だったのかもしれないですね。

 

*あく抜きの方法は人それぞれ。その人ならではの方法があります。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「旅をする木」 星野道夫 文藝春秋

 

「ああ、その気持ち、私も感じたことがある」と星野さんの本を読むたびに思います。まだ輪郭しか見えずはっきりと言葉にできないような思いを、星野さんは決して難しくない言葉で目に見えるかたちにしてくれていて「ああ、こういう言い方があったのか」と新しい発見をしたような、懐かしい誰かに再会したようなそんな気持ちでページをめくります。

『人生はからくりに満ちている。日々の暮らしの中で、無数の人々とすれ違いながら、私たちは出会うことがない。その根源的な悲しみは、言いかえれば、人と人とが出会う限りない不思議さに通じている』

同じ地球上で今同じ時間を生きている人たちは気が遠くなるほどたくさんいて、すれ違うことも出会うこともなく、お互いの存在さえ知らないままお互いの一生を終えることがほとんどなのかもしれません。でもそんな中でもなぜだか出会って、怒ったり笑ったり泣いたり、悩んだり喜んだり苦しんだりしながら時を重ねる。目の前のその人とのやりとりや重ねてきた時間は、出会えたからこそのこと。やっぱりとてもかけがえのないことなのです。

星野さんはいつもそのことを思い出させてくれます。

 

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読んでほしい

高峯神社への道 その7

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これは高峯神社の守り人、筒井賀恒さんと高峯神社への道しるべを辿った記録です。
今日は地図上の「7」の場所にある石碑についてのお話です。

 

さらに道を進むと、左側に「安吉」と書かれた看板が見えてくる。そこを左に曲がり、道沿いに進む。

そして、道の右側をよーく見ていてほしい。

木に見え隠れしながら現れる、この常夜灯。
天保6年(1835年)からここに立っている。昔はろうそくを入れ、火を灯していたそうだ。常夜灯の隣に立つと土佐町の山並みが見える。

 

そして細い山道を少し登ると、最後の石碑がある。

「御神前 ヨリ 五丁」

 

今までの石碑に刻まれていた「三宝山」の文字が「御神前」に変わった。
ここから約500mで高峯神社へ着く。

きっと昔の人もこの場所で「もう少し!」と思いながら、汗を拭きふき、励まされるように坂道を登ったのではないだろうか。

 

賀恒さんは言っていた。

「道路の開発をしたら昔の道は使われなくなる。昔の人の道すじを追って来ると、昔の人たちがどんなことをやっちょったかよくわかる。昔の道がなかったように新しい道を通ってしまっているけれど、昔の道がまだちゃんとあるのよ」

昔の人の足跡が、まだかろうじて残っていた。

賀恒さんに教えてもらわなかったら私も知らないままだった。

 

さあ、いよいよ、高峯神社は目前!

(「高峯神社への道 その8」に続く)

 

 

*石碑を案内してくれた賀恒さんのことを書いた記事はこちらです。

高峯神社の守り人 その1

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私の一冊

鳥山百合子

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「かわ」 加古里子作,絵 福音館書店

絵巻じたてになっているこの本。蛇腹折りになっている絵をぱたぱたと広げて伸ばしていくと、その長さ7メートル40センチ!(巻尺で測ってみました。)

山から流れ出る水が『たかいやまにつもったゆきがとけてながれます。やまにふったあめもながれます。みんなあつまってきて、ちいさいながれをつくります』。
そして谷間を通り、畑や田んぼに水を満たし、川沿いの牧草を食べる牛たちの喉を潤す。この風景はまるで高知県嶺北地方を流れる吉野川のようです。
そしてさらに大きな流れになり、港を抜け、海に出ます。『ひろいひろいうみ。ふかいふかいうみ。おおきいおおきいうみ。どこまでもどこまでもみずのつづくうみ。うみをこえていこう。ひろいせかいへ』。

その一連の流れが一枚の絵になっています。

山登りをしている人たちや田畑で仕事をする人たち、河原でお弁当を食べている人たち、海の近くの工場。川と共にある生活の様子が細かく描かれていて、見るたびに新しい発見があります。

作者である加古里子さんがこの本の向こうにいるだろう子どもたちの姿を思い浮かべながら絵を描き、お話を作っただろうことがしみじみと伝わってきます。

鳥山百合子

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「谷川俊太郎質問箱」 谷川俊太郎 東京糸井重里事務所

詩人の谷川俊太郎さんが寄せられた質問に答えていくこの本は、時々クスッと笑えたり、なるほど〜と思えたり。うん、肩ひじ張らなくてもいいよね、と思えます。

2枚目の写真の質問「大人になるということは、どういうことなんでしょう。谷川さんの「大人」を教えてください」。

その答えは「自分のうちにひそんでいる子どもを怖れずに自覚して、いつでもそこからエネルギーを汲み取れるようになれば大人になれるんじゃないかな。最低限の大人のルールは守らなきゃいけないけど、ときにそのルールから外れることができるのも、大人の証拠」と谷川さん。

なるほど!

これはいいなあ、と思った質問をもうひとつ。

質問:「車、飛行機、そのあとに続く乗りものって、まだないと思うんです。ぼくたちはこれからいったい何に乗ればいいんでしょうか。」

答え:「雲に乗るのもいいし、風に乗るのもいいし、音に乗るのもいいし、気持ちに乗るのもいいんじゃないかなあ。機械じゃない乗りもの、手でさわれない乗りものが未来の乗りものです」

 

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賀恒さんはお正月用の飾りを作るところを見せてくれた。

地面にゴザと座布団を敷き、母屋の隣の小屋から藁の束を出して来た。秋にお米を収穫した時に、きれいな藁を取っておいたのだという。その藁でお正月飾りを作ったり、しめ縄を綯ったりする。
藁の束を片手でひょいと持ち、ホースからちょろちょろと流れ出る山水で濡らす。そうすることで藁がしんなりし、手で綯いやすくなるのだ。ぽたぽたと山水の雫を伝う藁を揃え、座って静かに藁を綯い始めた。

夕方の橙色の光に照らされながら「高峯神社の鳥居のしめ縄もこうやって綯っちゅうのよ」と話しながら綯われた飾りは、それはそれは美しいものだった。高峯神社の手洗石や鳥居、本殿に上がる階段につけられていたいくつものしめ縄は、賀恒さんが作ったものだったのだ。

 

目の前に迫る山を指差しながら「この山の尾根伝いに行ったら高峯神社に着くよ」と教えてくれた。山道をくねくねと行ったり来たりしながらたどり着いたこの場所に立つと、方向感覚なんていうものはなくなってしまう。賀恒さんが指差した方向は、私が思っていた方向と真逆だった。

 

高峯神社には、拝殿へ向かう階段のところどころにコンクリート製のブロックが置いてある。段差がきつい箇所に置いてあるので石段を上りやすいようにしていることはわかった。でもいつも不思議で仕方なかった。きっと歴史ある特別なこの場所なのになぜ「コンクリート」を使うのだろう、他に方法はなかったのだろうかと残念にさえ思っていた。

ある日突然、その謎はとけた。賀恒さんと一緒に階段を上っている時だった。

「このブロックがあると、先輩たちが上りやすいろう。ホームセンターのブロックを買ってきて置いたんで」
賀恒さんはさらりと言った。地域の先輩に相談してホームセンターで1つ100円のブロックを買い、軽トラックで神社のそばまで載せて来て、賀恒さんが一つずつ運びあげたのだという。

まさか賀恒さんだったとは!
心底驚き、そして爽快だった。

これは、70年間この場所へ通い続けた賀恒さんがした仕事なのだ。

「ブロック」は、この地では日常的に使われているものだ。賀恒さんにとって、きっとこの場所は日常であり、生活の一部でもあるのだ。この場所に毎日のように通い、小さな変化に気づき、その時の自分にできることをしてきたのだ。ブロックを抱え、ひとり階段を上る賀恒さんの姿を思うと「なぜブロック?」と、そんな風に思ってしまった自分が恥ずかしかった。

「大変だったでしょうね」と言うと、賀恒さんは「いやいや、そんなことない。やらしてもろうて」と首を振るのだった。

 

そして、ぼそっと言った。
「高峯神社の縁の下の力持ちになれたらと思うちょります」

 

 

賀恒さんの背中を見ていて思う。

 

どうしてなのだろう。
誰に言われるでもなく、誰に褒められるわけでも認められるわけでもなく、自らひけらかすこともなく、自分のやるべきことを淡々と積み重ねる。自分のしたことが誰にも気づかれないこともあるかもしれない。

でもきっと、大切なことはそんなことではないのだ。
この地で生きる人たちの一見さりげない仕事の数々が、気持ちの良い風を吹かせる。小さなひとつひとつが目の前の現実を昨日よりもよりよく、より美しくしているのだと思う。その変化は見ようとしないと見えないかもしれないし、ふとした時に初めて気付くのかもしれない。世の中を動かし支えているのは、世界中のこういった市井の人たちなのだとあらためて思う。

 

 

高峯神社に初めて一緒に行った日のことだった。賀恒さんを家まで送り、挨拶をしてふと見上げた時に目に入った。賀恒さんの家の2階の窓際に小さな机があって、机の上に土佐町史が置かれていた。
ああ、あの場所で賀恒さんは土佐町史のページを開いているのだ。
あの場所に座り、自分の生まれ故郷や暮らしている土佐町の姿を思い描いてきたのだ。
賀恒さんが自分の知っていることや学んだことをいつも熱心に話してくれるのは、会ったことのない祖先たちから受け取った何かを次の世代に手渡したいという賀恒さんの願いのあらわれなのではないだろうか。

 

重ねてきた日々の尊さを思う。

今まで通りすぎてきた道のあちらこちらに、いつのまにか手のひらからこぼれ落ちてしまったこの町の輪郭があることを賀恒さんは教えてくれた。毎日通る道の風景や頰に感じる風を、昨日とはまた少し違うものに感じるようになった。

次の世代に手渡すということは、こういうことなのかもしれない。

 

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