2020年1月

山峡のおぼろ

傷あと

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一つの傷あとを見るたびに、もう70年以上も前のことが鮮明に浮かんでくる。

小学校6年生だった昭和19年(1944)の夏休みのある日。金突鉄砲を持って、川へアメゴを突きに行った。

走って行く途中の道路で転び、硝子の破片で、左の手の平の、親指の付け根あたりを切った。驚くほど血が出たので、右手でそこを押さえながら、一時は茫然としていた。

少し痛みと出血がおさまって川へ行き、傷を洗ってみると、思ったより深い。そのうちふと思い出し、いつもしているようによもぎの葉を摘んだ。それを右手だけで揉んで、汁を傷につけると、飛び上がるように痛かったが、血が殆ど止まった。

それを見ていて頭をよぎった思いは、家族はもちろん、近所の大人がこの傷を見たら、必ず医者へ連れて行かれ、医者は縫うだろうということであった。

そうなれば、治るまでは川に行くことを間違いなく止められる。それはいやだ。しかし、この傷ではやはり医者だろうか。一生懸命に“打開策”を考えた。その結果、金突鉄砲などの道具をひっ掴んで、家に駈け戻った。

祖父母と母は山仕事に行って、家には居ない。

早速、富山の置き薬の中から消毒薬を取り出して、傷口にかけた。血は出ていなかったが、川に居た時よりも開いていた。

そして縫針に木綿糸を通して、傷口を縫った。それまでにけがをして、村の医者に縫ってもらった時のことを思い出しながらであったが、当然そう簡単にいくものではない。

第一、生身に針を刺すのだから、痛さで涙が出た。それでも右手と口を使って糸を結びながら、5針縫った。縫ったあとは、妙に痛みがやわらいだことを覚えている。

包帯をすればばれるので、富山の貼り薬を傷にかぶせ、家では左手を握って、傷が見えないように細心の注意を払った。川にも時々行った。長時間水につけるのは避けた。

10日か半月ぐらいで、傷は治った。その間、誰にもばれなかった。

しっかりと肉が締め付けている木綿糸を抜く時は痛かった。はさみで糸を切り、それをピンセットで引き抜いた。痛みと共に血が出たが、大したことはなかった。

今、左の手の平の傷あとを見ると、その左右に、虫の足のように短い傷あとが出ている。それが縫ったあとである。70年以上の年数を経て消えそうなものだが、よほど不器用に縫ったのだろう。不器用なのは当然である。

生傷で川に入って、よく化膿しなかったものだと思う。その一方で、当時の川の水は、生傷にばい菌が入らないくらいにきれいだったろうか、とも思う。

その翌年、旧制の中学校に入学したが、同級生の中に

「俺も切り傷を自分で縫うたよ」

と言う友人が2人居た。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「 tupera」 毎日新聞大阪本社発行

先日、高知県立美術館で開催中の「ぼくとわたしとみんなのtupera tupera 絵本の世界展」に行ってきました。tupera tuperaさんの色とりどりの仕事の細やかさ、繊細さ、ユーモアに圧倒されました。

絵本「魚がすいすい」の一場面、雷雲から逃れるためにボートを必死に漕いでいる人たちの腕、水着姿のかわいい女の子に群がる色とりどりの魚たちのうろこ…。細かいひとつひとつが紙でできている。シルクスクリーンで印刷した紙も使っているそう。目の前の作品に向き合うtupera tuperaさんおふたりの背中が見えるようで、このひとつひとつの仕事をよくぞ積み重ねたなあ…と敬服する思いで眺めたのでした。

作品の前に立つと新しい発見がありとても面白くてずっと見ていたいほど。早く行こうよ、と子どもに腕を引っ張られ「もうちょっと!」と粘る。何度も響く「早くー」の声…。後ろ髪引かれる思いでその場所を離れるのでした。

会場にある「パンダ銭湯」の入り口に一歩足を踏み入れ、手ぬぐいを頭に乗せてお風呂に入ればもうパンダ銭湯の一員に。「おならしりとり」の歌は、会場を出たあと何度も「おならしりとりおならしりとり…」と頭の中で繰り返され、口ずさんでしまうのでした。

この本はこの展覧会の作品を掲載したカタログです。何度眺めても楽しい。ですが、本物は最高です!展覧会は3月8日まで開催です。ぜひ!

鳥山百合子

 

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山峡のおぼろ

風を切る鎌

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台風のたびに、一つの風景を思い出す。

猛烈な風が吹く山村の家の門か庭で、一本の竹竿が立てられていた。その竿の先に結び付けられているのは鎌である。

私の子どもの頃は、今のように観測技術が進んでいない時代だから、風と雨が強くなって「時化じゃ」と慌てて、防衛に走り回ったものであった。

色んな対策の中で、鮮明に覚えていることが一つ。鎌を結びつけた竹竿が門先に立てられたことである。

父は出征で居なかったので、祖父が立てたり、叔父が立てたりした。叔父は分家して近くに居たので、主に叔父が立てた。

どうしてこんなことをするのだろう、ということは、民話的な発想から子ども心にも推察できた。台風の風を切り裂いて、やっつけようということだろうと。

叔父に聞くと、

「放っちょいたら風が大悪さをするきに、鎌で切り刻んでやって、弱らそうとするがよね。いつ頃からこんなことをしよるか知らんが」

という答えであった。やっぱりそうか、と思った。

山の村の台風は、山を真っ白にする。

木の葉の多くが裏を返して、白い塊となる。それが風の通過と共に、山を走り過ぎる。

それと共に、雨が何本もの柱となって、連なって吹き流されてゆく。

この雨の柱を「槍担ぎ(やりかたぎ)」と呼んでいた。たしかに槍を担いだ兵の集団が、無数に駆けているようであった。

そんな中で、鎌を付けた竹竿は滅茶苦茶に揺れた。鎌は踊り狂うようにして、風を切りまくっているようだと子ども心に思った。

しかし、竹竿が折れることもあった。そんな時は叔父を手伝って、強風によろめき、ずぶ濡れになって、竿を立て替えた。

時には雷を伴っていたこともあった。そんな中での作業だった。

今思うと、雷鳴と稲光りの中でずぶ濡れで動いていたことは、ぞっとするほどの無謀な行為である。しかし叔父も怖がる様子はなく、必死に竿を立て替えた。鎌が風を切り裂くように、雷をも切ってくれると見ていたのかもしれない。

あとでは、「よく雷に打たれざったよ」と、叔父と話したことだった。

鎌を立てる風習は時代と共に減り、いつのまにか消えた。

しかし今でも、山の家の門先で、台風を切り裂く鎌が立っていたことは、よく似合う風景だったという思いが残っている。

 

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私の一冊

川村房子

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「本屋さんのダイアナ」 柚木麻子 新潮社

この本は少女から大人になっていく2人の女性のダブル主演で綴られている。

小学校3年生のクラス替えのあった新学期。自分の名前が大嫌いな「大穴」と書いてダイアナと呼ぶ屋島ダイアナ。おばあさんみたいな名前だという神崎彩子。家庭環境も何もかも正反対の2人が本好きを通して親友になった。

2人の大好きな「秘密の森のダイアナ」という児童書が、ダイアナのシングルマザーとしてキャバクラで働く母親、子どもが生まれたのも知らず出て行った父親と、編集者に勤めていた彩子の父親が複雑にからみあっている。

そんな2人がささいな事をきっかけに絶交してしまう。お互いを意識しながらも仲直りのきっかけがつかめない2人。

いろいろな事にほんろうされながら10年。本屋さんに勤めるダイアナ。大学生活を終え、社会人への道を踏み出そうとしている彩子。「秘密の森のダイアナ」をきっかけにまたつながりを手繰り寄せていく。

ラストシーンにむけては、目をしばたきながらいっきに読んでようやく眠りについた。

川村房子

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笹のいえ

茅刈り

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先日、ススキ刈りに出掛けた。

ススキが屋根を葺く資材になったり、積んで醗酵させると良い肥料になると言うことは以前から知っていたけれど、わざわざ集めて利用するところまで考えることはなかった。しかし以前左官屋のケンちゃんと稲藁で葺いた小さな屋根が予想よりも早く傷んでしまったため、今度はより耐久性のあるススキを使おうとなった。夏の間ぐんぐん背を伸ばし、冬に立ち枯れするこの植物を刈り取るのにちょうど良い季節だ。

その昔、ススキをまとめて生やしておく「茅場(かやば)」という場所が、どの地域にもあったらしいが、近年見かけることは少なくなった。今ではススキなどイネ科の茅は、田畑の法面や道の横などにあちらこちらに生えているが、刈払機で刈られ、利用されることはほとんどない。放っておくと背が高くなって処理しにくく、どちらかと言うと邪魔者なイメージだ。

刈って持って帰っても文句言う人はいないだろうが、人様の土地に勝手に入るわけにもいかないので、あらかじめ地主の方に確認して了解を得た場所に行った。

柄の長い鎌を手に田んぼの斜面を一歩ずつ足元を確かめながら、ススキが密集している場所を目指す。根元から刈ると、ざくざくという音が気持ちいい。鎌の届く範囲を刈りながら腕の中でまとめ、また次の場所に移動する。

ちょうど遊びに来ていた友人の手も借りて、一日ススキを刈っては束にしていった。

集めたススキを縛り直して、長さを揃えるために株元を地面へ叩く度、穂についた綿毛がふわりと舞う。午後三時、空には雲ひとつなく暖かい春のような陽気だったが、僕たちとススキの長く伸びた影が、冬を感じさせていた。

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私の一冊

矢野ゆかり

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「知識ゼロでも分かる日本酒はじめ」 SSI認定利酒師酒GO委員会著, 片桐 漫画, SSI日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会監修

新年あけましておめでとうございますというのを今頃言うのも、素晴らしく野暮天ですね。どうぞ悪しからず。

新年そうそう出遅れてしまった私の一冊ですが、今回は『知識ゼロでも分かる日本酒はじめ』という本でお送りします。(年末年始暴飲暴食で体調を崩していた訳では無いですよ!!決して!!!毎回世間が賑わう時期はアテられて精神的にグロッキーなのです)

さて、どうして新年一発目がこのチョイスなのかというと、やはり年末年始のおきゃく、お屠蘇、神前仏前へのお神酒など、日本酒が欠かせないですよね。

更に、特に今の時期はどの酒造会社も、杉玉が熟した焦げ茶から、つやのある深緑に変わる時期です。私の住む酒造会社のある地区でもこの時期は、やはり、特別な時期なのです。

いつだったでしょう、高校生のころ早朝の寒稽古に行くため、裏口を出た瞬間でした。自分が吐いた真っ白な息と、辺り一面に漂う濃厚な、あまくふくよかな酒精の香り。霜が降りて全部蒼く凍えている中、道向かいのレンガの煙突からもうもうと綿飴のような湯気があがっていました。(今年もお酒ができたんだなぁ…)となんだか少し嬉しくなった思い出があります。

正式な社名は「株式会社土佐酒造 桂月」ですが、以降地元の呼び名桂月で通します。

さて、私の家族は桂月と共にあったと言っても過言ではありません。

「おまんくには桂月からパイプが通っちゅう」だの、「蛇口を捻れば桂月がでる」とまで言われる始末。お付き合いは初代社長からあったようで、祖父はその時からのヘビーユーザーです。そして桂月銀杯ひとすじ。

今回の著書の解説によると桂月銀杯は本醸造酒にあたり、大衆向けでどんな料理にも合い、燗にしても常温でも冷でもいけるタイプのようです(あってるかな???間違ってたらごめんなさい)

ちなみに祖父は仕事から帰ると、桂月のワンカップ(耐熱)に一升瓶からまけまけいっぱい注ぎ、それをちゅちゅっと啜り適量にし、レンジで1分から1分半の燗にして飲みます。アテは基本的に竹輪の確率が85%ほど、たまに刺身や揚げ物。物心着いた時には行われていたルーティン。今もほぼ変わりません。

あいた一升瓶をためて、物置から74本も出てきた時は、(すぐ側で庭が広いきお客さんに駐車場と間違われるし、社員の家と間違われて「今日あいてますか?」なんてざらやし、それで案内しちゃったり、うちの物置も桂月の空き瓶置き場でええんちゃう?)と思ったことでした。

ちなみに、この祖父の夕方のルーティンは17時半頃なのですが、小学生低学年のある残暑厳しい日、あまりにも喉が渇いたので祖父母の家に寄りました。出来ればジュースがいいなと思いつつ冷蔵庫やら、戸棚やらを物色したのに、麦茶ひとつない!もう水でいいかと思ったところに、都合よく桂月のワンカップに入った水が。コレ幸いとゴクゴクとそこに祖父登場。「あらァ!!そりゃワシのぜよおぉ!」という誤飲事故もありました。小学生の私は(怒るとこそこ!?)と思いながら、蛇口から水を飲んだ記憶があります。

あの時は不味かった日本酒も、好きな傾向もある程度定まって楽しめるようになりました。しかも今年度からは家族全員で、あーだこーだと言いながら飲めるのです。

今は桂月でアルバイトもしているので、著作の解説と現物を見ながらより深くお酒のことを知ることが出来ます。著作では、日本酒が大きく吟醸酒、純米酒、本醸造酒の3つにわかれることと、そこから更に香味を分ける、熟酒・醇酒・薫酒・  爽酒の4つの分類法。甘口と辛口の違いや判別の仕方。また、料理とのペアリングの仕方である、ハーモニー、マリアージュ、ウォッシュについても触れられています。詳しくは読んでください()

参考までに私は、爽酒の生酒に目がないです。桂月で言えば冬季限定蔵出し生原酒です。少し冷凍に入れて雪冷えの生原酒を飲みだしたら止まらないやめられない。アルコール度数はちょっと高めですが、くせも少なく喉越しもライトで苦手な人で手が出しやすい気がします。あと甘酒は無いと困るほど飲んでいます。

高知県民は特に、老いも若きも飲むこと食べることが好きですよね。

飲みあわせに関しても、各々かなりこだわりがあるように見受けられます。大酒飲みも多いですし、酔うことが好きです。

新成人の皆さんも、両親や友人や職場の人達と飲んだり食べたりして、こだわりを見つけていくのだと思います(弟よ、あんたもだぞ!!)

でも何となくお酒との付き合い方が分からなくなったら、今回のような本に手を出してみるのもいいかと思います。結局は自分の好みが大事ってかいてますから。

では、お後がよろしいようで。

 

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伊勢喜さんはよく笑った。つられて私も笑った。

伊勢喜さんはぜんまいの帽子を退けるのがあまりにも速いので「速い!追いつけない」と言うと「追いつきや!」と笑い飛ばす。ちょっとしたことは軽やかに飛び越えられるような気持ちになる。伊勢喜さんはそんな笑顔の持ち主だった。

一緒に作業をしながらふと見上げると、満開の八重桜の花びらがはらはらと地面へ降りていった。あたりはとても静かで、桜の木の下に干されたぜんまいに花びらは重なっていくのだった。

 

帰り際、伊勢喜さんは私の手を包むように握って、言った。

「ありがとう。また来年も一緒にぜんまいの仕事、しましょうね」

その手のあまりの温かさに、私は涙がこぼれたのだった。

 

次の年、私はその約束を守らなかった。日々の出来事に追われて、私は伊勢喜さんのぜんまい山へ行かなかった。行けなかったのではなく行かなかったと言わないといけない。忙しさは理由にならない。気になりながらあれこれしているうちに、ぜんまいの季節は終わってしまった。

伊勢喜さんごめんなさい。

そう思いながら伝えもせず、会う機会もつくらなかった。

 

それからさらに一年が過ぎ、またぜんまいの季節を迎えた。約束を守らなかったことへの後ろめたさが何度も頭をよぎった。栗ノ木の道を走っていた時、自分の内側の何かが背中を押した。

今日行かなければ。

 

 

栗ノ木へ向かう道沿いを流れる川は2年前と同じように流れ、山道沿いの八重桜は2年前よりもぐんと大きくなっていた。それだけの時間が経ったのだ。それだけの時間をあけてしまった。

伊勢喜さんはいるだろうか。会って何と言ったらいいのだろうか。その答えが思い浮かばないうちに、一面に広がるゼンマイ畑が見えてきた。煙突からは煙が上がっている。2年前と同じ風景に入っていくことが不安だった。

 

伊勢喜さんはいるだろうか。会えたら、昨年来れなくてすみません、と言うんだ。そう心に決めて、煙の方へと向かった。

何人かの人が忙しそうに働いていた。伊勢喜さんを探す。あの人も、あの人も違う。探しても伊勢喜さんの顔は、そこになかった。

 

伊勢喜さんの娘さんがいたので聞いた。

「伊勢喜さんはいますか?」

娘さんは言った。

「お母さんはめったにここには来なくなった。体がしんどくなってね」

週に何日かは出かけたりしているものの、伊勢喜さんは体調が良くない日が多くなり家にいることが増え、酸素の吸入器をつけている時もあるという。

 

 

その日、娘さんを手伝いながら繰り返し考えた。

去年、私はなぜ行かなかったのだろう。

むしろに干されたぜんまいの間を行ったり来たりする伊勢喜さんの姿があるはずだった。ぜんまいを茹でる釜から上がる煙も、茹で上がったぜんまいの香りも何ら変わらずそこにあるのに、伊勢喜さんはいなかった。

私はどこかで、また次があると思っていた。でも行きたい時に行かないと、伝えたい時に伝えないと、その時がまた来るとは限らない。その時は待ってはくれない。たとえ小さくとも自分の内からの声に耳を傾け、次の一歩を踏み出したいと思う。

 

これからまた春が来る。

伊勢喜さんはどうしているだろうか。

会いに行って、ごめんなさいとちゃんと謝りたいと思う。

そしてまた四月の晴れた日に、一緒にぜんまいの仕事をすることができたならこんなにうれしいことはない。

 

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私の一冊

西野内小代

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「あなたの脳のしつけ方」 中野信子 青春出版社

「ホンマでっか!?TV」など数多くのメディアの登場されている作者です。

いかに脳をコントロールして快適に生活していくかを言及。

うつ病傾向からの解放の為に必要なアミノ酸の有効的な摂取方法、学習等持続させる為には敢えてキリの悪いところで中断する方が有効(気になるので次の取り掛かりが早くなる)。

日常実行可能な事柄が書かれていてとても参考になるかと思います。

西野内小代

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寒い冬を越え、枯れた草々の中に芽生えた小さな緑に気づくようになると、土佐町の山々では山菜が顔を出し始める。土佐町は日本で指折りのぜんまいの産地のひとつ。茶色のむくむくとした柔らかい毛を身にまとい、くるりとした頭をゆっくりと持ち上げてあっという間に背筋をピンと伸ばすぜんまいは、この地にようやく春が来たことを告げる。

 

2年前のこの日、私は伊勢喜さんと一緒にぜんまいをゆであげ、むしろの上にぜんまいを広げる作業をした。

初めて会った長野伊勢喜さんは、昨日も会っていたかのような笑顔で話をしてくれた。

伊勢喜さんは大正14年生まれ、この時92歳。笑った顔がとにかく可愛らしい人だった。小柄な体にしては伊勢喜さんの手は厚くゴツゴツとしていて、それは何十年も仕事を積み重ねて来た人の手だった。

体はあちこちに動き、さっきまでぜんまいを揉んでいたのに、次は干したぜんまいの色が変わったのを見計らってひっくり返している。そして、乾かしてカラカラになったぜんまいの固いところをひねっては手でちぎる。仕事をしている間はとにかくぼんやりとする隙間などはなく、あっちへ行ったりこっちへ行ったり見て回り、必要なところで必要なことをし、ひとつひとつの仕事を確実に重ねていった。不思議ことに、せっせと仕事をしながらも伊勢喜さんはゆったりとした空気を身に纏っているのだった。

「私はね、この家で生まれて小学校6年までしか学校へ行ってないけ。兄弟が大勢おって手がかかるけ、仕事せないかんということでそれからずっとお百姓。二年だけ挺身隊に行ったのよ。学校も出てないけ、どうせお嫁にいけんろうと思ってた」

伊勢喜さんのお子さんたちはこの場所から高校へ自転車で通ったそうだ。土の舗装されていない道で、まともに自転車に乗れるようなところはなかったという。

「牛を引いたり、田んぼをすいたり、人並みの人間じゃないわ。社会を知らんのよ」

 

 

山の斜面一面のぜんまいは全部伊勢喜さんが植えたのだそうだ。山に生えていたゼンマイを株ごと掘り起こし、大きな袋にいくつも入れて山から降りる。その重さ40キロ。それを何度も繰り返しては植え、この一面のぜんまい畑をつくった。

「ぜんまいで収入を作ろうと思って植えたのよ。でも歳がいったらいかん、ようせんけ」

座り込んでぜんまいの帽子をせっせと手で退けながら、伊勢喜さんは少し下を向いた。

「帽子を退けたら茹でて、干して、真っ赤になったら機械でもんで、また干して。そしたらきれいにに真っ赤になる。やっぱり経験してこそ。こうしたらこうなる、とか、えいぜんまいになる、とか研究しながらせないかんのよ」

 

 

 

茹で上がったぜんまいはつやつやと深い黄緑色に光り、あたり一面がぜんまいの香りで満ちる。私はこの香りが大好きで伊勢喜さんへ伝えると「匂いなんてするかね?私らはもう慣れたけね」と言うのだった。

それを太陽の光の元へ干すと赤くなる。なんとも不思議な自然の仕組み。山の暮らしには人間の考えなど及ばない営みが日々繰り返されている。

「茹で方がまずかったらぜんまいが黒うなる」、「干して赤くなってから揉まないと色が変になる」、そして「この作業をするのにいい期日というものがある」そうだ。

経験に裏付けされた知恵を山の人たちはその手の中に持っている。

(「四月の晴れた日に その3」に続く)

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私の一冊

古川佳代子

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「ちいさいおうち」 バージニア・リー・バートン文,絵  石井桃子訳  岩波書店

物心ついてから今に至るまで、いつも傍らには本があったように思います。 本は善きもので、信頼に足る存在だと私に教えてくれたのは『ちいさいおうち』でした。

小学校に入学してひと月ほど経った頃でしょうか。父に作ってもらった「代書板(1センチほどの厚さの木の板で背には名前が書いてあり、借りた本の代わりにその場所に差し込む)」を持って、学校図書館に入ったときの感激。どの壁も本棚でうまり、まだ読んだことのない本が想像もしたことのない冊数で目の前にあるのです。こんな素敵な部屋が学校にはあるんだ!すご~い!! けれども1年生が借りられるのは1冊だけです。吟味に吟味を重ねているときに目に入ってきたのが、美しい空色に縁取られた小ぶりな絵本。赤く可愛らしいおうちとシンプルな花の絵も気に入り、表紙を開きました。一冊読み終えるのに、15~20分ほどかかったでしょうか。読み終えたとき、15分前の私とは全く別人のような気持ちがしていました。

なにしろちいさいおうちと一緒に100年を超す長い時間を生き延び、やっと元の場所に帰ってきたのですから。 すっかり老成した気分でため息をつき「本はすごい!この部屋の本を全部読もう!」と決心しました(笑)。

それからずっと今に至るまで、本は魔法の世界に誘い、時には励まし支えながら、親友の1人として寄り添ってくれています。 本の世界に遊ぶ楽しさを教えてくれた『ちいさいおうち』に感謝しながら、今日もこどもたちに本を手渡しています。

古川佳代子

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