石原地区に流れる「押ノ川(おすのかわ)」。
この写真は先日刊行した「とさちょうものがたりzine」8号の表紙にも使用したものです。
8号の著者である窪内隆起さんが少年の頃に、草鞋で駆け回ったであろう川。
隆起少年の影を追いながら撮影した夏の日の押ノ川でした。
著者名
記事タイトル
掲載開始日
図らずもTPP。あっちのTPPではありません。
土佐町在住の写真家、石川拓也がひと月に1枚のポストカードを作るプロジェクト。
2016年11月から始まり、たまに遅れたりもしながら、いちおう、今のところ、毎月1枚発表しています。
各ポストカードは土佐町役場の玄関と道の駅さめうらにて無料で配布しています。
「言葉が紡ぐもの」 文:鳥山百合子
朝食を食べていた時だった。
手から箸が滑り落ちた。拾おうと背中をかがめると全身の力がぐにゃりと抜けた。手が動かない。体が起こせない。助けを求めて口から出たのは「あー、あー、あー」。絞り出すように発したそれは、言葉にならない言葉だった。
窪内さんはすぐに病院へ向かった。CT画像には脳の血管を塞ぐ一つの血の塊が写っていた。脳梗塞だった。
震える手で4Bの鉛筆を握り、主治医の質問にマルバツで答えた。途切れ途切れながら筆談することもできた。
「口では説明できんのに、それでも考えだけは浮かんでくる。我ながら不思議な体験だった」
入院して4日目、朝起きると、あれだけ言葉にならなかった言葉が話せるようになっていた。手の震えも止まった。血の塊が太い血管へと移動し、血流がよくなったのだ。
入院中、電話をいただいた。入院の理由を聞いて血の気が引いたが、聞こえてくる窪内さんの変わらぬあたたかい声に安心もした。今は自宅で療養しながら過ごされている。
「脳梗塞を乗り越えたいと思っていますから」
コロナ禍もあり約一年半ぶりにお会いした窪内さんは、力強くそう言った。
「山峡のおぼろ」と題し、窪内さんが戦中、戦後の子供たちのことを書くきっかけとなったのは、産経新聞社を退職する際に司馬遼太郎さんから手渡された色紙に記された言葉だった。そのことは「終りに当たって『婉なる哉故山…』(P45 ) 」に詳しい。
実はきっかけがもう一つあった。それは60年越しの約束だった。窪内さんが産経新聞の記者として働き始めた頃、「盆飯(P38 ) 」を一緒に食べたガキ大将、窪内久年さんと交わした言葉だ。
「ものを書く世界に勤めたんやったら、戦中、戦後が忘れられてしまわぬよう、子供時分にやったことを全部まとめて書き残しておけよ」
その後も久年さんと会うたびに何度となく「命じられ」、書き残したいという想いはずっと頭の中にあったそうだ。しかし仕事は忙しく、発表する方法もなかった。そうこうしている間に子供の頃の思い出を語り合える人たちはここ10年の間にこの世から次々と姿を消し、久年さんも3年前に亡くなった。
「そんな時、とさちょうものがたりと出会えた。子供時代のことを書こうと決めた時、久年さんとの約束も果たせると思った。それが『山峡のおぼろ』を書こうと思った最大の理由です」
窪内さんはそう話してくれた。
窪内さんがよく話す思い出の一つに「こぶて」がある。こぶてとは、木の枝や竹の弾力を利用して小鳥を獲る仕掛けのことである。朝、山の5〜6箇所にこぶてを仕掛け、学校から帰ってすぐ、獲物がかかっているか確かめに行く。宿題は必ず夜に回し、こっちの山へあっちの谷へとほぼ毎日駆け回っていたそうだ。戦争中の不自由な時代、とにかく自分で動かなければ始まらない。生活の全てにおいてそうするしかなかった。
私は窪内さんのお話を伺ううちに、子供時代の日々が、窪内さんという人の土台を作ったように思えてならなかった。
「僕は必ずと言っていいほど、自分でそのものを見るか、話を聞くか、とにかく自分で確かめないと気が済まない。実際に見た、触れた、そのことを軸にして口に出す以外ない」
子供時分にしてきたことが今も残っているのだと思う、と窪内さんは言っていた。そして、それは司馬遼太郎さんの教えでもあったと話してくれた。
昭和40年(1965年)、窪内さんは産経新聞社の先輩であった、作家司馬遼太郎さんの担当編集者になった。担当した「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」の他に、何本もの連載を抱えた司馬さんから常々言われていたことがあったという。
「想像でああらしい、こうらしいということを絶対俺に言ってくれるなよ。実際に見て、触って、知ったこと以外は、俺の耳に入れる必要はないぞ」
それはまさに窪内さんが子供時代に培ったことでなかったか。窪内さんと司馬さんが、編集者と作家という立場を超えて共有していた前提を見た気がした。
窪内さんは、司馬さんの作家活動の原点となった出来事を話してくれた。
旧満州牡丹江で戦車第一師団の小隊長だった司馬さんは、昭和20年5月、本土決戦に備えて帰国し、栃木県佐野に駐屯。視察にやってきた大本営の参謀に聞いた。
「米軍が上陸すると、それを迎撃するために戦車隊は南へ進む。ところが一般国民は、南から北へと同じ道を逃げてくる。その場合はどうしますか?」
参謀は言った。
「轢き殺して進め」
国を守り、国民を守るのが軍ではないのか?こんな人間の指揮のもとで戦っているのか?戦争が終わって自由にものが言える、書ける時代になったら書かなければいけない。司馬さんはそう思ったという。
そして作家となり、事あるごとに「事実は見えるけれど、真実はもっと深いところにある。事実だけに囚われず、さらにその奥の真実を見極めるように」と編集者たちに話していたそうだ。
ものごとの真実はどこにあるのか。
「轢き殺せ」と言い放った参謀の姿に、司馬さんは戦争というものの真実を見たのではないだろうか。
時には手探りで、時には深く潜っていって、奥底に隠れているものを探し続ける。事実だけに目を奪われて、真実を見逃してはならない。人任せにすることなく、自ら見極めよ。
司馬さんの作品の数々から、その叫びが聞こえてくるような気がする。
この本は「とさちょうものがたりZINE04 山峡のおぼろ」の続編である。04号を読んだ人から窪内さんの元へ「私も同じものを食べた」「同じことをした」という声がたくさん届いたという。電話帳で調べました、とわざわざ自宅に電話してきた人もいたそうだ。「その声色からみても、同じ思い出に浸ってくれているのがわかった。それだけでも書いてよかったなと思う」と窪内さんは言っていた。
久年さんと司馬さんから手渡された言葉は、時を経て窪内さん自らの言葉となり、多くの人たちの共感を生んだ。真実の言葉が紡ぐものは尊い。
「人生の最後に、人のために残しておける仕事ができてよかった」
窪内さんの心からのその言葉は、私たち編集部にとって何ものにも代え難い言葉だった。この言葉を何度でもかみしめて、深奥にある真実へと手を伸ばし続けたいと思っている。
2021年7月21日、高知新聞に「鹿の角ガチャ」についての記事が掲載されました。高知新聞嶺北支局長の竹内将史さんが書いてくださいました。
「鹿の角ガチャ」については、2021年6月11日の高知新聞でも取り上げていただき、多くの反響をいただきました。この記事が掲載されてから、編集部の元へは続々と鹿の角が届き始めました。土佐町の猟師さんが「よかったら使いや〜」と角を持ってきてくれたり、大豊町の障がい者支援施設「ファースト」にも角がどっさり入ったダンボールがいくつも届きました。大豊町の民生委員さんが知り合いの何人もの猟師さんに声をかけてくれたそうです。
また、ガチャガチャを置いてくださっている土佐町の繁じさんには「ガチャガチャを回しに来ました」という人もたくさん来てくださっています。いつも行列ができる人気のうどん処 繁じさん。お忙しいなか対応してくださっていることに本当に感謝しています。
同じく、ガチャガチャを置いてくださっている高知蔦屋書店に行った人から「子どもたちがガチャガチャに群がっていました!」という報告もいただきました。
私たち編集部以外にも、鹿の角ガチャの取り組みに心を寄せてくれる人たちがこんなにもいるのかと感じた出来事の数々でした。多くの人たちが表してくださった行動や言葉から、私たち編集部はどんなに励まされたでしょう。一人ひとりの人たちに心から、ありがとうございます、とお伝えしたいです。
とさちょうものがたり編集部はこれからも今できることを考え、多くの人たちがハッピーになれるような在り方をつくっていけるよう精進したいと思います。
山間の営みには、いくつもの学びがある。取材してイメージが一変したのがシカ。 厄介な鳥獣は、大きな恵みでもあると知った。
まず肉。正直言えば小さい頃に食べて以来、臭くて硬いという偏見があった。だが処理や調理次第では柔らかく、とびきりうまい肉だ。
牛肉と比べ、脂質は6分の1で鉄分は2倍。ビタミン類も多い。 高タンパク低カロリーの健康食材は、市場拡大の可能性を秘めている。 香美市のジビエ料理人の下には、全国からファンや同業者が訪れていた。
県内にはシカの革製品を手掛ける人もいる。それは知っていたが、恵みはまだあった。
シカの角。古くから金運や武運向上、水難よけのお守りとして重宝されてきたという。土佐町の「とさちょうものがたり」編集部は、お守りのガチャガチャ(カプセル玩具販売機)を町内と高知市に設置した。
記事で紹介したこともあり、売れ行きは好調だとか。お守りは町内の障害者就労支援事業所でも加工しており「利用者のためにも役立てて」と編集部には町内外の住民から家に飾っていたシカの剥製や角が続々届いている。加工に使う工具も住民が持ち寄ってくれたという。
編集部は「障害者らの仕事ができて、 山の文化に触れることのない子どもたちに面白がってもらえれば」と、もうけは二の次。取り組みをまねたいという町外関係者にも、どうぞどうぞと寛大に接する。 温かな輪の広がりに心が和む。
シカはすごい。その真価を生かした活用法の進化が知れ渡れば、山の心地よさにも多くの目が向くと思っている。
この季節にいただく野菜のナンバーワンは、何といってもきゅうり!
ありがたいことに連日のようにきゅうりをいただいて、冷蔵庫の野菜室がいっぱいに。さっきまで畑で太陽を浴びていましたという顔をしてツヤツヤに光ったきゅうりは、持つとチクチクします。このチクチクが新鮮な証拠!痛いのに嬉しくなってしまいます。
さてさて、この大量のきゅうり、一体どうやって食べようか?
ある日、知人が「干したきゅうりの漬け物がすっごくおいしくて、あっという間に食べちゃった」と話していました。聞くところによると、6本ものきゅうりを使うらしい。そして何より興味深いのは、干したきゅうりで作るらしい。
きゅうりを干す!
大根やさつま芋を干したことはありますが、あのみずみずしいきゅうりを干すだなんて!未だかつて聞いたこともありませんでした。
その人はそれから何度も作っていると言います。それほど美味しいのならば!と挑戦してみました。
①きゅうりを6本をスライスして並べ、日の当たるところに干す。
②時々裏返す。(天気の良い日に半日も干すと、きゅうりの縁がシワシワになってくる)
③漬け汁を作る。⑴〜⑸をひと煮たちさせ、その後に⑹⑺を加える。
【漬け汁の分量】
⑴しょうゆ 120ml
⑵みりん 60ml
⑶酢 60ml
⑷砂糖 大さじ4
⑸酒 大さじ2
⑹赤唐辛子(小口切り) 2本
⑺しょうがの千切り 20g
④タッパーなどにきゅうりを入れ、漬け汁を注ぐ。1時間もしたらおいしく食べられる。冷蔵庫に入れて保存。
干したきゅうりがプリプリの歯応え!唐辛子と生姜も効いているので、ごはんが進みます。
子どもも美味しく食べられます。ただいま夏休み中の末娘から「お弁当に入れて!」とリクエストがあるほど。
きゅうりがたくさんあるときに、ぜひお試しあれ!
「1日10分のごほうび」 赤川次郎, 江國香織他6名 双葉文庫
バックの隅にいれて持ち歩き、病院での待合やコインランドリーでの洗濯乾燥時などチョッとした暇な時間にページをめくります。
今はスマホの時代だけれど、何とも使いこなしきれないわたしには丁度です。
作家が替わっての短編小説。お気に入りだったり、はじめての出あいだったり、昔よく読んだ作家だったりで楽しく読みました。
今日は裏表紙に書かれている文章を紹介します。
「NHK WORLD-JAPANのラジオ番組で、世界17言語に訳して朗読された小説のなかから、豪華作家陣の作品を収録。亡き妻のレシピ帳もとに料理を始めた夫の胸に去来する想い。対照的な人生を過ごす女友達からの意外なプレゼント。ラジオ番組の最終日、ある人へ贈られた感謝のメッセージ…。小さな物語が私たちの日常にもたらす、至福のひととき。好評アンソロジー、シリーズ第二弾!」
第一弾 第三弾もあるようです。
(前編はこちら)
やがて若者達の嫉妬の凶器は順太の脳天に打ちおろされた。
勿論、彼等若者達にも順太を殺す気は無かったが、打ち所が悪かったか、順太はウォーッと言う悲鳴と共に死んでいった。加害者の若者達も驚いた。そして困った。が、それは後の祭り、彼等は 順太の死体を河に運び砂を掘って順太の死体を埋めたのであった。
その翌朝順太の飯場では順太が行方不明に成った事に同僚の人夫達は大さわぎと成った。そして順太の行方不明は彼の故郷の母の許へも知らされた。
一方人夫達は八方順太の行方を探したがようとしてその行方は分からなかった。
やがて月も変わり八月二日、晴天続きの天候もついくずれ、どす黒い雲が南からちぎれちぎれに飛んで行った。台風の前兆である。そして翌日三日の夕刻から四日にかけて暴風雨となった。河川は見るみる内に増水した。
阿波屋の人夫達は順太の不明の中で不安ながらも木材を流送したのであったが、さしもの台風も翌五日には又快晴の天候に回復し暑さも多少しのぎ易く成っていたが、山々にはみんみんぜみがにぎやかに鳴いてい た。
この頃、里の百姓与三郎は朝起きて対岸の川原の砂に異様な光景を見た。
それは真黒いカラスの群が一カ所に ガーガーと鳴いているのであった。がしかし、その日は敢えて気にもせず山畑へ仕事に行ったが、その翌朝も又その翌朝も例のからすの群は一カ所に集まっていた。
とうとう、与三郎はそのからすの群の集まっている川原に行ってみたのである。
そこで与三郎が目にしたものは、何と半ば腐乱した順太の死体、それをからすがつついて 二目と見られない凄惨な姿であった。
後編に続く
「ともだち」 谷川俊太郎文 , 和田誠絵 玉川大学出版部
土佐町には「お話ボランティア」と呼ばれる人たちがいます。「お話ボランティア」とは、子どもたちに本を読むボランティアさんのことで、土佐町では約20年前から続けられている取り組みです。本を読むのは保護者やお孫さんもいる子育てのベテランの方々で、年齢層もさまざま。毎週水曜日の朝に小学校の各教室へ行き、それぞれの人が選んだ本を読みます。
私も参加していますが、子どもたちとのやりとりが楽しみな時間です。
先日、小学校3年生の教室で「ともだち」という本を読みました。短い文章と、わかりやすい絵。子どもたちは「うん、何だかわかる気がするな」という表情で聞いていました。
「ともだちなら いやがることをするのはよそう」
「なかまはずれにされたら どんなきもちかな」
問いかけるような一文が続きます。
「ことばつうじなくても ともだちはともだち」
「としがちがっても ともだちはともだち」
一緒に遊び、泣いたり笑ったり、ときにはケンカもして子どもたちは大きくなっていきます。8歳の娘を見ていても一見あっけらかんとした中に、少しずつ人間の複雑さを体験してるのだなと感じることがあります。学校という人が集まる場所で感じる実感や、友達や先生と過ごすことで味わう喜怒哀楽は、一つの大事な経験なのだろうなと思います。
学校に限らず、地域のおんちゃん、おばちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんといった世代を超えた「ともだち」がいるのもこの町のいいところです。褒められるのも叱られるのも、愛情あってこそ。町の人たちの子どもたちを見つめるまなざしは、あたたかです。
友達って何だろう?と聞かれたら、大人も言葉に詰まってしまうかもしれません。でもこの本に「ああ、こういうことかもな」と思った一文がありました。
「ともだちって そばにいないときにも いま どうしてるかなっておもいだすひと」
そういう人が一人でもいたら、きっといい。ともだちがいるのは、いいものです。
恩師とも呼べる人に出会えるのは、人生最大の幸せ。
私の孫が、中学生の時出会った担任の先生は、まさにそんな方でした。
その頃、孫を取り巻く環境は、最悪。母親の突然の入院。今に至ってもまだ意思疎通ができていない寝たきり状態。それに加え、父親の勤めていた会社が倒産。
そのような状況が、立て続けに起こる人生どん底ともいえる渦中に、出会えたのが担任のM先生でした。どうかともすれば下を向きがちな孫に、生徒会への立候補を薦めるなど、陰になり日向になりの励ましをしてくれました。
そして、その先生の最もいい所は、それが孫にだけ向けられたものではなく、クラス全員の子供達それぞれに寄り添い続けてくれた事です。
本当にありがたい。
おかげで、今、孫は東京での看護師生活2年目を迎えることができました。日々、命と向き合う最前線で、患者さんに寄り添う看護師を目指しています。
「クスノキの番人」 東野圭吾 実業之日本社
新刊として新聞で告知された時からタイトルが気になっていた。社会派サスペンスの作家さんが、クスノキの精霊でも扱ったファンタジーに挑戦したのかしら?と、とても興味を持った。案の定、売れに売れている様子。読み始めたら止まらない事必定!何も手につかなくなる、と購入を控えていた。
ある日、図書館の留守番をする事となり、棚から私を見つめているこの本をとうとう手に取った。止まらない、止まらない、もう買うしかない。その週末買い求め、次の日には読み終えた。
一人の訳あり年配女性と、長い間音信不通だった不幸のどん底の甥を中心に物語は展開。人の思いの強さ、感じ取る繊細さをクスノキとして具象化する事により、人間の繋がりの深さを綴った不思議な読み物だった。
紹介に「明日に希望を持てるように…」とありますが、温かい感情で満たされた読後感でした。
本日7月20日(火)、とさちょうものがたりZINEの08号を発刊しました。
今回は「山峡のおぼろ(著:窪内隆起)」号。2019年7月に発行した04号の続編にあたります。
もう何度もご紹介してきましたが、著者の窪内隆起さんは元サンケイ新聞記者。作家・司馬遼太郎氏がサンケイ新聞紙上で「竜馬がゆく」「坂の上の雲」を連載していた時代に、氏の担当編集者として活躍されました。
その窪内さん、12歳までを土佐町・西石原地区で過ごしています。とさちょうものがたりでの連載「山峡のおぼろ」は、窪内さんが西石原で過ごした幼き日々のことを綴ったエッセイ集です。
「山の音や声」「研ぐ」「茶碗を狙って」「機関銃」「ヤリカタギ」‥。今号に収録された20編のタイトルの一部です。
西石原の豊かな自然を舞台に躍動する少年時代の窪内隆起さんの声が淡々と編まれたようなエッセイ集。
「昔はこんなこともあった」と過去を懐かしむためだけではなく、「私たちはどこから来たのか」を知り、「私たちはどこへ行くのか」という解答にたどり着くための小さな一歩。そんな思いで作った一冊です。
+1は『終りに当たって「婉なる哉故山‥」』と題された、この連載全体に対する窪内さんのあとがきです。
サンケイ新聞退職時にあった司馬遼太郎氏との心温まるやり取りが描かれています。
土佐町のみなさまには近日中にお手元に届く予定です。
町外の方々は、以下の店舗・施設にこれから随時配布をしていきますので、最寄りの施設で入手していただければ幸いです。
この本を手に取るすべてのみなさまに楽しんでいただけますように。