2020年9月

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

古川佳代子

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「ケーキの切れない非行少年たち」 宮口幸治 新潮社

「境界知能」ということ言葉を知っていますか?

これはIQ(知能指数)70~84のことをさす言葉です。現在「IQ70未満」を知的障害とされていますが、1950年代の一時期「85未満」とされていた時期もあったそうです。けれどもIQ85未満の人の人口比率が16%と多くなるため「IQ70未満を知的障害とする」ということになりました。

現代の社会生活を営むには100前後のIQがないとしんどいそうです。IQ70~84に相当する人たちは「知的障害」ではないので支援される対象にはありませんが、実際の社会生活では様々な困難に直面します。

本書では、児童精神科医でもある著者が非行少年たちと出会う中での気づきを「境界知能」に焦点を当て、そこから導き出された考察と支援の方法が記されています。

 

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土佐町ストーリーズ

盤持ち(高須・笹ヶ谷)

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相撲と楽しんだ若者は、同じように盤持ちが好きだった。

祭りの日とかその他の休日には、必ずと言ってよいほど神社の境内に集まり、盤持ちに汗を流し、お互いの力を競い合った。これが当時の若者達のこよいない楽しみでもあり、かつ暗黙の伝統的掟でもあったわけである。

盤持ちとは、大石を抱き上げて肩に担ぐことであるが、この大石すなわち盤持ち石(力石)が方々の神社や、お寺の境内などに置いてあるのを最近までよく見かけたものである。

相川・高須地区には四ヶ所あったが、正木の宮に二個(二十八貫と三十二貫)、荒神様に二個(二十八貫と三十二貫)、お地蔵様に一個(四十二貫)、岩戸様に一個(三十七貫)である。正木の宮や荒神様の二十八貫の力石を担ぐ者はいくらでもいたという。

だがそれでも三十二貫(120kg)となるとその数はぐっと減ったというし、さすがに四十二貫(158kg)ともなると、これを料理する力自慢の者はそれこそめったにいなかったらしい。高須の八重霞(池添大三郎)は、正木の宮の三十二貫の力石をいとも簡単に持ち上げたり、一間(1.8m)近くも前に投げ飛ばしたりしたが、それでも肩にあげるとなると、それこそ見ている方が気の毒になるほど苦労し、うんうん唸りながら担ぐという有り様だったという。

盤持ちの最大のこつは、力だけに頼らないことだという。じわっと腰を下ろし静かに両ひざの所へ持ち上げ、そこで胸をぐっと力石にくっつけ、それから石が肩へ歩いてゆくようにじわじわ持ち上げなければ、ぎりぎりの石は決して肩に乗るものでないと、昔を語る古老たちの一致した意見である。盤持ちは絶対に力だけでは駄目で、それなりのコツが必要だという。大三郎ほどの怪力でも盤持ちは苦手だったようである。

嶺北一の盤持ち男として不動の地位を占めているのは、何といっても日本嶽萬治(やまとだけまんじ)をおいてほかにない。これを証明するかのように、土佐町役場入口の右側に、萬治の力石が立派な台座の上に座っている。

力石には「森村笹ヶ谷、日本嶽萬治、明治三十五年担ぐ、南泉上分有志同下分有志」と彫り込まれ、台石には「日本嶽萬治の盤持石、笹ヶ谷二番邸和田貞右門長男萬治、明治三十五年二十三歳の時かつぐ、重量一八四. 五キログラム(約五十貫)」とある。

このことを当時の新聞(明治34年12月25日)は、「土佐郡嶺北森村の笹ヶ谷日本竹(22)といふは、去る13日、同村土居にあれる目方四十五六貫の大石を何の苦もなく担ぎあげ、見るもの皆舌を巻きたりという」と言っている。

この力石は、以前は南泉の古野の道ばたに置かれていたが、土佐町役場に持ち込み、永久保存の措置をとったものである。

町史

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私の一冊

鳥山百合子

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この本には日本を代表する詩人の方々のうたが収められているのですが、そのうちのひとつ、谷川俊太郎さんの「生きる」という詩がとても好きです。

私が初めてこの詩に出会ったのは、確か小学校6年生のときでした。ページの上に並んだ日本語の奥向こうに、どこまでも澄んだ空が続くような清々しさを感じたことを覚えています。(そのときは何と表現したらよいかわからなかったのですが、今思えば、こういう気持ちでした。)

知っている方も多いと思うのですが、ここに紹介します。

 

生きる  谷川俊太郎

生きているということ
今生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

 

それから過ごした何十年という時間のなかで、ふと、このページを開くときが何度かあり、そのたびに私は6年生のときに感じた気持ちを思い出していました。これまでの道のりにあったのは清々しさだけではありませんでした。でもそれでも、今、自分は生きている。生きていることはやっぱり素晴らしいことなのだ、という実感をこの詩は与えてくれます。

 

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メディアとお手紙

お便りの紹介 

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「とさちょうものがたり」が始まってから、お手紙やはがき、メールなど、編集部へたくさんのお便りをいただいています。今まで届いたお便りはすべて大切に読ませていただいています。なかには文通のようにはがきでのやりとりが続いている方も。心を寄せてくださっている方がいるということは、私たち編集部にとって大きな励みとなっています。

 

【東京都 神山義三さんより】

「とさちょうものがたり」お送りいただき有難うございました。

このような企画、発行をなされる町の姿勢に驚嘆しました。そして、それに答える窪内様の名文、石川様の撮影の目のつけどころ、さらに鳥山様の謙虚で、しかも核心をついている一文、まことにお見事でございます。

私共の退職した元教員グループの年二回の会合の折に差しあげようと思い、六部注文したのですが、コロナ蔓延の時世、開催の延期が続いて、未だ配布できずにいます。いずれの日にか、会員の皆様が歓声をあげる折を夢みて、電話をかけては手にしたい気持ちを高ぶらせているところです。

亡き妻の入院中、枕許で三〜四節は読んであげました。あとは重篤の状態になり、完読はできなくなりました。仏前に飾るように供えました。妻はきっと喜んでいるものと思っています。

私共と窪内様との出会いを窺える新聞コピーを勝手ながら送らせていただきます。窪内様のご温情で、以来20年、折々電話や文通でのご交誼を賜っております。

私共のお会いした四国の方々は、何故こんなに御心が温かいのかと、在りし日に語り合ったこともあります。

 

 

今年の夏、いくつかの新聞記事のコピーとお手紙が送られてきました。

差出人は神山義三さん。「『とさちょうものがたりZINE04』を、著者である窪内隆起さんから送ってもらった。友人たちにも手渡したいから購入したい」と、以前編集部にお電話をくださった方でした。

お話を聞くと、今は亡き奥様が入院中、義三さんは枕元で「山峡のおぼろ」を一話ずつ読んであげていたとのこと。

「『今日はここまで。また明日ここから読もうね』と毎日楽しみに少しずつ読み進めていたんです。でも、全部読み終わる前に亡くなってしまいました」。

電話口で奥様のことを語る神山さんの口調は穏やかで優しく、奥様のことを慈しみ続ける姿に胸が震えるような思いでした。そして、こんなにも「とさちょうものがたりZINE」を大切にしてくれている方がいることへ、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

亡くなった奥様、神山育子さんは小学校の先生で、司馬さんの「21世紀に生きる君たちへ」を日本で初めて授業で取り組んだ先生として、2000年に愛媛県で行われた「えひめ菜の花忌シンポジウム」に招かれました。その会場で同じくパネリストとして招かれていた窪内隆起さんと出会い、司馬文学を21世紀にどう受け継ぐかを議論をしたそうです。それがご縁で、義三さんと育子さん、窪内さんは手紙や電話でやり取りするようになったとのこと。

この20年後、とさちょうものがたりZINE04号ができ、窪内さんが神山さんにZINEを送ってくださったことからこのご縁が生まれました。同封してくださったシンポジウムの新聞記事を読みながら、その不思議さを思います。

折に触れて神山さんはお電話をくださいます。現在86歳とのこと。人生の大先輩が送ってくださったエール、大切にしていきます。

 

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私の一冊

川村房子

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「さよなら、ビー玉父さん」 阿月まひる 角川文庫

今年4度目の宝塚。孫の夏休みのフォローで10日間。今回も嫁さんの本棚から借りました。

奥田狐(コン)の安アパートに、離婚で別れた息子の遊が訪ねてきた。妻と離婚した時、テレビ、ネット、携帯すべての娯楽品と縁を切って、大阪から奈良に引っ越したのだった。

2年後、8歳になった遊が1人で、電車を乗り継ぎ、たずねてきた。自分しか愛せない、とことんダメな父と、その父親を好きで子どもでいることを諦めきれない健気な息子。

他にも味のある登場人物の中で、親子のきずなを深めていく。

ダメ親父にこんな思いがあるのかと思わされたり、「あーあ」と落胆したりですが、どこまでもいい子の遊に心あたたまります。

 

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笹のいえ

アウトドアキッチン

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夏、蒸し暑い家の中でかまどに火を入れ調理するのはやっぱり暑くてしんどい(それでも毎日料理してくれる奥さん、ありがとう)。先日大量に手に入れた木炭があるし、最近は外に七輪を置いてうちわでパタパタと火を起こし、煮炊きしてる。アウトドアキッチンと言うと聞こえはいいけど、実際は野外調理場と呼んだ方がイメージに合う。外だから煙は気にならないし、こぼしても掃除の手間がないところがいい。

炭は薪に比べて、長い時間火力が一定で、熾になると煙はほどんど出ない。七輪を二台使うときは、炭の量を調整して、それぞれの料理に適した火加減にする。残った熾は炭壺に入れて、次回使う。炭の良さはなんといっても、遠赤外線効果。焼き魚などするときは、中まで火が入り、ふっくらとして美味しい。

ただ、羽釜でご飯を炊くときなど、高温が必要な調理には、かまどの方が合ってる。

七輪とかまど、使い分けができるだけで料理の幅が広がる。

 

太陽が山に沈むころ、炭を熾しはじめる。日が隠れると気温が下がり、途端に秋の気配が強くなる。

パチパチの木炭が爆ぜる音に混じって、虫の声が聞こえてくる。秋の虫の鳴き声がだいぶ優勢になってきたことに気づく。そよと吹く風が肌に心地いい。ビールをコップに注いで一口飲む。ああもうビールは少し冷たすぎるなあ、お湯割りがおいしい季節になってきたなあ、なんて思いながら、暮れゆく一日に力が抜ける。

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私の一冊

矢野ゆかり

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「風の谷のナウシカ」 宮崎駿 徳間書店

随分とごお無沙汰しておりました。

5月ぶりの登場のゆかりでございますよ。あいすみませんね。

学校図書館の支援員をしていると、慣れないことばかりで言語野がオーバーヒートを起こしてしまうのです。謎の偏頭痛やら、耳鳴りに耳痛に親知らずは生えるし、最近な謎のさしこみもあるし。

まぁ白々しい言い訳はさておき、我が矢野一族の華麗なる近状もご報告しなければなりませんね。

弟は真面目に苦学生やっているので割愛。妹は自由気ままに奔放にやっていいるので割愛。

認知症の祖母は、ロジカルモンスターSOHU(祖父)と、毎朝なぜかバトルをしています。

どうやらお米をどれぐらい炊くべきかの論争らしいのですが、2人とも耳が遠いので自然と話す声が大きくなり、毎朝大喧嘩をしてるように聞こえます。

そして眠りが浅く不眠症の私が驚いて、目覚めてしまい、朝から精神安定剤を飲まなければならないのは、勘弁して欲しいところです。

この米騒動は常態化しているので、矢野家の懸案事項の1つです。しかし祖母はデイサービスに行く時に「行ってらっしゃい~」と声をかけると「はーい!!いってきまーす」と子供のように無邪気な笑顔で手を振るので、ま、いっか(笑)と思えてしまいます。

母の痩身ぶりは相変わらずで、アブラゼミ(メス)が脇腹に留まって休憩していました。多分ゴツゴツした肋骨と木の枝のような腕が、彼女にとって安心出来る場所だったのでしょう。みんみん。

父は相変わらず、笑点の山田くんが持って行く座布団が無くなるぐらい、寒いおやじギャグをカマしていますが、たまに場外ホームラン打つようになりました。妙なツボにはいって、私が泣いて嘔吐くほど笑うので、本人が一番困惑しています。

ちなみに笑いすぎて、何が面白かったのか忘れてしまうので、ここに書けないことが残念です。ちなみに、台風10号が9/69/7にかけて通過していきましたが、その中で生まれたオヤジギャグは'うちの田んぼに、飛んできた椅子が居座っちゅう'でした。

ちなみに持ち主が分かるのが田舎ならではですね。土佐町に来たのが、しょーもないギャグで終わる、台風10号でよかった。停電や農家さんやら沢山被害はあるけれど、人死が出るようなことがなくてよかったことでした。

さて前座は終わりまして(スパッと)

本文へと参りましょう。

この作品の中で、ナウシカがたびたび言われている言葉があります。言い手によってニュアンスは違いますが「男だったら」というのは一緒。

ナウシカは男であったならと常に言われているのです。父王や4p16のように。しかし実際はナウシカ自身は一騎当千とも言われる猛者中の猛者。何故そこに性別が絡んでくるのでしょうか。

生理や出産といった事が理由の一つではあると思いますが、この世界で女性が権力を持つことはほぼ無いようです。

風の谷の大ババ様は少し例外的だとは思いますが、敬意を表されてもそこに権威や権力は存在していないという点で、女性が権力を持つという発想が異質であるということです。

だからこそ族長をナウシカに任せる選択をしたジルの判断は、苦痛と不安を伴ったでしょう。実際に武力と権力を持っていたクシャナは、あらゆる手を使って奪われてしまいます。

ただクシャナは男であったならと言われているシーンがありません。散々「賢い女は嫌いだ」言われていますし、白き魔女と誉れとも侮辱とも取れる異名ならありますが。

どちらにせよ、女性が権力を持つことの無いこの世界で、世界を動かす中心にいるのがナウシカ、そしてクシャナ、後述する子供のチチクなのは、かなり異質であり著者の心の深淵を覗いたようでゾッとします。

さて、この4巻では、あの冷静沈着な白い魔女クシャナが、仇を前にしてとうとう我を失ってしまいます。

この兄皇子の意地の悪いことと言ったら、まさに虫唾が走るとはこのこと。間一髪、クロトワが機転を利かして難を逃れますが、蟲の大軍の中に完全に孤立。

兄皇子は重コルベットで逃げ出しますが蟲の大軍に撃墜されます。この瞬間、クシャナは白い魔女らしさと言うべき氷のヴェールが剥がれ落ち呆然と立ち尽くします。

普段なら、この危急時には部下と自分がどう生き残るかを、走りながら最優先で考えているでしょう。それほどまでに、兄皇子に対する憎しみと怒りは強かったのか、というのが私の正直な感想です。

私はどこか、クシャナに対して温かい人間味を感じないようにしていたのかも知れません。ですからその後の場面で、クシャナが指示を出さないばかりに部下が死ぬシーンを見て、私自身の足元がふらつくような不安感を覚えました。

しかし、恐らく、彼女が感じているのも、自分を構成する一大部分が、不意に削げ落ちてしまった不安定さなのではないかと思います。

クシャナは数名の部下達と塹壕で、じっと動かず蟲の大軍を凌ぎます。彼女は、毒に侵され娘た人形の区別もつかなくなった母を、最後に見舞った時を思い出しています。ここに大きなウシアブがやってきます。

クシャナはお前が私の死か……~中略~あいつたちを殺せるならこの生命など惜しくもないとおもいつづけて生きていたものを……”と半ば諦めたように兄皇子を始末した蟲に対して愚痴を吐きます。

しかし、ウシアブは一瞥したのみで、行ってしまいました。彼女は自然と子守り唄を口ずさんでいました。私は胸がつかえてこのシーンは本当に苦しいです。

クシャナは、クシャナ自身が王都攻略、打倒父王とは掲げていても、それより最優先すべき事項が兄皇子達への復讐だったのでは無いでしょうか。

土鬼侵略諸々、トルメキア王都攻略はついで。ただ本当は、部下達には自分の復讐や自分への謀略のせいで、一兵たりとも死んで欲しくはない。今まで謀略によって失った部下達の扱いを見ても、それは痛いほど分かります。

ですから実際に、仇の1人が目の前でいとも簡単に死んだ事は、クシャナがクシャナ足るべき一部を失ったと言っても過言ではないでしょう。足るべきものが無くなれば、何かを足さなければ立ち直れません。それを足していく、それを考えていく時間。それがこのカボ基地での、大量の戦死者、虫の死骸、発芽する腐海の植物たち、生き残りの部下達との時間なのだと思います。

一方でナウシカは南下の旅を続け、古来の信仰を神殿でチチクと出会い、託されます。ここからの話は一気に進んでいきます。

変異させたの腐海の植物と突然変異の粘菌が暴走したところを、土鬼の僧正であるチヤルカと共に何とか収めます。突然変異した粘菌の増殖力と知能は凄まじく、確実に土鬼の土地を食らってゆきました。皇弟に忠実なチヤルカは葛藤しつつも、ナウシカの真摯さと持ち前の忠国心で墓所に戻らず、土鬼の民を救う道を選ぶ事になります。

5巻に続きます。5巻の中程まで自体はあまり進展しません。城オジ達とユパ、アスベル、ケチャが、カボ基地で偶然クシャナ達と合流します。

そして、この合流までの時間は、クシャナをクシャナたらしめることが出来たようです。そしてクシャナとユパが同じ船に乗ったことが、今後に大きく繋がっていきます。

一方ナウシカはチチクと共に、突然変異体の粘菌を追っていました。粘菌は5体。防衛本能に従って1つの場所に集まり、一斉に胞子を飛ばして勢力を拡大するつもりです。

蟲が狙っているのもこの粘菌たちです。古より伝わる大海嘯は、今回この粘菌たちのために起こると確信したナウシカはここで共に最期を迎える覚悟をしたのでした。

さて、今回はここらへんで!

次回はもう少し早く続きが出せそうな気がします。(ホントかな~(笑))

5巻から6巻辺りを書けたらいいかなと思います。

最後に、末文になりますがお許しください。

未だ収束せず混乱を招いているCOVID-19ですが、医療従事者の方々、保健所の方々、教育現場の方々、各種接客業の方々、老人福祉施設の方々、コロナという戦場の前線に立たれている皆様に心からの敬意と、感謝を。いま苦しい立場にいる人々にエールを。

そして、今年の豪雨や今回の台風10号で亡くなられた方にご冥福を、被災された方々にはエールを送らせてください。

それでは、また。

 

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お母さんの台所

アメゴ寿司 2日目

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2020年9月2日現在、とさちょうものがたりのネットショップで販売している「アメゴ」

前回紹介した「アメゴ寿司  1日目」に続き、今日は続編である「アメゴ寿司  2日目」を紹介します。作り方を教えてくれたのは、土佐町地蔵寺地区にある長野商店店主・長野静代さんです。

2日目は、一晩塩漬けしたアメゴを酢に漬けるところから始まります。

 

 

 

 

アメゴに寿司飯を詰めるところです。静代さんの華麗な手さばきをご覧ください。

私にとっての土佐町のお母さんであり、師匠でもある静代さん。お店を訪ねると、いつもおかずやお弁当、注文の品々を作っていて、休んでいる姿を見たことがありません。疲れたりしんどい時だってあると思いますが、お店の戸を開けて「こんにちは〜」と訪ねると、いつだって台所の奥から「はい〜」と応えながら、笑顔で「元気かよ?」と出迎えてくれるのです。今まで私は、静代さんのその姿に、いったいどれだけの力をもらってきたでしょう。

 

静代さんの手から生まれる美味しいものの数々は、静代さん自身が培ってきた知恵であり、生きるための術であり、そして、この町の文化でもあると思います。

 

 

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私の一冊

西野内小代

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鬼滅の刃  しあわせの花」 吾峠呼世晴, 矢島綾 集英社

関東の孫(小学生の女の子)二人が夢中になっている「鬼滅の刃」というアニメの小説版が出版されたという情報を遅ればせながらキャッチ。共通の話題作りになればと思い読んでみる事にしました。

鬼退治の勇ましい内容を想像していたのですが…。あにはからんや、時代は大正、内容は成長していく10代の少年少女の青春ストーリー。

孫達も共感を持った事だろうと納得し、彼女たちが描いた「鬼滅の刃」の絵(お嫁さんがラインで送ってくれた作品)を再度じっくりと眺めたばぁばです。

 

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私の一冊

古川佳代子

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「クラバート」 オトフリート・プロイスラー 作, 中村浩三 訳 偕成社

ドイツのスラブ系少数民族ヴェンド人に伝わる〈クラバート伝説〉を下敷きにした本書は、メアリー・ポピンズや指輪物語、ハリー・ポッター等の英語圏のファンタジーとはずいぶん雰囲気の違う物語です。

主人公のクラバートをはじめ登場人物一人ひとりを個性豊かに描き、復活祭やクリスマスなどを物語に巧みに取り入れた緩急ある構成で最後までぐいぐいと読ませます。

そして軍国主義への小気味よい一撃などもさりげなくはさみ、より密度のある物語となっています。 そして、親方の権力からクラバートを解放するべく「ソロの娘」と親方との命を賭した緊迫の駆け引きの巧いこと!

代表作のホッツェンプロッツの底抜けの楽しさとは全く違う、重厚で神秘的な骨太な世界をお楽しみください。

 

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