2021年9月

笹のいえ

コンポスト

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笹に引っ越してきたときから、コンポストを自作して使ってる。コンポスト、とカタカナで言うとなんだかお洒落なイメージだが、要するに堆肥場のことだ(余計わかりにくいかな)。暮らしで出た有機物を一か所に集めて、微生物や昆虫などに分解してもらうことで、自然に還す。その土を利用して野菜を栽培し、収穫し、食べる。自分たちが排泄したものもコンポストに入れて土に戻し、それがまた野菜を育てる栄養の一部になる。

うちでは刈った草や生ゴミ、排泄物などを積んでいる。数ヶ月に一回天地返しすると一年くらいで土に還る。分解しきった堆肥は土そのもので、嫌な臭いもしない。こんな小さな循環を身近で体験することで、自分が口にするものに興味を持ったり、環境負荷についても考えるようになった。

初代コンポストは、割いた竹で囲いをしただけの簡易なもの。これはこれで十分仕事をしたが、屋根が無いため土に含まれる養分が雨で流れてしまい、もったいないと思っていた。数年が経ち、側の竹が脆くなってきたため、新しく作ることにした。

ネットで見つけたこの重箱型コンポストを、うちにある端材で作る。

幅20〜25cmくらいの板をビスで留めて、底のない箱をいくつか組み立てるだけ。中身がいっぱいになったら箱を重ねていく。たまに適量の水や米ぬかを入れて発酵を促す。

使いはじめて三ヶ月ほど経った先日、天地返しをすることにした。

トタンで屋根をしていたので水分が足りず、かたい草や野菜の残渣などは思ったより分解が進んでいなかったが、地面に接していた部分は土になっていた。今後、水分量など調整して使い込んでいけば、良い堆肥が作れそうだ。

生ゴミや自分たちの排泄物を処理できるのは、ゴミの削減に大きく貢献してくれるが、問題もある。未発酵の時は臭いがすることと、ミズアブやハエなどの虫が発生してしまうこと。だが、住まいから離した場所に設置すればさほど気にならないし、生き物たちが渡貫家の循環に一役買って出てくれていると思えば嫌いになるどころか感謝しかない。

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みんなのアルバム

野中祭の1日

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この写真は、土佐町の森地区に住む上田英一さんのアルバムの一枚です。
英一さんは現在92歳。10年ほど前まで、森地区で上田百貨店という商店を営んでいました。

 

森地区では、毎年「野中祭」と呼ばれるお祭りが開かれます。森地区の人たちが集まっての踊りや屋台、花火…。夏の楽しみのひとつです。今は夜のみですが、昔は昼間から踊り子さんが集まって地区内の道を踊りながら進み、お祭りの会場まで向かったそうです。賑やかな音楽や歓声が聞こえてくるようです。

 

当時は土の道。道の両脇には豆腐屋、食堂、貸本屋、銭湯、床屋、駄菓子屋、雑貨屋などたくさんの商店が並び、人々が行き交ってとても賑やかだったそうです。昔の様子を知る人は「今は店がなくなって本当に静かになってしまった」と話していました。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「干す」 西村豊 光村推古書院

日本各地に残る「干す」風景の写真集です。

大根、柿、小豆、くるみなど、食べ物を干す風景はもちろん、びっくりしたのは富士山山頂の山小屋の布団を「干す」風景。「干す」をテーマにしているから当然なのですが、そうきたか!と意表をつかれました。日本一高い場所で干されている布団たちの気持ちよさそうなこと。一回でいいから、ここに寝っ転がって空を眺めてみたいです。

他にも長野県大鹿村で作っている「山塩」を干す風景も。長野県は海がない県なのに塩が取れるのでしょうか?山の地下水が塩水で、それを煮詰めて作るのだそうです。真っ白な塩から立ち昇る湯気の向こうには、山塩を作るお父さんの姿が。ここにその人がいて、この風景があると思うだけで大鹿村へ行ってみたくなります。

私も何か干してみたくなりました。とりあえず布団と、塩漬けしたままになっている梅干しを干してみようかと思います。次の休みが、良い天気でありますように!

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花に注目!

青色の花弁2枚は大きく、残り1枚は白くて小さい。ツユクサは、この形がミッキーマウスに似ていると言われます。

 

 

こちらは「シロバナツユクサ」

 白花のツユクサにはなかなか出合えない!

その稀なシロバナツユクサを畑の畦で見つけました。濃い青色、薄い青色に雑じって咲いていたのです。ツユクサの変種に分類されており、花色の白は遺伝的に固定しているので来年もまたその姿が見られるかも知れません。

 

名前の由来!

朝露を帯びながら咲く様子や、昼には萎む一日花で、朝露のように儚い様子から名付けられたと言われています。

 

美しい別名!

別名は、一説に185もあると言われるほど多いとか。万葉集には月草(つきくさ)で9首に登場するそうです。俳諧では蛍草(ほたるぐさ)。なんと美しい名前でしょう。因みに私の好きな作家葉室麟の時代小説のタイトルにも蛍草というのがあります。

 

畑の強害雑草!

繁殖力が強く、次々に花芽をつけて咲いていきます。根を除去しても地中に種を残してまた生えてくるし、除草剤が効きづらい雑草としても有名です。

 

 

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私の一冊

川村房子

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「わたしは繊細さん」 武田由紀 飛鳥新社

表紙に「まんがでわかる!」(漫画,竹嶌波)と書かれているとおり、漫画なのでとても読みやすい。

この本を読んではじめてHSP(敏感すぎる人の意で、作者は繊細さんと名づけている)といわれる人がいる、5人に1人はいて、専門カウンセラーがいることも知りました。

上司の機嫌が悪いと自分に関係なくても緊張してしまう。電話の音や、すれ違う人の柔軟剤の匂いまで気にかかる。まじめすぎたり、気にしすぎたりするというのではなく、繊細さんといわれる人がいるのです。

繊細さんにとって大切なことは、自分らしく自分のままで元気に生きる。本音と感性を大切にする。自分にあう環境を選ぶ、と書かれています。

気を付けなければいけないことにも気付けなかったりするがさつな私ですが、それでも心にとめておきたいと思います。

 

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さめうらを記す

川村長康さんの場合

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柿ノ木「新宅」

 

早明浦ダムから南岸を上流へ向かう県道17号からは木々に隠れて見えることのない北岸の道。生い茂った木々が迫り出し、一車線分のみとなった狭い道を早明浦ダムの堤体から15分ほど車で走ると、急に道幅は広がり綺麗に剪定された木々と美しい花々が迎え入れてくれます。

 

早明浦ダム建設により全戸が立ち退きした柿ノ木集落12戸の中で最も高い位置にあった「新宅」という屋号を持つ家は、家屋を失った今も畑では野菜や草花が育てられています。土佐町の中心地である田井地区に住む川村長康さんは、今も生まれ故郷である「新宅」へ通い、畑や沿道に立ち並ぶ木々の管理をしています。

 

 

昭和19年生まれの長康さん。子どもの頃の遊びと言えば、ビー玉やめんこだったそうですが、近所に住むお兄さんが強者で勝負に負けては取られることも多かったとのこと。山に行ったら「こぶて」という罠で鳥を捕まえたり、川に行ったら魚を突いたり。それらも先輩の許可がないと出来なかったりと、最近はあまり聞くことのないガキ大将的な存在を感じさせるエピソードが面白く感じられました。

 

 

新宅の畑と山

 

そんな長康さんのお父さんは召集兵として中国へ2度出兵しながらも無事に生還し、百姓をされていました。主な農作物はコンニャクや製紙の材料となる楮(コウゾ)で、楮畑の中に植えられたコンニャクの出荷量は最大で年間800貫(3,000kg)にも及んだそうです。この辺りで作られたコンニャクは当時「大渕コンニャク」と呼ばれ、高値で取引されたとのことです。

 

その他にも大根、白菜、かぶ、茄子、体菜、山東白菜、ほうれん草、ごぼう、ねぎ、かぼちゃ、きゅうりなど数多くの野菜を作っており、野菜を買うことなどはなかったそうです。逆に当時は肉食があまり盛んではなく、肉と言えばクジラ肉。「年の暮れの夜に大きいものを食べる」という風習で食べたりすることはありました。

 

林業に関しては、今のように道が整備されていなかった頃、山から切り出した材木を川まで下ろし、筏を組んで流していたのだとか。網場(あば)と呼ばれる場所でワイヤーを張って木材の流出を止め、そこから再度筏を組み、船頭が乗って岩に乗り上げないよう筏をコントロール。早明浦ダム堤体下の辺りに当時は水田製材、岡村林産という製材所があり、ウインチで引き上げた材木を製材していたそうです。田んぼに入れる堆肥や採草地から刈り取った干し草を小舟で田井地区まで運ぶこともあったとのことです。

 

 

早明浦ダム建設を受けて

 

「新宅」の家は昭和27年に父と祖父が共に自分たちの山から切り出した木を手作業で製材し建てました。早明浦ダム本体着工の翌年(昭和43年秋)、立ち退きに伴い家は解体。解体した家は架線で川沿いの道まで下ろしたのち、移築先の田井地区まで車で運んだそうです。他の家はすでに立ち退きを済ませており、「新宅」が一番最後まで残った家になりました。最後の材を運ぶ際にはダムの基礎を受けるコンクリートを打設しており、その横を抜ける道が流されてしまったため、急遽盛り土をしてもらいなんとか通ったとのことです。

 

柿ノ木部落12戸のうち「新宅」を除く11戸は水没地域として補償された中で、「新宅」は住居自体が水没しないものの、生活に必要な道や施設等の水没による準水没地区として補償されました。それでも、長康さんの家族は補償金で豪遊したりするようなことはなく、少しの山を購入したものの、それも現在は木材価格が下がり、当時は想像も出来なかったそうです。

 

ダム水没により補償金を得られた一方で、柿ノ木部落のコミュニティは失われました。それぞれが新天地を生活の場とし、柿ノ木の元住人同士が集まることなどもなく、道ですれ違っても挨拶を交わす程度の関係になったそうです。

 

 

「新宅」に還る

 

長康さんも田井地区へ移り、桂月で営業職を10年務めたのち、嶺北消防に勤務。その後退職してからは「新宅」の畑を楽しむための場所として生活しています。周辺に杉や檜の植林などをしていましたが、木だけでは暗いので花を植えたりするようになりました。

 

そのキッカケはNHKで放送された「秩父山中 花のあとさき」というドキュメンタリー番組。この番組の中で小林ムツさんという方は、山間の集落で「花を咲かせてふるさとを山に還したい」と毎日、荒れ果てた畑に花を植え続ける活動をしており、その話に感銘を受けた長康さん夫婦は花の苗を植えたり接ぎ木をするようになりました。そして今、長康さん夫婦の畑は春と秋に花を咲かせる二期桜、ヤマツツジ、孔雀椿、シャクヤク、ムクゲ、ロウバイ、リキュウバイ、ヒトツバタゴ、レンギョ等々、多種多様の花々が美しく彩っています。

 

今回お話を伺いに行った際には葉書きの由来となる多羅葉(タラヨウ)という植物の葉っぱを見せていただきました。葉の裏に傷をつけると黒く変色し、まるで字を書いたように変色します。デジタル化の進んだ今では、なかなか書くことも少なくなった葉書き。昔は恋心を打ち明けられない時に恋文をしたためるために使われたとか・・・素敵なエピソードを教えて下さいました。

 

 

町中から離れ、人目に付かない山の中に色とりどりの花を咲かせる長康さん夫婦の畑。野菜を育て、花を育て、立木の剪定をし、雑草を刈ったりと、長康さん夫婦の愛情がたっぷりと詰まっていることが一目で分かります。その景色を目にした瞬間、どこか温かい気持ちにさせてくれる不思議な感覚を僕は一人でも多くの方に感じていただきたいと思います。

 
 

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私の一冊

山門由佳

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「包  日本の伝統パッケージ、その原点とデザイン」 岡秀行 コンセント

毎日毎日、プラスチックの包装を捨てるのが煩わしい。 あれもこれもどれも、プラスチックに包まれている。

言うなれば、わたしの焼いた煎餅もプラスチックに包まれている。 プラスチックでなければものの見事にすぐ湿気てしまう運命にある煎餅と、プラスチックの切っても切れない関係に悩ましさがある。

プラスチックの優れた点、恩恵にあやかりながらもやっぱり昔の自然素材を使ったこの包み方には憧れが抑えきれない。 木、竹、笹、藁、土、紙。 彼ら【包む】メンバーの見事な仕事ぶり。 仕上がったその姿も堂々たるもの。

いいなぁ〜いいなぁ〜
煎餅もなんとかならんもんなのか。

ひとまず、笹でおにぎりを包むことからはじめてみようか。

笹探しスタート!

 

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くだらな土佐弁辞典

てんごのかあ

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てんごのかあ

【名詞】余計なこと。色々なことに興味があって、何にでも手をだす人

 

 

例:お前の母ちゃん、てんごのかあ

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私の一冊

西野内小代

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「マスカレード・ナイト」 東野圭吾 集英社

土佐町から映画館は遠い!それならば、いち早く原作を読みましょう、と思い立ち「マスカレード・ナイト」を入手。

ネタバレになるのは避けたいのでストーリーなどを仄めかすことは致しません。

小気味良くストーリーが展開、際立つ人物像、私にとっては キムタク と 長澤まさみ が本の中から飛び出して、私一人を観客に演じているかのよう!

しばし日常を忘れて、東京の一流ホテルに滞在しました。

 

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山峡のおぼろ

ドジョウ

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山村の変りようが激しい。人が居らぬ家は家囲いの杉垣が伸び放題で、家をすっぽり包み隠している。柿や柚子は木で熟れ朽ちていて、その実の色が何とも物悲しい。

田も畑も、雑草はもちろん、雑木が生い茂って、今は林である。米や野菜を作っていた田畑で、イタドリを採るようになっている。

元は田んぼであった雑木地でイタドリを採りながら、不意にドジョウのことが思い浮かんできた。子供の頃、稲を植える前のこの田で、ドジョウをとったのである。とるというより、掘り出したというのが正しい。

田植えに備えて水を溜めた田の泥の中に、ドジョウが居たのである。それも川から遥かに上った山田である。

稲が生長すると田の水を落とす。そして稲刈りを迎え、そのあとは全く水がなく、土が固まっている。そんな中でどう生き延びたか知らないが、翌年田植え時に水を溜めると、土が軟かくなった泥の中に、ドジョウが姿を現わすのである。

当時の山村の子の遊びの主なものは、渓流の魚釣りと、山での小鳥とりであった。それに田でのドジョウとりも加わっていた。田植え前の土が軟かい時は、ドジョウもよくとった。

これは釣るのではなく、手で掴まえるのである。

ドジョウは泥の中に隠れている。ところがその居場所は、すぐ判る。泥の表面に空気孔とでもいえる小さな穴をあけていて、その下に居るのである。

穴を見つけると、その両脇に両手を突っ込み、一気に泥を掘り起こす。そして、隠れ場所から掘り出されたドジョウが、身体をくねらせてピンピン跳ね回るのを掴まえる。1時間に20や30は掴まえた。

泥の中に居たので、3,4日から1週間ほど、真水に入れて泥を吐かせた。

祖母がよくドジョウ鍋にしたが、結構な味だったという記憶がある。魚が極端に不足していた戦時下の山村だけに、余計にそう感じたのかもしれない。

煮るだけではなく、アメゴやイダなどから思いついて、炭火で塩焼きにもしてみた。よく焼くと、頭から骨まで食べることが出来、新しい調理法を思いついたと、嬉しくなったことであった。

そのドジョウも戦後しばらくして、農薬が普及してくると、1,2年ほどで姿を消した。

イモリも居なくなった。田に水を引き込む溝などによく居たが、背が黒く腹が赤くて、余り気持のいいものではなかった。

ドジョウを掘り出した田にはいま、雑草や背丈より高い雑木が茂っている。全く様変りした田だが、その底には、さまざまの思い出が埋まっている。

掴んだドジョウの跳ねた感触は、まだ掌にある。

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