「かーさん、おみやげ!」
保育園にお迎えに行ったら手渡された一枚の葉っぱ。
お庭で見つけたとのこと。
落ちているのを見つけて手にとって、じっと眺めたのだろう。
その姿が目に浮かぶ。
この葉を「おみやげにしよう」と思った娘を、とてもいいなと思う。
春、夏、秋、冬。この町のめぐりめぐってゆく季節が娘の感性を育ててくれている。
著者名
記事タイトル
掲載開始日
「栗いるかね?」
近所のおばあちゃんが栗をくれた。
エプロンのポケットから、これも、これも、と5個ほど手のひらにのせてくれた。
もうそれだけで、手のひらからこぼれそうなほど大きな栗だった。
栗はほんのりと温かかった。
「茹でてあるんですか?」と聞くと
「茹ででないのよ。お天道さまのぬくさよ。」
じん、とした。
帰り道、お天道さまは山の向こうへ沈み、もう夜を迎えつつあった。
ふと空を見上げると、銀色をしたお月さまが静かに光っている。
まるでひとつのおはなしの中にいるみたい。
栗、お天道さま、月、おばあちゃん。
この地で暮らす人たち、いつもそばにあるものたちが、毎日をちょっと特別な日にしてくれている。
伊勢川から溜井へ通じる林道を登りつめたあたりに谷川があって、その少し上の小高く深い茂みの中に、厳島神社がありその前に田が広がっています。
そこは、昔はずっと池じゃったと言います。
いつのころか知らんが松の木を伐って投げ込んでは土を入れて田にしたそうです。
その昔の池にゃ龍神さんが棲んでおいでると言われていました。
そこの近くに杉囲いの家があったそうです。いつのころか、その家の囲いの杉に蛇がやってきて巣をこしらえたそうな。
子をかえしたら困ったことじゃと言いながら、何日かたって、いよいよ明日は除けようと言うことになった晩のこと、もう一日だけ待ってくれえ言うて、夢の中に蛇が出てきて頼んだそうな。
それを聞かずに、明くる日に囲いの木に火をつけて焼き殺してしもうたと言います。
それから、その家は他所に移っていってしもうたが、その人はあついきに水をかけてくれ、水をかけてくれ言うて死んでいったそうな。
えらい熱病じゃったもんじゃが、あの焼き殺した蛇が、厳島の龍神さんじゃって、そんでその人は焼き殺されるように死んでしもうたと言います。
町史(「土佐町の民話」より)
上津川に独鈷山(とうこうさん)言うて土を盛ったような山があるが、その下は深い釜(渕)になっていて、そこに蛇がおったと言うのう。
蛇渕言うて誰も泳がんとこでした。
昔、その渕の近くに家が一軒あって、屋号をコウナロと言いよった。
この川の奥にも、も一つ蛇渕言うところがあるんじゃが、大昔のこと、このコウナロへ「上にはもうおれんのでここへ泊めてくれえ。」言うて人が来たので泊めちゃったそうな。
そして、「寝姿は見んようにしてくれえ。」言うたそうな。
ところが昔はマイラ言うて板戸の障子じゃったもんじゃきに、その板戸に小さな節穴があいちょったそうな。
そこから見たところが、電燈のない時のことで行燈(昔の照明具)をきりきりと三巻きも巻いて、蛇が寝よったそうな。
わしの寝姿見た言うて、帰りがけに蓋を開けんずつにお祭りしてくれえ、そしたら幸せにしちゃる言うて箱をくれたと。
どればあの大きさやったか、そりゃ知らんが、それをもろうてお祭りしよったけんど、まあ、何が入っちゅうろうと思うて開けて見たと、そうするとトカゲみたいなもんが這い出て来たと。
そんなことがあってすぐにアカダケ言う所が潰(つえ)て、畑も広かったんじゃが、川縁の畑も半分足らずになって流れてしもうた。
それからだんだんに幸せが悪うなって、今は家ものうなったわね。
蛇渕の山には弁天さんを祭って、昔は大川村からも雨乞いにお詣りに来よったもんよ。
町史(「土佐町の民話」より)
今から百六十年前のこと、東石原村(現在の東石原)に、郷士(名前は定かでない)がおったそうな。
郷士と言うのは、お百姓さんが武士の待遇を受けておったもので、戦いが始まると、くわやかまのかわりに刀を持って戦いに出よったそうな。
その郷士の治める領地の中に、それは大きくて見ごとな欅(けやき)の木があったと。
たぶん祠かお堂があって、そこに植えたものが大きくなったんじゃろう。
その欅の木には大きな穴があって、水がごうごう流れる音がしよったと。
村の人たちはあの穴の中には蛇が棲みよるらしいと言いよった。
ある年のこと、その欅を江戸の水野出羽守のところへ出すことになり、野村儀八と大館達次の二人が何日もかかって切りたおしたと。
まあ木は無事に江戸へとどきお役に立ったそうなが、後がおおごと。木を切った二人は、その日から大病にかかって苦しんだそうな。
また、そのころには村に名本(なもと)と言って、今の区長さんのような仕事をする人がおったが、その名本さんのところまでは五百メートルぐらいあるのに欅を切った時の木屑が、流れていって大さわぎをするし、木の切り株がごうごうと大きな音を出して鳴るんじゃと。
きっと、これはあの穴の中に棲む蛇のたたりじゃと言って村の人がいっぱい集まって、お通夜をしたり切った後をきよめて、いろいろのものを供えてお祭りをしたそうな。
すると、だんだんと鳴るのがおさまって、もとのとおりの株になったそうな。
皆山集より(町史「土佐町の民話」)
蛇の神様がいる、という。
早明浦ダム近くのさめうら荘の上の道をくねくね登って、行き着いたところを西へ少し行ったところ。
小さな神社があり、蛇の神様はそこにいるらしい。
その蛇の神様は「作物がよく実りますように」という願い事に加え、「おねしょしませんように」という願い事をかなえてくれるのだそうだ。
土佐町の人の中には、子どもの頃、おねしょが止まるようにお参りに行ったという人がたくさんいるという。
蛇の神様へのお供え物は生卵。カラスに卵を取られないように神社の扉には鍵がかかっていて、その扉は誰でも開けられる。ぎい、と扉を開くとそこに白色の蛇の神様がいるとのこと。
供えられた卵を定期的に片付けている人がいるらしいが、いつ行っても何十個と卵がお供えしてあるのだそうだ。おねしょで困っている人は、どうもたくさんいるらしい。
『三島神社の横のかけ道を登って、頂上にいる蛇の神様までどんどん歩きます。蛇の神様には生卵をお供えして「おねしょしませんように」「おしっこもれませんように」とみんなでお祈りしました』と保育園からのお手紙に書いてあった。
次の日、先生に話を聞いた。
「○○くんはね『どうかおねしょしませんように』って手を合わせてつぶやいててかわいかった〜。」
そして「私はね『どうか尿もれしませんように』ってお願いしてきた。」と大笑いしながら、なかなか切実なことを言う。
早明浦の蛇の神様、どうか先生の願いをかなえてやってください。
ずっと昔、黒丸での話よ。
ある晩のこと、きれいな娘さんが「この川には渕はいくつもあるけんど、どの渕も先客がおるので泊まる所がない。どうか泊めてくだされ」言うてやって来たと。
それじゃあと言うことで泊めてやることにしたが、寝る時に桶を貸してくれえ言うたと。
大きな桶もなかったので、楮(かじ)を蒸す桶でもかまん、誰もあけてくれな言うてそれをすっぽりかぶって寝たと。
夜中に、体が蛇にもどったもんよ。
桶がバリバリ言うて割れたそうな。朝になってみると、娘さんの姿は見えざったそうな。
そのことがあった後、すぐ隣の家から火が出たそうな。
昔のことじゃきに草葺きよね。近くの家はどんどん焼けてしもうたけんど、その家だけ焼け残ったと。
娘さんを泊めた時に、私の寝姿さえ見んかったら、どんな火事にも焼けんから言うて寝たそうなが、その御利益だったもんよ。
草葺ではなくなったけんど、その家は今もあらあね。
蛇の娘がどこから来て、どこへ行ったかは聞いちょりません。
町史(「土佐町の民話」より)
応仁の乱から百年余りが過ぎ、やっとのこと平和が訪れようとしておった。
その頃、南越村(みなごしむら・現在の北境)の名本(今の区長さんのような仕事をする人)藤大夫(ふじだゆう)の弟で和田孫三郎が須山に分家した。
それがこの地に人が住むようになった最初であった。
その下方には十二戸の百姓が住み、長い戦乱に生き残ったのは、蛇神様が守ってくれたおかげだと、住民は毎日酒や魚を供えておった。
杉の平から落ちて来る谷川に蛇渕があって、大きな蛇が棲んでおった。
渕は青々として底は知れず、周りはしめなわで囲まれ、色とりどりの花が飾られておった。
住民は幸せで、境村や和田村から多くの人に来てもろうて盛大に蛇神様祭りをしておった。
それは天録から宝永にかけてのことじゃった。
いつの間にやら蛇神様が南越村の蛇渕へ移っちょった。
「これは大変じゃ。どうやったら戻ってくれるろう。」とさわぎよった。
ちょうどその頃雨が降り始めた。雨は毎日降り続き、次第に滝のような雨になった。そして急に山が崩れて、十二戸はアッと言う間もなく八ヶ内川に押し流されて生き残った人はいなかった。
反対に、南越村は五戸しかなかったのに、方々から人が来て二十三戸になりにぎわった。
そして、それはそれは盛大な蛇神様祭りをしておった。
そんなことが百年余り続いたある年、「どうも近頃蛇神様が見えんようになったが、どう言うもんじゃろう。大夫さんに見てもらおう。」と言うことになり、毎日毎日笛や太鼓で蛇神様迎えの祭りをしたが、帰って来てはくれざった。
それから間もなく、大崩れがしたり、伝染病で家が絶えたりして、昔の五戸に戻ってしもうた。
それから久しいことたってから、蛇神様は汗見川へ移ったことが分かった。
そういうことは、地元の人は気付いてない風であったが、石ころだらけで人の住める所ではなかった沢ヶ内に人が来て住みだし、やがて店もでき大きい集落となったそうじゃ。
和田輝喜(「土佐町の民話」より)