今年の夏、相川コミュニティセンターのプールで見つけた蟹。
卵を持っています。
どこで産み落とすのかなー、なんてその時は思っていました。
38年間生きてきて、私は知らなかったのです。
蟹が卵をどうするのか。
みなさん、知ってます?
こうなります。
見えますか?
お腹に蟹の赤ちゃんがわんさか・・・。
これは、友達の子どもが川に遊びに行った時に見つけた蟹で、私が見つけた蟹とは別蟹です。
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伊勢川から溜井へ通じる林道を登りつめたあたりに谷川があって、その少し上の小高く深い茂みの中に、厳島神社がありその前に田が広がっています。
そこは、昔はずっと池じゃったと言います。
いつのころか知らんが松の木を伐って投げ込んでは土を入れて田にしたそうです。
その昔の池にゃ龍神さんが棲んでおいでると言われていました。
そこの近くに杉囲いの家があったそうです。いつのころか、その家の囲いの杉に蛇がやってきて巣をこしらえたそうな。
子をかえしたら困ったことじゃと言いながら、何日かたって、いよいよ明日は除けようと言うことになった晩のこと、もう一日だけ待ってくれえ言うて、夢の中に蛇が出てきて頼んだそうな。
それを聞かずに、明くる日に囲いの木に火をつけて焼き殺してしもうたと言います。
それから、その家は他所に移っていってしもうたが、その人はあついきに水をかけてくれ、水をかけてくれ言うて死んでいったそうな。
えらい熱病じゃったもんじゃが、あの焼き殺した蛇が、厳島の龍神さんじゃって、そんでその人は焼き殺されるように死んでしもうたと言います。
町史(「土佐町の民話」より)
上津川に独鈷山(とうこうさん)言うて土を盛ったような山があるが、その下は深い釜(渕)になっていて、そこに蛇がおったと言うのう。
蛇渕言うて誰も泳がんとこでした。
昔、その渕の近くに家が一軒あって、屋号をコウナロと言いよった。
この川の奥にも、も一つ蛇渕言うところがあるんじゃが、大昔のこと、このコウナロへ「上にはもうおれんのでここへ泊めてくれえ。」言うて人が来たので泊めちゃったそうな。
そして、「寝姿は見んようにしてくれえ。」言うたそうな。
ところが昔はマイラ言うて板戸の障子じゃったもんじゃきに、その板戸に小さな節穴があいちょったそうな。
そこから見たところが、電燈のない時のことで行燈(昔の照明具)をきりきりと三巻きも巻いて、蛇が寝よったそうな。
わしの寝姿見た言うて、帰りがけに蓋を開けんずつにお祭りしてくれえ、そしたら幸せにしちゃる言うて箱をくれたと。
どればあの大きさやったか、そりゃ知らんが、それをもろうてお祭りしよったけんど、まあ、何が入っちゅうろうと思うて開けて見たと、そうするとトカゲみたいなもんが這い出て来たと。
そんなことがあってすぐにアカダケ言う所が潰(つえ)て、畑も広かったんじゃが、川縁の畑も半分足らずになって流れてしもうた。
それからだんだんに幸せが悪うなって、今は家ものうなったわね。
蛇渕の山には弁天さんを祭って、昔は大川村からも雨乞いにお詣りに来よったもんよ。
町史(「土佐町の民話」より)
今から百六十年前のこと、東石原村(現在の東石原)に、郷士(名前は定かでない)がおったそうな。
郷士と言うのは、お百姓さんが武士の待遇を受けておったもので、戦いが始まると、くわやかまのかわりに刀を持って戦いに出よったそうな。
その郷士の治める領地の中に、それは大きくて見ごとな欅(けやき)の木があったと。
たぶん祠かお堂があって、そこに植えたものが大きくなったんじゃろう。
その欅の木には大きな穴があって、水がごうごう流れる音がしよったと。
村の人たちはあの穴の中には蛇が棲みよるらしいと言いよった。
ある年のこと、その欅を江戸の水野出羽守のところへ出すことになり、野村儀八と大館達次の二人が何日もかかって切りたおしたと。
まあ木は無事に江戸へとどきお役に立ったそうなが、後がおおごと。木を切った二人は、その日から大病にかかって苦しんだそうな。
また、そのころには村に名本(なもと)と言って、今の区長さんのような仕事をする人がおったが、その名本さんのところまでは五百メートルぐらいあるのに欅を切った時の木屑が、流れていって大さわぎをするし、木の切り株がごうごうと大きな音を出して鳴るんじゃと。
きっと、これはあの穴の中に棲む蛇のたたりじゃと言って村の人がいっぱい集まって、お通夜をしたり切った後をきよめて、いろいろのものを供えてお祭りをしたそうな。
すると、だんだんと鳴るのがおさまって、もとのとおりの株になったそうな。
皆山集より(町史「土佐町の民話」)
蛇の神様がいる、という。
早明浦ダム近くのさめうら荘の上の道をくねくね登って、行き着いたところを西へ少し行ったところ。
小さな神社があり、蛇の神様はそこにいるらしい。
その蛇の神様は「作物がよく実りますように」という願い事に加え、「おねしょしませんように」という願い事をかなえてくれるのだそうだ。
土佐町の人の中には、子どもの頃、おねしょが止まるようにお参りに行ったという人がたくさんいるという。
蛇の神様へのお供え物は生卵。カラスに卵を取られないように神社の扉には鍵がかかっていて、その扉は誰でも開けられる。ぎい、と扉を開くとそこに白色の蛇の神様がいるとのこと。
供えられた卵を定期的に片付けている人がいるらしいが、いつ行っても何十個と卵がお供えしてあるのだそうだ。おねしょで困っている人は、どうもたくさんいるらしい。
『三島神社の横のかけ道を登って、頂上にいる蛇の神様までどんどん歩きます。蛇の神様には生卵をお供えして「おねしょしませんように」「おしっこもれませんように」とみんなでお祈りしました』と保育園からのお手紙に書いてあった。
次の日、先生に話を聞いた。
「○○くんはね『どうかおねしょしませんように』って手を合わせてつぶやいててかわいかった〜。」
そして「私はね『どうか尿もれしませんように』ってお願いしてきた。」と大笑いしながら、なかなか切実なことを言う。
早明浦の蛇の神様、どうか先生の願いをかなえてやってください。
ずっと昔、黒丸での話よ。
ある晩のこと、きれいな娘さんが「この川には渕はいくつもあるけんど、どの渕も先客がおるので泊まる所がない。どうか泊めてくだされ」言うてやって来たと。
それじゃあと言うことで泊めてやることにしたが、寝る時に桶を貸してくれえ言うたと。
大きな桶もなかったので、楮(かじ)を蒸す桶でもかまん、誰もあけてくれな言うてそれをすっぽりかぶって寝たと。
夜中に、体が蛇にもどったもんよ。
桶がバリバリ言うて割れたそうな。朝になってみると、娘さんの姿は見えざったそうな。
そのことがあった後、すぐ隣の家から火が出たそうな。
昔のことじゃきに草葺きよね。近くの家はどんどん焼けてしもうたけんど、その家だけ焼け残ったと。
娘さんを泊めた時に、私の寝姿さえ見んかったら、どんな火事にも焼けんから言うて寝たそうなが、その御利益だったもんよ。
草葺ではなくなったけんど、その家は今もあらあね。
蛇の娘がどこから来て、どこへ行ったかは聞いちょりません。
町史(「土佐町の民話」より)
応仁の乱から百年余りが過ぎ、やっとのこと平和が訪れようとしておった。
その頃、南越村(みなごしむら・現在の北境)の名本(今の区長さんのような仕事をする人)藤大夫(ふじだゆう)の弟で和田孫三郎が須山に分家した。
それがこの地に人が住むようになった最初であった。
その下方には十二戸の百姓が住み、長い戦乱に生き残ったのは、蛇神様が守ってくれたおかげだと、住民は毎日酒や魚を供えておった。
杉の平から落ちて来る谷川に蛇渕があって、大きな蛇が棲んでおった。
渕は青々として底は知れず、周りはしめなわで囲まれ、色とりどりの花が飾られておった。
住民は幸せで、境村や和田村から多くの人に来てもろうて盛大に蛇神様祭りをしておった。
それは天録から宝永にかけてのことじゃった。
いつの間にやら蛇神様が南越村の蛇渕へ移っちょった。
「これは大変じゃ。どうやったら戻ってくれるろう。」とさわぎよった。
ちょうどその頃雨が降り始めた。雨は毎日降り続き、次第に滝のような雨になった。そして急に山が崩れて、十二戸はアッと言う間もなく八ヶ内川に押し流されて生き残った人はいなかった。
反対に、南越村は五戸しかなかったのに、方々から人が来て二十三戸になりにぎわった。
そして、それはそれは盛大な蛇神様祭りをしておった。
そんなことが百年余り続いたある年、「どうも近頃蛇神様が見えんようになったが、どう言うもんじゃろう。大夫さんに見てもらおう。」と言うことになり、毎日毎日笛や太鼓で蛇神様迎えの祭りをしたが、帰って来てはくれざった。
それから間もなく、大崩れがしたり、伝染病で家が絶えたりして、昔の五戸に戻ってしもうた。
それから久しいことたってから、蛇神様は汗見川へ移ったことが分かった。
そういうことは、地元の人は気付いてない風であったが、石ころだらけで人の住める所ではなかった沢ヶ内に人が来て住みだし、やがて店もでき大きい集落となったそうじゃ。
和田輝喜(「土佐町の民話」より)
「土佐町ストーリーズ」では、これまで土佐町のちょっとした日常の話から戦争のような昔の話、それからこの地での神話や民話をごちゃまぜに紹介してきました。
「戦争の話」とか「民話」とか、ひとつひとつジャンル分けしないでご紹介してきたのは、そういったここで起こる全てのお話が、ひと続きの「土佐町」を現すものだと考えたからです。
昨日もらった果物も、戦争の体験も、人を化かすタヌキも、それぞれが違う角度から土佐町を照らす小さなロウソクの光のような気がします。
さて話は若干変わりますが、土佐町に伝わる民話や神話を読んでいると、ヘビの話がとても多いことに気がつきます。
人に(特に若い娘に)化けるヘビ、人から畏れられ崇められるヘビ、水を支配する(すなわち五穀豊穣を司る)蛇神さま。ちなみに「蛇神」は「じゃがみ」と読むことが多いみたい。
思いつくままに思いだしてみれば、世界のあちこちの神話で、ヘビって意外と特別な位置にいます。
アペプ(エジプト)、ヴィシュヌの蛇(インド)、ヨルムンガンド(北欧)、ケツァルコアトル(南米)、虹の蛇(オーストラリア)、そして我らがヤマタノオロチ。
アダムとイブに智慧のりんごを食べさせたのもヘビでしたね。
数多ある神話の中でも他の動物と違って、ヘビはなんとなく妖しく艶っぽく、セクシャルな雰囲気を漂わせています。ヘビはタヌキのようにポンポコおなかを叩いて踊ったりしない(まず叩く手がない)し、キツネのように手袋を買いにいったりもしない(手袋つけられない)。
中途半端なジョークはあんまり通じないようなシリアスさがあるのもヘビの特徴。見つめられたら動けなくなるカエルの気持ちも少しはわかります。蛇の目=邪眼という説も昔からありますね。
その上、世界のヘビ神話はこの世の成り立ちに直結している話が多い。大きなヘビがいるからこの世があるんだ(水を支配しているので)、またはこの大地は巨大なヘビの上に載ってるんだって感じの話です。
興味ある方はぜひ「虹の蛇」や「ヴィシュヌの蛇」を調べてみてください。
そんな、ちょっと特異な役割を果たしているヘビの話。今回、土佐町バージョンを集めてみました。明日28日から7日連続でご紹介したいと思います。
私たちより遥か昔にこの地に住んでいた人々にとって、ヘビがどれほど恐ろしく頼りがいのある存在だったのか。少しだけお仕事の手を止めて想像してみるのも、たまにはいいと思いませんか?
あ、大事なこと忘れてた、、、。
土佐町には子育て支援センター『ポッポ広場』があります。
平成18年に開設され、ちょうどその頃長男を出産した私は、ポッポ広場へほぼ毎日のように遊びに来ていました。
今でこそ4人の子どもの親をやっている私ですが、
当時は我が子にも、他の子どもにも、そして他のお母さん達にもどう接したらいいかわからず、
ただただ家で長男と二人きりでこもるストレスから逃れるためにポッポ広場を利用していました。
そんなポッポ広場で、私を変える出会いがありました。
次男を出産してから、ポッポ広場を訪れた時のことです。
人のお母さんがニコニコと話しかけてきたのです。
『もしかして、上にお兄ちゃんがいます?多分同級生なんですよ~』
彼女の名前は加藤さん。
転勤族で、土佐町に引っ越してきたとのことでした。
人見知りだった私は、こうやって初対面の人が話しかけてくれるということが衝撃的でした。
下の子も同級生ということもあって、加藤さんとよくポッポ広場で話をするようになりました。
いつでも穏やかに笑っている加藤さんの周りには自然と輪ができて、私もみんなと喋るようになりました。
あっという間に何でも喋れるようになって、子育ての悩みや家庭の愚痴、どこそこのスーパーであれが安かった、
これがおいしかった・・・こないだ教えてもらったアレ、やってみたでー!など、情報交換も盛んになりました。
今までは子ども同士の玩具や遊具の取り合いなどのトラブルがあるとすぐに介入していたのですが、
みんなが『えいえい、ケガがなかったら放っちょって~』という雰囲気だったので、
ちょっとしたことでオタオタすることもなくなりました。
消しゴムハンコの作り方やパンの焼き方を習ったり、簡単なレシピを教えてもらったり、
誰かの家に集まって、わいわいお茶をしたり。
私は勝手に『ポッポ広場の黄金期』と呼んでいます(笑)
転勤族だった加藤さんとは、数年後にお別れすることになってしまうのですが、
あの時加藤さんが話しかけてくれなかったら、子育てを楽しむという気持ちは生まれていなかったと思います。
今でもポッポ広場には色んなお母さん、お父さん、おばあちゃん、おじいちゃんがやってきます。
転勤族の人、里帰り出産の人、他町村からの人、ポッポ広場は誰でも利用できます。
お弁当を持って、子どもと一緒に食べてから帰ることもできるようになりました。
初めての子育ては何もかもが手探りで、不安でいっぱいで孤独を感じるものです。
仕事をしていると、他の保護者の方と話す機会も少ないのでなおさらです。
そんな保護者の方達に、ぜひポッポ広場に足を運んでもらいたいです。
いつでも開いていますよ。