土佐町ストーリーズ

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弁才天(高須)その1

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樫山集落の中腹より少々上の方に細長い池があり、それに面して住吉神社があるが、弁才天さんの名で親しまれている。

この池は清掃するまでは沼地のようになっていて、小さな丸池が二ヶ所ほどあった。願ほどきに鯉を入れたりすることもあったが、お釜さまといって不浄なものを投げ入れることを嫌っていた。

明治の初めのことであったと言う。そのお釜さんに稲を干すサデを突っ込んだことがあった。一本で届かないので継ぎ足して突っ込んだところ、お釜さんから矢のように赤い水が噴き出たという。

家に帰ってみると、子が腹が痛いと言ってきりきり舞いでうめいていた。太夫さんに見てもらったところが、お釜の蛇の目を突き刺してその罰が当たったのだとのことであったと言う。

また池に生えているガマを刈って筵にした家は焼けてしまったとも言い伝えている。

もともと広い池で龍神が棲んでいたと伝えられ、それを岡田という人が田にしてしまったと言う。

ところがその田に早乙女(田植えをする女)が入ると、足や泥に濡れた着物に鱗がくっつき、そんなことで早乙女さんも田の中に入るのを嫌うようになって、荒れたままになってしまった。

そして二つのお釜さんが残っていた。それを浚えて、ずっと昔のように大きな池にしたようです。

町史

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岩獄山の新助木(瀬戸)

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七里回りの一ノ谷のうちに岩獄山と言う山があって、そこに三十三尋(約五十メートル)の当山随一の大桧があった。

はるか昔のことである。新助と呼ぶ杣人(きこり)がこの大木に斧を入れることになった。半分ほど伐り口をあけて、その日は暮れてしまった。翌朝、山に登ってみると、伐り口はもとの通りになっていた。新助は不思議に思いながらも、その日も斧を振って日が暮れた。その夜、新助が暗闇の中からのぞいていると沢山の小人が現れて、新助の伐ったコッパ(木片)を取り集めては継ぎ合わせ始めた。驚く胸を押さえながらも、じっと見ていると一人の小人がつぶやいた。

「このコッパを焼いては伐り、伐っては焼きして、三十三日間続けられたら、さすがこの大木も何ともならぬわい」

これを聞いた新助は、その翌日から伐っては焼きして三十三日間で、やっと伐り倒すことができたという。

瀬戸と南川地区の境界あたりに岩獄山と呼ぶ山があるが、この山と伝説の山と同一であるかは定かではない。

町史

 

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長者の家

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むかしむかし、床鍋の保ノ谷のある家に、一晩泊めてほしい言うて女の人が来たそうな。

家の主は、それはしよいことじゃが、食べてもらう物もないが言うたと。

女は、何もいらん、泊めてもらうだけでええ、ただ私の寝た後で楮桶(楮を蒸す桶)をかぶせてほしい言うたと。

主人は言われた通りにしてあげたそうな。

夜が明けて桶をとんとんと叩くと、内からも叩くのであけてやったら、やっぱり人の姿でねよったと。

お世話になった言うて、帰りぎわに、お家はとても裕福なお家になりますよ、言うて出て行ったと。

その家はそれからますます栄えて長者になったそうなが。

桶の中には蛇の鱗が光っていたと。

町史

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竈ヶ森と粟神楽(峰石原)

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現在の芥川が十郎丸と呼ばれていた養老年間のこと、兄九郎丸は黒丸に住み、弟十郎丸は十郎丸(芥川)に住んでいた。

ある年のこと、不作で食べる物もなくなったことがあった。十郎丸の子(一説には九郎丸の子)粟丸が三宝山に行きお願いしたところ、どこからともなく老人が現れ「粟を汲み切り、一升まけ。そうすれば秋には、三石三斗三升の収穫があるであろう。そのお礼に粟の神楽をしなさい。粟神楽とは、清浄な所に竃を作り、三升炊きの羽釜に三升三合三勺の粟を十二回洗ってコシキに入れて蒸し、湯の沸き上がる時に神々を招けば、神々が喜んで召し上がる。もし粟神楽をしない時は、命はないと思え」と告げて、姿を消してしまったという。

そして、秋の取り入れをむかえ、その年は豊作だった。それで約束通り、粟神楽を行った。その竃を作った所が、竈ヶ森(へっついがもり)である。

 

また、竈ヶ森には次のような話もある。

清水村(現在の吾北村清水)に名剣を持った浪人が、度々山へ行って殺生をしていた。

ある日のこと、二羽の山鳥が激しく浪人に襲いかかってきた。浪人は名剣で斬りかかるが、山鳥は刀先をかわし、尚も襲いかかる。半時ぐらい争ったであろうか、やっとのことで一羽の山鳥の片羽に切り込んだ。そして、その山鳥は竈ヶ森で傷ついた羽を休めていた。そのことを知った浪人は、その山鳥を追って山に入り、行方不明になったという。大神は、もう一羽の山鳥に乗って、竈ヶ森に着いたという。

傷ついた山鳥は、水を欲しくて飛ぼうとするが羽ばたけず、周りが六尋の杉の大木に喰いついた。すると、その杉の根元から泉が湧き出て、山鳥はその水を飲んで傷を直したという。

この泉からできる湿田には、夏になると蚊にくわれないために、泥まみれになりに猪が来る。

ある時、そこに現れた猪を殺生人が待ち構えて撃った。泉は血で真っ赤に染まった。大神は怒り、たちまち暗闇になったかと思うと大雨となり、稲妻の光に恐れをなした殺生人は、家に着くと間もなく息絶えてしまったという。

町史

 

筒井賀恒 (東石原)

 

*賀恒さんのことを書いた記事はこちらです。

高峯神社の守り人 その1

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嫁のへ

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昔、あるところに、それはべっぴんで気立ても良く、働き者の娘がおったそうな。

しかし、こんな娘にもひとつだけ悩みがあった。芋が何よりも好きで、芋なしでは生きてゆけんほどの芋好きじゃったそうじゃ。

縁談の話もたくさんあったが、なかなか嫁に行こうとはしなかった。そんな娘も親の勧めで、ようやく嫁ぐことになった。両親もたいそう喜んだが、娘を呼んで「ええか、嫁に行ったら、芋が出て三個以上食べたらいかんぞ。おまんは芋を食べたら、へが止まらんなるから。それがもとで離縁でもされたらおおごとじゃ」と言って嫁を案じたそうじゃ。

嫁いだ先の家では、べっぴんで働き者の嫁が来たとたいそう喜んだげな。

嫁も初めのうちは親の言いつけを守り、芋を食べざったが、一ヶ月ぐらいたったある日、どうしても我慢できんなり、芋を食べたと。それから毎日少しずつ隠れて食べよったが、次第に量が増えだした。

そしてある日のこと、姑が息子に「えらい最近、芋つぼの芋が減るが、どうしたもんじょう」と聞いたそうな。息子もわからんかったんで、嫁に「おまんは知らんか」と聞いた。嫁は「あては知りません」と答えたんじゃが、その日はあまりお腹がへっちょったもんじゃき、芋をどっさり食べちょった。

「あては本当に知りません」ともう一度言ったとたんに「プップップップ………」と、へが止まらんようになって、その勢いで空へ飛んで言ったそうな。

まっこと、芋の食べ過ぎは、怖いのう。

和田土良

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くせ地(黒丸)

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芥川から黒丸へ越す所の畝が丸山じゃが、その東に川を渡って行ったところにハヨがハエ言う所(く)がある。

以前は伐畑農業いうて、山を焼いては畑にして稗など作りよった。

その山を焼くに、人が中で火をつけよるに、そのまわりにずっと火をつけまわして、「早よう出え、早よう出え」と呼びまくって焼き殺したという。

そんでハヨがハエいうてここを耕すと祟りがあると言いよったが、今は植林になっちょります。

町史

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高須の地名と河内神社(高須)

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高須の北浦という所に大きな榎(えのき)があって、それに鷹が巣をこしらえちょった。

そして近くの家の子どもをさらっていくので、始末せんならんことになった。

狩人じゃったら祟りがないということで、狩人を連れてきた。鉄砲か弓じゃったかは知らんが、射たれた鷹は飛んでいって河内神社の坪(庭)に落ちた。

榎はそのままにしておいたらまた巣をこしらえてはいかんということで切ることになり、祟りがあってはということで、その榎から御神体をつくるからと神様にお断りの祈祷をして伐り倒したそうな。伐ったあとは田になっちょるが、京都の仏師に頼んで八体の神像を刻んでもろうたそうな。

町史

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聖が崖(上津川)

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上津川の谷の奥のずっと高いところに大きな岩屋(岩の中にできたほら穴)があって、源平の時分に平家の者が逃げ込んだ言う所じゃ。

そこを聖が崖(ひじりがだき)と言うが、そこへ逃げてきちょった者も捕まって首を切られたそうなが、その首が下へ流れて聖が渕まできて七日七晩渦を巻いたそうな。

その渕は上津川口から少し入ったところにあったが、今はもうダムに沈んで、もうのうなってしもうた。

町史

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むかしきゅうり

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たまらなく懐かしい人に会ったような気持ちで受け取った。

「野菜、取りにきいや」と声をかけてくれた人が手渡してくれたもの。長さ約30センチ、厚さ10センチ、重さ約1.5キロ。色は薄い緑で、少し黄色がかっている。その姿はまるでお腹をへこませたラグビーボールのようである。

その野菜の名は「むかしきゅうり」。

 

町のスーパーの野菜売り場で見かけるのは、気軽に片手で持ち、ガブッと丸かじりできる細長いきゅうりがほとんどだと思うが、「むかしきゅうり」がそういった場で売られているのをまず見たことがない。丸かじりで完食するにはかなりの根気がいる大きさであり、ましてや皮はけっこう硬い。多分、自宅用または近所の知り合い同士、その土地の間だけで出回っている野菜なのではないだろうか。

 

むかしきゅうりは、私にとって大切な人を思い出させる。

夏になると、「むかしきゅうり」を何度も持ってきてくれる人がいた。私が土佐町に来てから、毎年毎年ずっとだ。

その人、上田のおじいちゃんは、軽トラックの荷台にいくつも積んで来て「皮をむいて、小エビなんかを一緒に入れて炊くとおいしいで」と言いながら、手渡してくれた。その一つ一つはずっしりと重く、夏の太陽をさっきまで浴びていたんですよ、と言っているかのように内側から熱を放っていた。

大きめのむかしきゅうりを半分に割ると白い種が行儀よく交互に並んでいる。調理するときはそれを大きなスプーンか何かでこそげ取るのだが、おじいちゃんはその種を取っておいて、種の周りについてぬめりを山水で洗い、来年用の種として乾かして保存していた。夏の盛りにおじいちゃんの家に行くと、軒下にひかれた新聞紙の上にいくつもの白い種が散らばっていたものだった。むかしきゅうりを手にし、急にその風景が蘇った。

おじいちゃんは、今年の2月に亡くなった。

 

 

今年、むかしきゅうりを手渡してくれた人も「皮をむいて、煮て食べるとおいしいで」とおじいちゃんと同じことを言った。

その言葉を聞いて「ああ、上田のおじいちゃんから、むかしきゅうりを受け取ることはもうないのだ」と思った。同時に、おじいちゃんと同じきゅうりを育てている人がいるということが、どこか嬉しくもあった。

家に帰り、二人が教えてくれたように皮をむき、だしと醤油、小エビを一緒に煮て、クズでとろみをつけ、おろし生姜を添えていただいた。

 

 

「おじいちゃん、今年もむかしきゅうりと会えたよ」

そんな気持ちで、まだいくつか残っているむかしきゅうりを眺めている。

 

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土佐町ストーリーズ

びわの季節

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5月下旬、白やオレンジ色の袋をつけた木があちらこちらにあることに気づく。
びわの木だ。
鳥に食べられないように、びわの実の一つひとつに袋をつけるのだ。

 

土佐町で暮らし始めてからずっとお世話になっていたおじいちゃんがいた。

おじいちゃんの家にもびわの木があった。

ちょうど家の向かいに住んでいたおじいちゃんが教えてくれたこと、一緒に過ごした思い出は数え切れない。
しいたけのコマ打ちの仕方を教えてくれた。梅や柿を取りにおいでと言うために、朝出かけて行こうとする私を階段の下で待っていてくれた。しし汁をストーブにかけてあるから食べにおいでと電話をかけてきてくれた。
夕方、おじいちゃんの家を見て「灯りがついたなあ」と思っていたのは、おじいちゃんも一緒だったと知った時の気持ちは今も忘れていない。

 

毎年5月、おじいちゃんのびわの木には袋がかかって、白やオレンジの花が咲いたように見えた。その「花」が咲いてしばらくたった頃、おじいちゃんはいつも声をかけてくれた。

「びわをとりにおいで」

 

私の息子はびわが好きだ。おじいちゃんは高いところのびわはハシゴをかけて採って手渡し、びわを頬張る息子を目を細めて見ていた。

おじいちゃんは、息子をまるで自分の孫のようにかわいがってくれた。息子にたけのこの掘り方を教えてくれた。息子は学校から帰るとランドセルを置いて自転車でおじいちゃんの家に行き、一緒にテレビの時代劇を見たり、そのまま夕ご飯をご馳走になって、おじいちゃんの運転する軽トラで帰って来たこともあった。

おじいちゃんと息子は、気の合う友達のようでもあった。

 

確か土佐町での3回目の5月を迎えた時、やっと気づいた。おじいちゃんは、びわを息子に食べさせるために袋をかけてくれていたのだ。「結くんはびわが好きじゃき」と言って。

 

 

今年の2月、おじいちゃんは亡くなった。棺に入ったおじいちゃんはいつものように穏やかな優しい顔で眠っていた。声をかけたら起き上がって笑ってくれそうだった。息子は棺のそばに膝をつき「なんで、なんで…」と泣き崩れた。「おじいちゃんは結くんが大好きじゃったきねえ」と言いながらおばあちゃんも泣いていた。みんな泣いた。

 

おじいちゃんがよく薪を割っていた田んぼの畦や薪がたくさん重ねられた小屋の前を通る時、ふと、おじいちゃんの気配を感じることがある。
ここは、おじいちゃんが歩いた道。おじいちゃんが生きた場所。

 

 

今年もびわの季節になった。
おじいちゃんはもういない。

それでもびわは色づく。

おじいちゃんは、今日もどこかで見守ってくれている気がする。

 

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