2023年3月

笹のいえ

ミツバチ時間 立夏

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そんなわけではじまった、僕たち家族とミツバチたちの新しい暮らし。

 

ミツバチが生活の身近に居るようになって、僕の朝のルーティンがひとつ増えた。

それは、巣箱をチェックすること。

朝日が巣箱に当たる時間になると、巣門からミツバチが出てきては飛んでいく。

戻ってきた蜂はお腹いっぱい蜜を集めて巣箱に戻ってくる。たまに花粉を団子状にして後ろ両足に付けて帰ってくる個体もいる。

僕は、ほぼ毎日巣箱に通った。

巣箱に近づいたら、手袋した指をゆっくりと巣門に近づけて「おはよう」と挨拶する。まずは僕の存在を蜂たちに示すためだ。「怖くないよ、仲間だよ」と。それから箱の隣に座り、しばらく彼らの動きを観察するのが日課となった。週に一度くらい床板を取り出して掃除する。板の上には蜜蝋のカスなどのゴミが落ちているので、小箒でさっと払う。またスマホのカメラで箱内部の写真や動画を撮って、行動や様子を確認する。これらの作業は慌てず、落ち着いてすることを意識する。世話する人の気持ちが急いていると、それがミツバチたちに伝わり、彼らを刺激、興奮させてしまうかもしれないからだ。

ミツバチたちは日中、巣門を出たり入ったりしてる。単調な行動ではあるが、これが観ていて飽きない。自分でも意外な気分だった。彼らに対する興味の理由を、自問してもうまく説明できない。近くにいれば刺される可能性はゼロではないし、僕がじっと観ていたところで蜂たちが頑張って蜜を多く運ぶわけでもない。でも、日一日と彼らに愛着が湧くようになる。気がつくと彼らに話しかけていたりする。

養蜂家は、ミツバチたちをまるで家族の一員のように扱っていることが多い。蜂を飼う前はそんな気持ちがよく理解できなかった。蜂は「単なる昆虫の一種」と思っていたが、養蜂をはじめたいまは認識がガラリと変わってしまった。一匹一匹が可愛い、というより、群全体に彼らの意思を感じ取ることができるのが面白い。

 

ある日、母屋の外で家事をしていた奥さんが、ニホンミツバチを見つけて、

「あ、うちのミツバチ!」

と言った。僕は「名札が付いてるわけでもないのに、どうして分かるのさ」と笑った。

でも、きっと口をついて出てきたのであろう、彼女のその言葉は、ミツバチの存在が確かに僕たちの日常に影響を与えていることを示している。

ミツバチと暮らすことで、彼らの生態を知り、周りの環境のことが気になり、自然の中でどう暮らしていくかのヒントになる。この小さな生き物たちに、僕らが教わることは多い。

 

続く

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私の一冊

石川拓也

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「本屋で待つ」 佐藤友則/島田潤一郎 夏葉社

 広島県庄原市の書店「ウィー東城店」。

著者の佐藤さんはこの町の本屋さんの店主さんです。

お父さんから受け継いで店長に就任し、赤字続きだったこのお店を「どうしたら黒字化できるか」というところから奮闘がスタート。

その奮闘の中、佐藤さんは気づいていく。黒字化するということは地域のお客さまにどれだけ求められるかということであって、地域の本屋さんの本質とは「地域の頼みごとが集まる場所」だということ。

その頼みごとを可能な限り解決することこそが書店の役割であり、そういう場所として書店が機能した時には、お店は地域コミュニティのハブのような場所になっていく。

その結果として、引きこもりの若者や心が弱った人などが、「ここで仕事ができないだろうか」と相談に来る場所となり、そしてそこで仕事を始める若者たちは、社会との接点を「ウィー東城店」の仕事の中で取り戻していく。

店長の佐藤さんは、教えたり指導したりというよりかは、彼ら若者が自分のペースで立ち上がるのを「待つ」ことを大事にしている。

だからタイトルは「本屋で待つ」なのです。

巻末にも書かれていたことですが、僕自身もここ10年ほどで感じている仕事の質の変化を感じさせる一冊です。

つまり、より早くより多く仕事し稼いだものが勝つという旧来の資本主義的弱肉強食の世界から、「周りをどれだけ幸せにできるか」という競争に世界はシフトしてきている。見えない速度で、だが着実な変化です。

ここにもひとつその証左が。そしてそれを実践している人たちがいる、それを実感できる物語です。

 

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土佐町歴史再発見

② 天下泰平の世の火縄銃

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① 民具資料館という個性」の続き

 ところで、この部屋の中で真っ先に目に止まったのは、甲冑ではなく、その脇に展示されている2挺の古式銃だった。1挺(銃身のみ)は一目で「摂津」で製造された古式銃と分ったが、もう1挺はよく分からなかった。早速、展示ケースに入らしてもらい、手にとってみた。重さ、長さともに実に扱いやすそうで、持った瞬間、これは戦さ用ではない直感した。

 学芸員をしていた時、ネタに困って「土佐の砲術史」という苦し紛れの展示会をしたことがある。今思えば経験不足の生煮え企画だったが、古銃を見る知識だけは多少付いたので、ピンときたのかもしれない。

 江戸時代の侍が「砲術稽古」で使用する銃は「士筒」(さむらいづつ)という。流派にもよるが、比較的口径が大きく、ずっしりと重く派手なのが特徴だ。それとは明らかに異なるこの素朴な銃は、城下に住む武士が扱うものではない。それによく見ると機関部のディテールも何かおかしい。

 早速、委員会の資料台帳を見せてもらった。するとこの銃は「種子島銃」(たねがしまじゅう)となっていた。「種子島銃」とは、一般的に火縄式の古式銃のことを指す。でも、この銃には火縄を装着するための「火縄ばさみ」がない。改造されているのだ。

 そもそも土佐町には火縄銃はあったのだろうか?根本的な疑問が沸いてきた。学芸員気質はこの歳になってもなかなか消えない。ムズムズしてきたのでちょっと調べてみた。

 寛保3年(1743)の『郷村帳』という藩の記録によれば、現在の土佐町を構成する村々には、多くの火縄銃があったらしい。その数、何と216挺!これには驚いた。

 土佐では、戦国末期頃より盛んに鉄砲が造られるようになった。そして、文禄(1592~1595)の頃には、領内すべての地域に標準装備されていた。長宗我部元親は「我が家中では鉄砲を撃つことは特別なことではない。家老から足軽まで誰でも撃てるからだ」と豪語したという。長宗我部氏の改易後、新国主・山内氏が入国してきたが、早々に隣の本山郷で一揆が起きた。当然嶺北地域には厳しい目が向けられ、武器もすべて没収されたはずだ。なのになぜ200挺を越える銃があったのだろう

③へ続く

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私の一冊

山門由佳

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「日本百名宿」 柏井壽 光文社

旅行好きの両親の影響で、幼い頃から旅行が好きです。最近は好きというよりも、安定した日常生活を送るためには不安定な旅は必要不可欠なようにも思われます。

旅にでると、鈍っていた感性や感覚、細胞までが一気に目を覚まし、見聞きするすべてのものに敏感に反応し、吸収するのを実感します。

旅を彩る重要要素のひとつにどこに泊まるかの『宿』の存在。 行き先を決めてから宿を決めることが多いかもしれませんが、まず『宿』を決めて行き先が決まる、そんな旅もいいかもしれません。

年間250日以上ホテルや宿に滞在する著者の宿の率直な感想は『宿』へのあふれる愛を感じずにはいられません。 そして情景がありありと浮かぶ文章はまるでわたし達も同行しているような…。そんな気分にさせてくれます。 あぁ旅って、いいなぁ〜

 

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どんぐりとファースト

土佐町の絵本「ろいろい」、製作は佳境に入っています。

この絵本、表紙と裏表紙はシルクスクリーン印刷で行っています。

印刷作業を担当するのは、土佐町の障がい者支援施設どんぐりのメンバーさんと大豊町のファーストの皆さん。

ふだんからTシャツやポロシャツの印刷をしてくれているメンバーです。

 

表紙の第1版

表紙→どんぐり 裏表紙→ファーストと、自然と担当が決まっていきました。

ここからは動画で印刷の進みを見ていただきましょう。まずは表紙。

 

 

上は、第1版である色の版の印刷。この表紙は色の版(第1版)と黒の版(第2版)のふたつを重ねて印刷します。

第1版の時点では、どんな絵になるのかイマイチわかりずらいですが、ここに後ほどビシッと黒が入ることで一枚の絵が完成します。

印刷はどんぐりのきほちゃん。楽しそうにお仕事してくれるのでこちらも楽しくなります。

 

裏表紙の第1版

こちらは裏表紙の印刷風景。大豊町ファーストの利用者さんが担当。

表紙と同様に、裏表紙も色の版(第1版)+黒の版(第2版)の重ね印刷です。まずは色の第1版から。

 

 

裏表紙の場合、黒で重ねる部分は右下の空白に文字が入るのみなので、表紙に比べると第1版だけで絵がわかりやすいです。

印刷はファーストの剛くん。

 

色の版(第1版)、できた!

 

 

こうしてできた色の版の印刷。上が表紙、下が裏表紙。

鮮やかな色彩のインクを敢えてランダムに混ぜて印刷しています。偶然できる色のグラデーションで、世界にひとつしかない色彩を作っていきます。

このやり方は、シルクスクリーンだからこそできる方法なのです。

 

 

 

 

黒を重ねるよ

さあ黒の版(第2版)を重ねます。表紙は黒が入ることで絵の全貌がわかるようになりました。

ちょっと気持ち良い瞬間ですね。印刷はどんぐりの寿光くん。

 

 

 

裏表紙は奥付という制作者情報の部分を、黒インクで刷ります。

 

 

完成の図

何日もかけてどんぐりとファーストの皆さんが印刷してくれた表紙と裏表紙。

一枚一枚が唯一のグラデーションで出来あがりました。

 

 

さあこの次は製本作業。ページの貼り合わせと表紙の貼り合わせ、これらの作業もどんぐりとファーストの皆さんの作業としてお願いしています。

現在進行形で日々着々と完成に近づいている土佐町の絵本「ろいろい」。

お披露目間近!!

 

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私の一冊

田岡三代

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「食べてうつぬけ鉄欠乏女子」 奥平智之 主婦の友社

「僕、サプリ飲んでるんですよ~」

久しぶりに会ったら、生き生きと顔色もとても良くなった、若い方にこの本を教えて頂きました。

「テケジョ」?何それ?

「鉄欠乏女子」のことを、省略して「テケジョ」。今時ですねぇ~。先ずそこから、時代の流れについていけてない自分を振り返ります。

いかに「鉄分」が足りていないか、「鉄分」が足りないとどうなるのか、分かりやすく教えてくれているこの本に刺激され、食事作りを改善しているところです。

もうそろそろ、効果が出るはず!

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出

95年間のキヨ婆さんの思い出 21

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

楮の匂いの染み込んだお芋

昔々その昔、今から八十五年位昔、昭和の時代、私が小学三年生位の時の事です。年老いても、四季を通じてその季節になると、必ずどこからともなく浮かんでくる幼い頃の思い出は、私の一番の楽しみ、元気の素となっています。

農家ではお米の収穫が終わり、後へ播いた麦が青々と伸びた頃、畠や田の周りの楮を切って、蒸して、皮をはいで乾燥させて売ることは大切な収入源でした。

隣近所が一ヶ所に集まって釜床を作り、協同で働いていました。

私の家の上の郡道渕の広場に釜床があって、谷も近くて、大事な水も便利で、毎年その時期には賑やかというよりも私の楽しみの一つでした。

学校から帰ると、宿題を済ませ食事もソコソコ、狭い下敷きと膝あてを持って行って、邪魔にならない所で、切り落としの小枝の束をもらって一生懸命はぐのが面白かったです。

そしてもう一つ嬉しい事があったのです。

楮の大きな束の上に、籠にカラ芋を入れて乗せ、二時間位蒸して出した時、楮の匂の沁み込んだ熱々のお芋。涎が出そうです。お菓子等珍しかった時代、その味は今でも口の奥に残っています。一度でいいから食べたいと思います。

現在は、楮さえ見かけなくなりました。土佐和紙の大切な原料として、いつまでも続いてほしいと思います。

 

 

*昔は各地で楮を蒸していました。土佐町では現在、南川地区で行われています。

南川のカジ蒸し(前編)

 

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私の一冊

山門由佳

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「ワンピースのおんな」  宇壽山貴久子,写真  すまあみ,文   草思社

ワンピース。 少女の頃、夏は毎日ワンピースを好んで着ていました。

今でもはっきり憶えているフルーツの柄のワンピース、リボンのついた水色のストライプのワンピース、うすい黄色の水玉のワンピース…ワンピースは女の子をかわいくみせる。ワンピースは女の人を綺麗にみせる。ワンピースは女性を包み込んで優しい気持ちにさせてくれる。かわいくも、かっこよくも、フォーマルにも、リラックスにも。 おなじワンピースでも、着るひとがちがえばその姿は全然ちがった印象になる。ワンピースは百変化する魔法のお洋服かもしれません。

子どもが生まれてからワンピースを着ていると、子どもたちはワンピースの中に潜り込もうとしてくる。 ワンピースをめくられたら…えらいこっちゃになるので、今はしばし素脚にワンピースはおあずけです。

 

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土佐町歴史再発見

① 民具資料館という個性

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「ここの資料館おもしろい!」と、思わずつぶやいた。

教員として赴任してきた4年前、初任者向けの町内巡りに参加した時のことだ。

資料館の展示物はどれも控えめで、ごく普通の印象ながら、よく見ると個性的で、それぞれ奥行きの深さをもっている。そう、土佐町の子どもたちと同じだ。

 この町に来る前は、四半世紀ほど県立の資料館に勤めていた。仕事柄、全国の大規模な「資料館」や「博物館」を見てきたが、正直「おもしろい」と思ったことはなかった。豪華な美術品、最新の映像機器、精巧なレプリカを、「これでもか」と見せられても、途中で飽きてきて、「もう出よう」という気分になったものだ。

 対象的なのが町や村の小さな資料館だ。予算も人も少ないのだろう。色あせたパネルや、傾いたままの資料を見て、ハラハラすることもよくあったが、展示自体はめちゃくちゃ個性的で、「おもしろい」。

 地域の資料館は、当然地元と繋っている。「これは○○さんくのが」「○○さんはさすが職人、よう使いこんじゅうねえ」そんな声が聞こえてきそうな資料館は、まさに生きている資料館。「県立館」とは違う魅力があるのだ。

 退職後の選択肢は色々あったが、ボランティアとして、この町の資料館のお手伝いをすることにした。教育委員会の方たちと協力し、一点一点資料カード作りから始めたのたが、毎回何かしらの発見があって、実に楽しい。

 土佐町の資料館は、正式には「民具資料館」という。ただの「民具館」ではないところがミソだ。旧森少学校の2階を改造し、手前から「通史」、「衣・食・住」、「生業」などのテーマで構成される。展示品はすべて町内で使われていたものだから迫力が違う。

 なかでも心惹かれるのが、「通史」の部屋だ。手作り感満載のキャプションや、試行錯誤して拵えた展示備品の数々が、オープン時のスタッフの苦労と努力を偲ばせる。

 町立レベルで、常時甲冑を4領も出している館も珍しい。これもただの民具館ではない、「民具資料館」の面目躍如といったところか。

②へ続く

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とさちょう植物手帖

セリバオウレン(芹葉黄連)

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セリバオウレン(芹葉黄連)は葉っぱがセリの葉のように見えることからその名がついたそうです。黄連(おうれん)はキンポウゲ科オウレン属の植物の根茎を乾燥させたもので胃腸薬などの原料になる生薬です。

 

日本では江戸時代にオウレンの栽培が始まったようですが、昭和50年代には嶺北地域にも栽培のブームが訪れています。戦後の拡大造林政策によって増えてきた人口造林地の林齢が20~30年生に達し、その林床でセリバオウレンを栽培しようとしたものです。

今から半世紀近く前のことですが、実は私もそのブームに乗った記憶があります。一攫千金の夢を抱いて5合ほどの種子を購入し、父親が所有するスギの造林地へ播種したのですが、結局のところ根茎の採集には至らず放置したという顛末です。

セリバオウレンには、今でもよく嶺北地域の道路に近い里山の造林地のあちこちで出合います。恐らくは私の経験と似たような経緯にあるのではないでしょうか。

土佐町ではセリバオウレンの自生は確認されておらず、栽培のために導入された国内移入種(※こくないいにゅうしゅ)だけが存在するようです。

 

土佐町道下谷線の沿線では今年もセリバオウレンの花が咲きました。10㎝ほどの短い花茎を伸ばし、その先に白い小さな花を2~3個ずつつけています。

杉落葉(※すぎおちば)に被われた林床に見え隠れする緑の葉っぱの間から無数の花茎が立ち並び、おびただしい数の花が舞っています。薄暗い林内の所々、木漏れ日を受けてキラキラ輝く小さな花の光景はなんとも幻想的なものでした。

とは言え、その気で見ないとなかなか目には入らない小さな風景です。

 

 

ところが果期の姿は一変します。

受粉を終えると花茎はどんどん伸び始め、4月頃には40㎝ほどになります。その先へ果実を放射状に並べ、一風変わった目立つ姿へと変身してしまいます。

この姿を見て「夜空の花火」を連想する人もいるようです。

 

 

※国内移入種(こくないいにゅうしゅ):もともとその地域に生息しておらず、国内の別の地域から人為的に持ち込まれた生物のこと

※杉落葉(すぎおちば):常緑針葉樹のスギの葉は、初夏、新しい葉をつけるとそれに取って代わられるように小枝にくっついたまま落葉する。このことを杉落葉と言い、俳句では夏の季語となっている。

 

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