「日本の兵隊さん、出てきなさい」
その後、部隊は歩いて海岸線まで下がり、海岸近くで魚を取ったりしていた。ある時、頭上を飛ぶ飛行機から日本語が聞こえてきた。
「日本の兵隊さん出てきなさい。戦争は終わりました」
海岸ぶちの山の中に隠れていた兵隊が、皆出てきた。
「日本は神国なのに負けるろうか?おかしいなという考えはあったけんど、そういうんじゃけに、本当じゃろうねえと思って出ていった」
モーチ街道を離れモールメンへ向かう間の様子を、同じ第三中隊に所属していた中山操さんが記していた。
「折節、雨季の真っ最中だった。来る日も来る日もしのつく雨が山を崩し、道なき道を川にし、よろぼい歩く敗残の列の行手に立ちはだかった。それに、飢えとマラリアと赤痢が襲いかかり、私たちを次第に絶望の渕へ追いこんで行った。
そのうちに、靴も足も腐り始めた。水に浸かって、乾かす暇がないのだ。靴はぼろぼろになり、足は腫れ上がった。腫れ上がった部分が裂け、ざくろのように口をあけた。
落伍者が相次いだ。それを収容しに行った兵までが隊列に遅れて、自決の坂道をころげ落ちた。落後することは、死ぬことであったのだ。
そうして聯隊は、モールメンにたどりついた。たかだか縦深百キロそこらの山を踏破するのに五十余日もかかっていた。その間に、何十何人の仲間を失ったか。
8月18日だった。聯隊は整列して、先着の聯隊長に各隊が人員報告をした。そのとき、私は震えた。青白んだ聯隊長の顔がゆがんで見えた。
そうして、やっとの思いで、『第三中隊、長以下13名』と声をあげながら、涙がぼうだとして頬をつたったのを覚えている。
一個中隊150人近かった仲間が、半年のうちに、たったの13人になったのだ。戦争は3日前に終わっていた」
邦美さんに気合を入れてくれた大野さんはどうなったのか、聞いた。
「生きて、一緒に帰ってきた」
それを聞き、そのことは心底よかったと思えた。
その後、仏領インドシナへ移動した。仏領インドシナは現在のベトナム、ラオス、カンボジアの3国にあたる東南アジアの地域のことをいう。当時はフランスが植民地支配をしていた。
「歩兵第百四十四聯隊戦記」によると、連隊「今のベトナム東南海岸ロンハイにて昭和21年の正月を迎えた」とある。
「フランスの部隊が管理しよったけんね、フランスの偉い手が生活する遊び場みたいなところへ抑留されて、生活を送りよった」
土を耕してさつま芋を育てたり、井戸を掘ったり、網で魚を捕まえたりしていたという。
帰還
1946(昭和21)年5月上旬、帰還命令が出た。船に乗り、日本へ帰国。広島の大竹へ到着した。「大竹で金をもらって。兵隊の給料、確か3千円じゃった。汽車はただで乗れて、大杉まで帰ってきた」
駅でみかんを買ったら、思っていたよりもずっと高い金額で「こんなに高いんじゃ、うっかりお金を使えんなあ」と思ったそうだ。大杉駅からバスで土佐町へ。以前、仕事で宿泊した旅館に泊まった。「旅館で真っ白いお餅をつくっちょった。おかみさんが分けてくれるかなあと思ったけんど、分けてくれんかった。取って食うわけにもいかんし」
旅館から大川村の家まで「とぼとぼと」歩いて帰った。現在、大川村と土佐町をつなぐ早明浦橋はこの時はまだない。船で川を渡り、歩いて家まで戻った。「わしが戻ったということを土佐町田井の局から大川の局のもんが、家に知らせてくれちょった」
やっとの思いで家につくと、家族が待っていた。「生きて戻ったか!」家族にとっては邦美さんがビルマにいるのかいないのか分からない状態だった。皆が喜んで泣いて「ワイワイ騒いだことじゃった」。しばらくしたら、同じ連隊の衛生兵だった戦友が村に戻ってきた。「よう生きて戻ってきたもんじゃなあ」と互いに肩をたたき合った。
「戦友はほとんどビルマで死んでしもうちゅうのに。みんなだんだん死んでいった。指揮班で准尉のそばにいたから生きて戻れた。そうでなかったら、ビルマで死んじょった」
戦後、邦美さんは山の仕事を始めた。大きな道路ができ、仕事がなくなって、車に乗ることを覚えないかんと高知市一宮の自動車学校へ通った。その後は、土佐町のスーパーの運送の仕事をした。結婚して4人の娘が生まれた。早明浦ダムの建設が決まり、大川村の家を立ち退くことになって土佐町に土地を購入した。米を作り、90歳ごろまで田植えから稲刈りまで行っていた。現在、平日はデイサービスに出かけ、帰宅したら畑の草引きをする。先日は畑でマダニにかまれてしまったそうだ。幸い何事もなく、娘さんに「もう畑に行ったら行かんよ」と言われても畑に行く。
1982(昭和57)年、ビルマ戦で亡くなった人たちを祀るため、復員した人たちと高知市吸江にビルマの仏塔・高知平和パコダを建てた。毎年慰霊祭を行っていたが「みなが歳をとって毎年行けなくなってしまった」という。
「歩兵第百四十四聯隊戦記」の最後に、ビルマ戦で亡くなった方々の氏名と本籍地、戦没年月日と戦没場所が掲載されている。高知県全市町村から出征しており、生きて再び故郷の土を踏めなかった方たちは3千人を超える。高知平和パコダでの慰霊祭は、今も遺族の方たちによって続けられている。
戦争は殺し合い
「ビルマ戦の目的は、一体何だったのでしょうね…」私がひとり言のようにつぶやくのを聞いて、邦美さんは「目的は…、ラングーンに入って……」。そう呟いて、遠く宙の一点を見つめ、沈黙してしまった。30秒ほど経った頃だったと思う。「何の目的もなかったろうねえ、もう。言うたら逃げまわりゆうぐらいじゃけ…」
話の最後に、邦美さんは一言ひと言を絞り出すように言った。
「戦争は殺し合いじゃ。人を殺すということも、殺されることもええことじゃない。嫌じゃねえ」
とても抱えきれないような、重たい言葉だった。

今回お話をうかがう時、次女の友美さんが邦美さんに付き添ってくださった。庭に出て、邦美さんと長女の浪子さん、友美さんと三人で撮影した。
お二人は邦美さんに寄り添い、三人とも少し恥ずかしそうに笑って立っていた。もし邦美さんがビルマで歩くことを諦めていたら、子どもたちは生まれてくることはなかった。私も三人が庭に立っている風景を見ることはなかったのだと思うと、一人の人間が生きることの意味を考えずにいられなかった。
戦争を思い出すのは辛いことで、話した日は夢を見たり、しんどくなったりするのだと、浪子さんから聞いた。
それでも邦美さんは身体に刻まれた記憶をたどりながら、懸命に自らの言葉にして伝えてくださった。
そのことを心より、感謝いたします。

【参考資料】
「歩兵第百四十四聯隊戦記」歩兵第百四十四聯隊戦記編集委員会
「歩兵第百四十四聯隊(高知)通信中隊誌」歩兵第百四十四聯隊通信中隊誌編集委員会
「土佐っぽ砲隊ビルマを征く」元歩兵第百四十四聯隊歩兵砲隊中隊戦友会
「高知で編成された郷土部隊〈案〉」
「ビルマ 絶望の戦場」NHKスペシャル取材班
「戦慄の記録 インパール」NHKスペシャル取材班
「秋のしずく 敗戦70年といま 高知新聞取材班」高知新聞社



