「還暦からの底力」 出口治明 講談社
今が一番若い。思い立ったらすぐ行動。行動しなければ世界は一ミリたりとも変わらない。
何かを始める事への躊躇は、失敗して自分が傷付いてしまうことへの怖れもあるのでしょう。
喜怒哀楽はその総量の絶対値で決めるべきで差し引き計算するものではない。
たくさんの喜怒哀楽があった方が楽しい人生。
印象深かった言葉を抜粋してみました。
万人に通用する論理とは思えませんが、参考になる事柄も多く、気づかされることもたくさんあり励まされる内容です。
著者名
記事タイトル
掲載開始日
山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。
人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。
土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?
みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!
(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)
西石原の我家の、川をはさんだ向いを北向(きたのむかい)と呼んでいる。
そこに寺坂庄吉さんというじいさんが居た。うなぎのひご釣りの名人であった。
父もひご釣りをしたが、習おうとすると、
「庄吉じいが名人じゃきに、ついて行ったらええ」
と言われ、じいさんに頼むと、
「そんならついて来いや」
と、気軽に引き受けてくれた。もう70年以上も前の、自分が小学生の時だった。
何回目かの時、自分で竹を削ってひごを作り、釣針をつけて持って行った。
川へ着くとすぐ、じいさんが、
「針へみみずをつけて、その岩でやってみや」
と、一つの岩を指さした。子供心に、うなぎが居そうにもない岩だと思えた。そう思って、じっと岩を見ていると、
「岩の下のここから、この方向に差してみい」
と言われたので、ひごを差しこんだ。2メートルほどのひごが、半分ほど入った。その時、ぐいっと強い引き込みがあった。
「そうれ、うなぎが食いついたじゃろ」
庄吉じいさんが言うより早く、私は力まかせにひごを引いた。ずしんとした重みが感じられ、途端に動悸が激しくなった。同時にひごの手応えが、すっと消えた。
「無茶に引っ張ったきに、はずれたんよ」
じいさんは、食いついた相手の動きに合わせてゆっくり引き出し、最後に確実に掴むやり方を、身振り手振りをまじえて教えてくれた。そのあと、
「そのへんでやってみいや。わしはちょっと帰ってくる」
と言って、川から立ち去り、しばらくして鍬をかついで帰ってきた。
「道路から川へ下りるあの道が、こないだの大雨でずたずたに崩れちょる。川へ来る人が転んで大怪我をしたらいかんきに」
そう言って、薮の中の崩れた道を直しはじめた。相当時間がかかりそうであった。
その姿を見ながら、さっき聞いた釣りのコツを思い出し、思い出しながらやってみたが、全くうなぎの手応えはなかった。
じいさんのところへ何度か聞きに行こうと思ったが、向こう鉢巻で汗だくになって、一生懸命に鍬を振るっている姿を見ると、声をかけるのがはばかられた。
その間幾つかの岩にひごを差し入れたが、全然駄目だった。
ほぼ1時間ほどして、じいさんが川へ下りてきた。
「うなぎが食いついたかや」
と聞かれたので、
「あれからあと、ひとつも行き当らん」
と言うと、
「またいつでも教えてやるきに。まあさっき言うたように、しばらくやってみい」
と笑顔で言い、うまそうに煙草を吸った。
じいさんのうなぎ釣りの妙技は、それから後もしょっちゅう見た。
今は亡き庄吉じいさんを思うたびに、釣りの名人技はもちろんのことだが、川へ来る人たちの安全のため、道直しに大汗をかいていた姿が鮮やかに浮かんでくる。
撮影協力:筒井良一郎さん
さめうらダム年表
昭和30年(1955)地蔵寺、森、田井3村が合併し、土佐村となる
昭和35年(1960)早明浦ダム着工
昭和36年(1961)本山町上津川、下川、古味、井尻、大渕5部落が土佐村編入合併
昭和42年(1967)早明浦ダム本体工事着手
昭和45年(1970)町制施行され土佐町となる
昭和48年(1973)早明浦ダム落成
さめうら荘落成
令和2年(2020)さめうらカヌーテラス落成
上津川(こうづかわ)地区
早明浦ダムから湖に沿って県道を奥へ進んで行った先に現れる「大川村」という標識。標識の山手側にある脇道に入ったところ、大川村と隣り合った場所に上津川地区はあります。
最盛期には100名以上が住んでいた上津川地区。当時は行事ごとなどの連絡は家からちょっと出てお隣に声を掛けることで、集落の一番上から下まで(標高差400m、距離にして約4㎞)を伝言ゲームのように連絡ができたそうです。そんな上津川地区も現在は2世帯3名のみ。今回はその上津川地区で最も高いところに住む川村栄己さんにお話を伺いました。
栄己さんは昭和4年生まれの現在92歳。家の下にある畑からスタスタと坂道を歩いて上がる姿はとても力強く、決して92歳には見えません。それでいて、優しさの滲み出る表情には、こちらもスッと笑顔にさせられる魅力があります。
幼少期を振り返る
そんな栄己さん、生まれは上津川地区のお隣、大川村桃ヶ谷(ももがたに)地区。3男2女の長女として生まれ、幼少期はご両親が農業をしていたこともあり、学校が終わると家の手伝いをしていたといいます。
畑の周りでは紙の材料となるミツマタやコウゾなどを育てており、冬になると地域の方と大きな窯で蒸して皮をはぐ作業を助け合う「結」の文化が地域に根付いていたことが懐かしく感じるそうです。
柿や桃の接ぎ木をするのが得意だったお父さんのおかげもあり、家の周りにはビワ・スモモ・みかんなどの木が立ち並び、果物には不自由しなかったといいます。山に入れば、イタドリやスイコギ(スイバ)などを「お猿さんのように」口にし、お父さんに止められるにも関わらず青梅を口にしていたそうです。
母校である船戸小中学校は川沿いにあり、対岸に住む生徒は5・6人乗りの籠に乗って川を渡ったり船をロープで渡して通学していたとのこと。休みの日には川で泳ぐのが大好きな兄に連れられ、川遊びをすることも多く、いたずら好きな弟2人に頭を押さえつけられて苦しい思いをしたのも今では良い思い出だそうです。
人生は紆余曲折
その後、栄己さんは中学卒業と同時に実家を離れ、土佐町の田井地区にあった嶺北病院(現在の田井医院)で看護師として勤務。お兄さんは小学校高等科で猛勉強し、青年学校で船に乗るための勉強をしたのち16歳で海軍に志願。2年後、18歳の時に沖縄の洋上で散華されました。それを機に栄己さんは実家へ戻ったとのことです。
栄己さんが実家を離れている間に実家は上津川地区(当時は本山町)の県道脇に移っており、栄己さんは20歳の時に同じ上津川地区にある今のお家へ嫁ぎました。
その後、2男1女に恵まれた栄己さんは子育てと並行しながら、当時2,000人ほどが暮らしていた白滝鉱山へ野菜の行商をしに通います。上津川地区から白滝鉱山までの山道はのんびり歩くと3~4時間もの距離がありましたが、鉱石を運ぶ架空索道(ロープウェイ)で荷物だけを運んでもらい、栄己さん自身は歩いて通ったそうです。
鉱山の周りにある集落で1件1件のお宅を訪ねて売り歩くことで、商店に置いてもらうよりも多くの売り上げを上げたと言います。帰りは商店で買ったものを籠に担いでまた長い山道を歩いて帰ったとのこと。今でも健在の力強い足腰はこの時期に鍛え上げられたものではないかと思いました。
ダム建設により失われたもの
その後、早明浦ダムが建設されることで、栄己さんの実家も含め上津川地区の多くの家が湖の底へ沈み、ご両親も含めた多くの住人は補償金を手に上津川地区から離れました。そんな中、同じ上津川地区でも栄己さんを含め、ダム建設の影響を受けない地域(高い土地)に住んでいた住民は補償もなく、そこに残るしか選択肢はありませんでした。出ていく者にとっては得たものがあるが、残された者には何も得るものがなかったといいます。そして、それはさらに多くのものを奪いました。
1つは学校。栄己さん自身が幼少期に積み重ねた思い出と共に父兄としての思い出も多く、運動会の競技に参加し、当時流行っていた三波春夫の「東京五輪音頭」をみんなで歌って踊ったことはよく覚えているそうです。
もう1つは綺麗な川。ダムが出来る前は河原の大きな岩に薄紫色のカワツツジがたくさん咲いていて、水はどこでも飲めるくらい綺麗だったと言います。夏になると鮎がたくさん泳いでいて、体の黄色い模様が道路からでもキラキラと輝いて見えたそうです。
栄己さんが発した「学校がなくなるというのは、なんと寂しい」、「昔の川を知っている者として、昔の川をもう一度見てみたい」という言葉に悲しさと寂しさが入り混じって強く心に刺さりました。
同時期に栄己さんはさらに大きなものを失いました。それは最愛の息子さん。役場勤めだった息子さんはまだ成人も迎えていなかったのですが、ある日突然行方不明になり、その後水の中で見つかったそうです。「自ら命を絶つような子ではなかった。病気であれば、自分が一生懸命世話をすることも出来た」栄己さんの優しさに満ちた表情の中にそのような悲しみがあるとは全く想像もできませんでした。
そして今、未来
現在、家族親戚みんながこの地を離れ、先祖代々続いたお墓も町の方へ移したそうです。
文久の時代から200年以上の歴史を積み重ねたお宅も栄己さんの代で最後に。栄己さんとしては仕事があれば子供にも住んでほしいと思いながらも、木を売ることもできずの仕事で生計が成り立たないことも理解していると言います。
そんな栄己さんにとって楽しいことは何かと伺ったところ、
「元気でいることが楽しい。腰も屈まず、背中も曲がらず真っすぐに立っていられる。畑をするにも、何をするにも元気でなかったらできない」
山里離れたところに住んでいるにも関わらず、わざわざ「おばあちゃん元気?」と声を掛けに来てくれる人がいることも嬉しいと言います。
「人生は嬉しいことばかりでない、辛いことの方がうんとある」
数多くの辛い経験を乗り越えた栄己さんの言葉は
どんなに著名な作家にも生み出せない重みを感じました。
栄己さんが少しでも喜んでくれるなら、また「お元気ですか」と声を掛けに行きたい。
目の前に広がる湖の先に栄己さんの優しい表情が浮かびます。
「土佐町オリジナルポロシャツ」の図柄や、「さめうらカヌーテラスロゴ」など、とさちょうものがたりが毎年お世話になっている”絵描き”の下田昌克さんが、2021年6月11日(金)から展覧会を開催します!
以下、その詳細です。
この展覧会で販売するオリジナルのTシャツを、下田さんのリクエストによりとさちょうものがたりで制作することとなりました!光栄です!
実際に印刷をするのは(いつもの)どんぐりの寿光くん&きほちゃん。
このTシャツ、下田さんの展覧会会場以外、もちろん他のどこでも売っていないものです。
皆さまぜひ会場へ足を運んでいただき、館内全部が”下田昌克”の展覧会という「トゲとキバ」を堪能し、そしてその体験の「証」としてTシャツをお買い求めいただければ幸いです!
下田昌克さん原画の「土佐町オリジナルポロシャツ2021年Ver.」はこちら↓
↓下田さん著「とさちょうものがたりzine 01」
「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん」 高野文子作,絵 福音館書店
青空の広がる日、外に干した布団の気持ちよさといったらありません。その布団に飛び込んで、ぐっすり眠る。これは、かなりの幸せ。
人が布団で過ごす時間は意外と長く、1日の3分の1〜4分の1を四角いスペースの上で過ごしています。
たかが布団、されど布団。この本を読めば、ついワンセットに扱われがちな「しきぶとんさん」「かけぶとんさん」「まくらさん」は、それぞれ重要な役割を担っていることに気付きます。
寝る人がしきぶとんさんに頼みます。
「あさまでひとつおたのみします。どうぞ わたしのおしっこが よなかにでたがりませんように」
しきぶとんさんは答えます。
「おれにまかせろ もしもおまえのおしっこが よなかにさわぎそうになったらば まてよまてよ あさまでまてよと おれがなだめておいてやる」
しきぶとんさんが、朝まで見守ってくれていたとは!
そんな視点で布団を見たことがありませんでした。
かけぶとんさんは「ひるまころんで ちのでたひざも なめてさすってあっためて」直してくれ、まくらさんは、おっかない夢を鼻息で吹き飛ばしてくれる。
だから、人は安心して眠れるのです。
最後は「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん いつも いろいろ ありがとう」でこのお話は終わります。
本当に、ありがとう。
今日も気持ちよく眠れるよう、寝床を整えたいと思います。
2021年1月から2月にかけて高知県内9市町村の郷土料理を撮影し、製作した動画をご紹介しています。
第6回目は、北川村で作られている郷土料理「田舎寿司」です!
「土佐田舎寿司」とは、高知県の山の食材を使った、高知県ならではのお寿司です。
製作した動画のDVDでは、第4回目の津野町の「田舎ずし(土佐田舎寿司)」と、今回ご紹介する、北川村の「土佐田舎寿司」の二つを紹介しています。
実は、「土佐田舎寿司」が作られているのはこの2つの町だけでなく、高知県各地で作られています。リュウキュウやミョウガ、シイタケ、タケノコ…。お母さんたちが暮らすそれぞれの地で採れる、四季折々の食材が使われています。
同じ「土佐田舎寿司」なのだから、作り方は一緒なのでは?と思う方もいるかもしれません。
ところが!これがまた違うのです!
リュウキュウの味付けの仕方、しいたけの飾り切りの仕方、寿司酢の配合などなど…。同じ食材や調味料を使っていても、それぞれの作り方の違いがあって面白い。ひとつひとつの手順に、お母さんたちが大切にしてきたこだわりがあります。
土佐田舎寿司の大きな特徴は、寿司酢などに「柚子酢(ゆのす)」が使われていることです。 「柚子酢」は、柚子を絞った果汁のこと。高知県の家庭では、一升瓶やペットボトルなどに入れて、必ず常備されています。
「柚子酢」にも種類があり、果汁100%のもの、塩入りのものなどさまざま。今回紹介する北川村では、塩入りの柚子酢を使っていました。前回の津野町では果汁100%の柚子酢を使用。こんなところからも、それぞれの地で培われてきたものがあるのだと実感します。
北川村のお母さん・中野和美さんは「柚子酢は北川村の調味料!」と話していました。
北川村にはあちこちに柚子畑が広がっています。北川村は、柚子が育つのに適した土地であり、収穫したその果汁を食卓で生かしてきた。その環境と歴史があるからこそ、今も柚子酢を使う文化が日常にあるのでしょう。
タイトル文字を描いてくれたのは、土佐町の障がい者支援施設「どんぐり」のメンバーさんたちです。
どんぐりのみなさんに描いてもらった文字は、本当はカラフル!カラーでお見せしたいくらいです。クレパスを重ねた「土佐田舎寿司」の文字、とても力強く、丁寧に描いてくれました。
北川村には、北川村ならではのお寿司があります。
「金時豆の押し寿司」です。木の押し型に入れた寿司飯の上に、甘く煮た金時豆と季節の花などを飾りつけます。
撮影は、1月。北川村のお母さん・中野さんは、畑で摘んできた菜の花を使っていました。まるで、目の前に春がやって来たよう。食べるのがもったいないほどでした。普段は人参の葉を使うそうですが、「その季節にあるものを使うのよ」と話してくれました。
盛り付けは、大きな一枚板の上で。この板は四国の形をしています。これもお母さんのこだわりです。作ったお寿司と共に、家の庭で採ってきた南天の葉や椿の花を添えます。盛り付けも創意工夫。どうしたらより美しく、より美味しく見えるのか。お母さんたちの心意気を感じます。
同じ「土佐田舎寿司」と言っても、その地域によって一味も二味も違う。
その違いをぜひ、感じてみてください。
旧地蔵寺村の村長だった田岡幸六さんに、渓流で色々教わったことが、今でも忘れられない。
幸六さんは、うなぎのひご釣りの達人と言われていた。私は小学生の頃から、日曜日には川へ走って、その名人芸をしばしば見た。
父もひご釣りをしていたので、私もそれにならってひご釣りを始めたが、一向にうまくならず、アメゴ釣りに熱中した。
幸六さんは、アメゴ釣りでも達人であった。父はアメゴ釣りはしなかったので、幸六さんについて行くことが多かった。自由自在に振る竿さばきを懸命に見ながら、その技を真似した。
忘れられないのは、一緒にアメゴ釣りをした、ある日のことである。私は中学生だった。
幸六さんは何尾か釣ってから、
「今日はこれで終了」
と言って竿を納めた。いつもならそれで帰るのだが、その日は釣り続ける私のあとをずっとついてきた。
その間に私は何尾か釣り、一つの渕で1尾釣り上げた時、幸六さんから、
「今日はそれで納めにせえや」
と声がかかった。
「今日はまだ釣れそうなきに、もうちょっとやってみる」
と答えると、
「まあ聞けや」
幸六さんはそこの岩に腰を下ろして、煙管で煙草を吸いながら、
「よう思い出してみいや。いまのアメゴ、ここなら釣れるという自信があったろう。それまでの釣り方を見よると、何となく餌を流してみたら、たまたまアメゴがそこに居ったきに食いついた、そのように見えた。けんど、いまのは最初から自信満々で、アメゴの居る流れへ餌を振り込んだ。それがアメゴ釣りのコツというもんよ。そう思わんかや」
アメゴ釣りは小学校に入る前からやってきたが、それを聞いて自然にうなずくような気分になった。幸六さんの言葉は続いた。
「そんな時はすぐに切り上げて、釣れたそのコツを一生懸命に思い出して、しっかり身につけておくことよ。そうせざったら、またええ加減な釣り方に戻ってしまうもんじゃ。そのため、めったにない会心の釣りが出来たその時はさっさと納めて、そのコツを噛みしめたらええ。まあ今日は、わしの言うことを聞いちょき」
その言葉は薄れるどころか、年齢と共に、自分の中で定着してきたような気がする。
幸六さんの思い出で、もう一つ忘れられないのは、川で一緒に、硝子の破片拾いをさせられたことである。
河原で硝子瓶などが割れて散っているのを見るとすぐに釣りをやめ、二人でどんな小さな破片でも拾って、安全な場所へ捨てた。水中にある破片も、箱瓶を使って丹念に捜し、拾い上げた。
「川は、はだしで入る人が多いきに、こんな破片を踏んだら大ごとじゃ。自分も、こわいと思うろうがよ」
この言葉を何度も聞いた。
「土佐の味 ふるさとの台所」 梅原真 取材,構成,デザイン (旧)高知県生活改善協会 編集 「
「土佐の食文化を愛する人たちの熱望を受け、30年ぶりにふたたび復刊」と、本の帯にある。
この本を発行したのは、高校の先輩だったこともあり、少しお高めの値段(2160円)だったが、お値段以上(どっかで聞いた?)の内容で、すぐ購入した。
【素材】
春、夏、秋、冬、年中の5ブロックに分かれていて、もう一度、旬の感覚をとりもどしていただくために、とある。
確かに、きゅうりやトマト、なす、ピーマンなどは年中、出回る。消費者の要望もあるだろうし、農家の収入の面でも致し方ないとは思うのだけれど…。
【料理】
市町村別に出ているので、生まれ育った土佐山田町(現 香美市)と、現在暮らす土佐町の両方を見ることができるのが嬉しい。
普通の料理ほんとは全く違っていて、聞いたこともない、食べたこともないお料理がいっぱい出てくる。
【暮らしの行事】
正月のもちつきは12月29日についたらいかん、とか、土佐町の神祭では、皿鉢の下に敷いた南天の葉っぱだけがさらに見える頃になっても帰らん衆を南天組と呼んだとか、知らないことだらけで面白い。
【名人登場のコーナー】
土佐町の和田幸子さんが、いたどり、わらびの塩漬け名人として出ているのも誇らしい。
発行した先輩の最後の言葉として「本棚の片隅で眠っているのではなく、できたらボロボロになって欲しい」とある。
「はい、先輩!ボロボロになるまで、愛用させていただきます」。