渡貫洋介

笹のいえ

麦踏み?

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毎年栽培している小麦。実はここ数年は収量が思わしくなく、原因を探していた。

今回は種まき前に畑に溝を付け畝を立てて、水捌けを良くした。また、冬の間にする麦踏みの頻度を一ヶ月に一回から二週間に一度に増やした。これらが功を奏したのか、一部にウサギの食害が見られるけれど、今のところ順調に育ってくれている。

二月も後半になり、日中の気温も上がって春の気配を感じるこの日、今シーズン最後の麦踏みをした。

連れてきた子どもたち、最初のうちは僕の真似をして足で麦を踏んでいたけれど、そのうち飽きてしまって、畑で遊びだした。僕は僕で、まあそんなもんだろうと黙々と作業を続けていると、突然次男が「こうやったらいいんじゃない?」と言う。声のする方を向いてみると、なんと土に寝っ転がってゴロゴロ転がっている。足で踏むより、全身を使った方がより多くの麦を一度に踏む?ことができる、と。そんなバカなと思ったけれど、少し考えて、なるほどそれは悪くないアイデアかもしれないと思い直した。見ていた長男と次女も一緒に転がりはじめて、なんだかとっても楽しそう。

大人が同じことをするには少し勇気がいるけれど、彼らの柔らかい頭には敵わないと思わされた出来事だった。

二年前にも麦踏みのことを書いていて、このときの次男の足サイズが、今の次女(写真手前)の大きさと同じくらい。成長を感じさせる。

 

麦踏み

 

 

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笹のいえ

家族が増えて

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家族が増えて、二ヶ月経った。

たねが加わったことで、我が家族が整ったように感じてる。これまで、出っ張ったり引っ込んだりしていた部分に、彼女が入り込み、ある種の形が出来上がったみたいだ。と言っても、具体的な図形が頭に浮かぶわけではなくって、感覚的なものなので言葉にするのが難しいのだけれど。

赤ちゃん中心となった生活の中で、子どもたちそれぞれの立場や役割が変化した。

基本的に母ちゃんはたねに付きっきりだから、当然僕を含めた他の家族に「母ちゃんがしていたこと」をする機会が多くなる。

長女は、10歳にして(望むと望まざるとにかかわらず)「ミニ母ちゃん」としての立場を確固としたものにしている。一番の年上ということで、周りからの頼みごとはお姉ちゃんに集中する。弟妹たちの世話を焼きつつ、家事もこなしている。下の子を叱るその様は母ちゃんそっくり。家族が増えるたびに、自分の時間が少なくなってしまうのは第一子の宿命だろうか。読書大好きな彼女が本に集中しようとすると、誰かから頼まれごとを言われて、ストレスを感じているときが多々ある。お手伝いは「しょうがなくやってる」という姿勢を隠さない彼女だが、慣れるにつれてできることも増えてきた。

マイペースな長男は、赤ちゃんが生まれても変わることなく我が道を歩いている。お調子者の彼は、同じくお調子者の弟と一緒に、しょうもない替え歌を歌ったり、くねくね踊ったりして和ませてくれる。だが、度が過ぎて叱られることも多い「ザ・男子」。学校に習い事にと忙しい彼。お姉ちゃんほどお手伝いに時間は取れないが、人を笑わせたりするのが得意なので、弟妹の面倒をよく見てくれて助かってる。

今まで「まだ小さいから」と大目に見られていた次男だが、下が増えるとそうもいかなくなる。上の子からは指示が飛び、ときには妹の相手もしないといけない、中間管理職的立場となった。それでも、「お兄ちゃん」としての自覚が強くなって、自分のことは自分でやるようになってきた。不条理な理由で怒られたり、泣きたいことがあっても、ぐっと我慢する表情に父ちゃんはひとり心で萌えてる。本当はまだまだ甘えたい年中さん、寝るときはお腹をとんとんしてもらうのが好き。

家族の中で、人生を最も謳歌している次女は二歳。可愛い盛りな彼女は、何をしても許されてしまう。相手は自分に合わせてくれるし、気に入らなければ相手が怒られる。たねが誕生したとき、このちっちゃい生き物に母親を取られるとライバル視していたが、最近面倒みたがるようになったのは自我の目覚めだろうか。自分の下ができたことで、弱い存在に優しく接する感覚を身につけたようにも見える。

そして、末っ子たねは、母ちゃんとの蜜月な日々。おっぱい飲んでねんねして、と童謡の歌詞そのままの毎日を送ってる。成長のスピードは驚異的で、首は座ってきたし、目を合わせて笑ったり、あーとかうーとかおしゃべりしてる。入れ替わり立ち替わり目の前に現れては、相手をしてくれる姉兄たちのことをどう感じているのだろう。

まさに五人五様で、同じ親からどうしてこうもバラエティに富んだ性格が育つのだろうと不思議でならない。毎日のように喧嘩はするしそれはそれは騒がしいけれど、家族全体で観察してみると、なんとなくまとまっているから面白いなと思う。

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笹のいえ

たね

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令和2年12月16日午前9時9分。

おぎゃあと小さく泣いて、女の子が生まれた。出産予定日より10日遅れての誕生だった。

予定日より数日前、出産立ち会いのため千葉県にある奥さんの実家に到着していた僕は、予約していたフライトを二回延期した。こちらにいる間、子どもたちは小学校や保育園を休まねばならなかったし、猫や鶏の世話など留守を頼んでいる友人への負担も気になっていた。しかし「家族で新しいいのちを迎える」のは、僕たちにとって、とても大切なことと考えていたから、彼らのサポートに甘えた。そのときを待っている日々に、一日の長い時間を子どもたちと過ごすという貴重な日々を送ることができるのはこんなときしかないことだった。

出産場所は、これまでと同じ奥さんの実家。

これまでと違うのは、助産師さんにお世話になっていることだ。

過去四回の出産は家族と親類だけで行っていたが、今回検診と出産はご縁のあった助産師さんに頼んでいた。自分の年齢と体力によるリスクを考えた母ちゃんの選択だった。

月に一回ある検診のために高知から往復する負担を考えて、妊娠六ヶ月ごろから奥さんと子どもたちは千葉に移っていた。僕と小学校に通う長男は高知に残り、機会をみつけては千葉に様子を見に行っていた。

出産まで間近という日、僕らが再び千葉入りし、久しぶりに家族が揃った。

予定日を迎えたが出産の兆候はなく、一日、また一日と過ぎていった。周りは「焦らず、赤ちゃんと母ちゃんのタイミングで産まれてくればいいよ」と言うものの、ある日数を超えてしまうと病院で出産となる。このコロナ禍では院内立会いはできず、産後も入院中は面会できない。赤ちゃんを誕生の瞬間から迎えたかった子どもたちは落胆するだろう。叶うならその前に生まれてほしい。そんな皆の願いが通じたのか、この一二日が勝負!という大潮の未明に陣痛がはじまり、助産師さんに来てもらった。テキパキと無駄なく動き判断する彼女は頼もしく、まさに助産のプロといった感じだった。

陣痛が進むと場が緊迫し、不安そうな子どもたちの相手をしながら、実は同じ心境な僕の気持ちも落ち付けようとしてる。陣痛の最後のピーク、つまり生まれる瞬間、僕はどうぞ無事で産ませてくださいと神様にじっと祈るしかなかった。しばらくして赤ん坊の声が聞こえると、今回も母子ともに元気で出産が済んだことが分かり、汗ばんだ手のひらをズボンで拭いた。お祝いムードに、僕は数分前に懇願した神様へのお礼も忘れてる。振り返れば、毎回そんな想いで出産の場に望んでいたと思う。助産師さんとは正反対の頼りない父ちゃんだが、正直な気持ちだ。

 

赤ん坊の名前は、胎児名をそのままに「たね」とした。

数年前、何かの機会で、土佐町に「種子(たねこ)」さんという方がいることを知って、奥さんと「素敵な名前だね」と話したことがあった。のちに、その方は友人の親類ということが判明し、一方的ではあるけれど、ご縁を感じた特別な名だ。

生後一ヶ月を待って、高知に戻ることになった。車とフェリーを利用して、我が家に帰る。家族全員が笹のいえに居るのは、実に半年振りのことだった。

皆さん、渡貫たねをどうぞ宜しくお願いします。

 

写真撮影:中島安海

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笹のいえ

落花生

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みんな大好き、落花生。

千葉から持って来た種を毎年自家採種して、もう六年くらいになる。土佐の土質や気候と相性が良いのか、毎年よく生ってくれて、美味しいピーナツを堪能している。

田畑の作付けは、家族が暮らしていくのに必要な作物、特に子どもたちが好きな種類を多く育てることになる。米、大豆、小麦、里芋、空豆、トマトにキュウリ、えんどう豆など。落花生もそうやって年々収量を増やしてきた。

落花生に限らず、どの野菜も、育ててみると、手間暇が掛かることが分かる。

先シーズンは五畝くらい植えつけた。が、これがなかなかの作業量だった。

落花生は定植後、草取りを適宜行っていれば、実を掘り上げるまでそれほど手間は掛からない。収穫してから口に入るまでの時間が長いのだ。

まず、株を掘り起こしたら畑でしばらく乾燥させるが、ネズミやカラスなどの食害を気を配らないといけない。次に、竹竿で天日干しをしてさらに乾燥させた後、さやを株から外して収穫。この時の乾燥が不十分だと保管中にカビることがある。そして、さやから実を取り出し、炒ってやっと食べられる。

国産の落花生はそこそこ高価だけれど、自分で育ててみると、その理由がよく分かる。もちろん市販のものはすべて手作業ではないだろうけれど。

 

冬の寒い日や雨の日に殻剥きするのが、僕の好きな時間だ。

薪ストーブの横でぬくぬくしながら、好きな音楽を聴きながら、コーヒーを飲みつつ、ひとり静かに作業する、、、のが、最高だけれど、たいていは子どもの相手をしながらだったり、他の作業をしながらだったりで、少しずつ進めることになる。

取り出した落花生は、三種類くらいに選別する。実が大きいのは食べるよう、小さいのは集めておいて水で戻してから茹でてあんこにしたら美味しい。もっと小さいのやカビてるのは鶏用。殻はコンポストへ。

自家製は育てた苦労があるから無駄にできないし、全てを利用でき、土に還せるから嬉しい。

ある程度の量になったら、ストーブのオーブンに入れて炒る。何度も味見をしながら、ちょうど良い加減で冷ましてからいただく。

種まきから食べるまでの労力を考えたら、多少高くたって、買っちゃった方が楽だ。それでも、一粒口に放り込んで「美味しい!」と言ってくれる家族の一言には、お金では買えない何かがそこにある。

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笹のいえ

子どもと遊ぶ

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続き

 

僕はどちらかと言うと、子どもたちが遊んでいるのを見守ることが多い。一緒に遊ぶより、全体を俯瞰的に観察して、安全面や流れを観察している。だから特に長女と長男は、僕のことを「遊びの外側にいる人」として認識してるようにみえる。誘われることもあまりないし、「子どもたちだけでどうぞ」と断ることもある。やるべき仕事や予定があって時間が取れないことが言い訳リストの第一位だけれど、一緒に遊んだら遊んだで、やれ、それは危ないとか、それはルールと違うとか、「正しい」大人目線で場を仕切ってしまい、途端につまらなくなってしまう。だから僕が中途半端に参加するより、彼らで自由に楽しむのが一番だと考えてる。

しかしこの日のように、彼らの世界に全身で飛び込んでみると、僕は「仲間」として歓迎されることになった。ともに走り、飛び跳ね、疲れて動けなくなるまで遊ぶ。もうすっかり忘れてしまったピュアな感覚や遊びの外からでは分からない風景がそこにあった。子どもたちのエネルギーが溢れ、笑顔が輝かしい。きっと僕もめちゃ笑ってたと思う。そこには帰らなきゃいけない時間やこの後の予定なんて存在すらしていないように思える。毎回は無理っぽいけど、また仲間に入れてもらおうかな。

翌日から数日、僕は筋肉痛に悩まされることになったけれど。

 

写真:例えば、このシャボン玉遊び。部屋が汚れるから外でやりなさい、こぼれるから容器をちゃんと持ちなさい、もったいないから大事に使いなさい、終わったら手を洗いなさい、風邪を引くから服を着なさい、足が汚れるから靴を履きなさい、等々。前後の予定(ご飯やお風呂の時間など)を合わせればこの倍くらいの小言を言いたくなるので、ま、楽しそうだからいっか、とシャッターを押すだけにした。

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笹のいえ

抜かせない長男

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連日しっかり寒くて、なかなか外で遊ぶ気になれなれず、子どもたちとストーブの前から離れられないでいる。しかしある日、意を決して公園に行こうと提案すると、やっぱり退屈していたのであろう彼らは、二つ返事で「OK!」と言った。

近くの公園に到着するとすぐに走り出す子どもたちは、とても楽しそう。誘ってよかった。

ブランコや滑り台で遊んでいる四人を見ながら、自分が最近運動らしい運動をしていないことに気がついて、僕はちょっと走ってみようと言う気になった。

足元は長靴だけど、まあとりあえず、敷地内をぐるっと5周くらいしてみようかと軽く走りはじめた。間も無く運動大好き長男が「オレも」と併走してくれた。普段走ることなど皆無な僕はゆっくりとではあるけれど、地面を蹴り、風を切る感覚を楽しんでいた。

最後の一周になって、息子を追い抜いてやろうと考えた。「父ちゃんもまだまだやるのだ」というところを見せてやろうと。相手は育ち盛りとはいえ、ただの小学二年生。よもや負けることはあるまい。

少しスピードを上げると、彼も同じ速度で付いて来る。しかも僕の少し前を走り、負けないぞ感を醸し出している。僕はさらにペースを上げる。が、彼も加速し、僕は彼を抜かすことができない。ちらちらと僕を振り返る余裕すらある息子。親の威厳に掛けて、力を振り絞る僕。48歳の父ちゃんと8歳の長男は、いつの間にか全速力でデットヒートを繰り広げることになっていた。

ゴールの途端、ふたりでしゃがみ込み、あがった息を整えた。

天を仰ぎながらショックを感じていた。僕の体力はすでに小二以下だったのだ。

「いやでもほら、長靴だったし」「そういえば、左膝が痛い気がする」

という言い訳が一瞬頭を巡ったが、それらを差し引いても、自分の体力の衰えと彼の成長を認めるしかなかった。

日々成長していく子どもたちに対して、老いていくしかない僕。

それはもう変わりようのないの現実だが、ちょっと悲しい。

 

それにしても、この爽快感は久しぶりだ。ともに汗を書き、力を出し切る。長男との体験の共有は記憶に残るであろう貴重な時だった。

興奮した気持ちのまま、しばらく童心に戻って、子どもたちと一緒に遊ぶことにした。

そして、いつもと違う彼らの反応に気がついた。

 

続く

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笹のいえ

じゃーばーぶ!

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今春に三歳になる次女はおしゃべりが上手になって、コミュニケーション力も付いてきた。道端ですれ違った見知らぬ方々に「こんにちわー」と大きな声で挨拶して、相手をビックリさせる得意技も身につけてしまったけれど、この年齢限定と思えば微笑ましい(親は「驚かせてすみません」と頭を下げて回ってますが)。

自分で出来る(と思っている)ことも増えた。

トイレでパンツを脱ぎ着すること、靴を履くこと、スプーンでご飯を食べること 等等

でも、どれもまだたどたどしくて、横で見ている僕は、つい助け舟を出してしまう。そんなとき彼女が言う言葉が、

「じゃーばーぶ!」

最初に聞いたとき意味が全然わからなくて、何度も聞き直してしまったけれど、どうやら、

「だいじょうぶ!」

と言いたいのだ、ということが判明した。

幼児が言い間違えやすい言葉はいくつもあって、検索してみると、

とうろもこし(トウモロコシ)

ぽっくぽーん(ポップコーン)

かににさされた(蚊に刺された)

など。どれも「あるある」と思い出して笑ってしまう。が、その中に「じゃーばーぶ」は見当たらなかったから、もしかしたら、彼女のオリジナルなのかもしれない。我が娘ながら、なんとも素敵なセンスではないか、と親バカ丸出しで思ったりする。

僕は日頃、言い間違えを含めた「〜でちゅ」や「まんま」などのいわゆる赤ちゃん言葉で、幼児と会話することはほとんどない。

幼少期の言語を覚える過程で、

①赤ちゃん言葉で会話する

②幼児はそれを正しい言葉として認識し、使い続ける

③ある年齢で正しい言葉を覚え直す

という順序を踏むが、周りが正しい言葉を使えば、彼らはより早い段階で他人との違いを理解訂正し話すことができるからだ。なんてエラそーに書いたけど、これはある本からの受け売り。しかも逆の研究結果もあるようで、効果のほどはよく分からない。まあ、赤ちゃん言葉を使っている自分に恥ずかしさを覚えると言うめんどくさい性分が理由というのも多分にある。

けれど、「じゃーばーぶ」は、音が楽しいこともあって、僕も彼女を真似て「父ちゃんも、じゃーばーぶ!」と言っている。さあ、皆さんもご一緒に!

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笹のいえ

あけましておめでとうございます

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新年あけましておめでとうございます。

日頃のあれやこれやを綴る雑文も足掛け四年。相変わらずの拙い文章ですが、ゴトゴトやっていきますので、今年もお付き合いいただけたら嬉しいです。

昨年12月に新しい命を迎えて、ついに七人家族になりました(別の機会でご紹介できたらと思います)。まだ小さな身体だけど、大きな存在感。彼女が加わって、僕ら家族の形が整った感があります。この先、絆が一層強くなり、一人ひとりの役割がより明確となり、次の未来に続いていくのだろうと考えると、とても楽しみです。五人兄弟たち、記事にもちょこちょこ登場する予定ですので、これからもこのエッセイと渡貫家をどうぞよろしくお願いします。

 

 

さて。

 

前回、風景のことについて書いた。

心身に潤いを与え、エネルギーと恵みを惜しみなく注いでくれる自然の中で暮らしていると、拝みたくなるくらい感動や感謝することがある。その一方では、台風や地震などの災害は遠慮なしに僕たちが積み上げてきたものを台無しする。天候だけでなく、ある種の生物に対しても注意しないといけない。スズメバチやハメ(まむし)は生死に関わるほどの強い毒を持っているし、猪や鹿などのいわゆる害獣は田畑を荒らし経済的な打撃を与える。

天気は地球の摂理だし、獣たちはぞれぞれ生きるため、命を全うするために行動している。災害とか獣害というのは、こちら側の都合であって、人間という立場を離れれば、それはただ「起こっている」だけ。

自然は人のことなどお構いないし、人類への配慮なんて持ち合わせていない。

結局、人に優しくできるのは、人しかいないのだ。

相手を想い、敬い、一緒に前を向いて進む。それは僕たち人間同士しかできないことだ。

でも、現実はどうだろうか。社会は、国は、世界は、そして、自分はどうだろう。

生まれたての三女を抱っこする。うちの猫より軽い。

吹けば飛んで消えてしまいそうな彼女の存在が、僕にそんなことを考えさせるのかもしれなかった。

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笹のいえ

流れゆく世代

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しばらく前、用事があって久しぶりに訪ねた集落のおばあちゃんが杖を付いていた。室内の段差に足を引っ掛けて転び、膝を悪くしてしまったという。そんな話がきっかけで、彼女の体調や地域のことなどを玄関先でとりとめもなくおしゃべりした。

年配の方との会話では、歳をとった、身体のどこが痛い、しんどい、という話題が多くなる。加齢とともに今までできたことができなくなり、若いときと比べてしまうのは、僕も実感するところだ。「昔は良かった」という心持ちになるのは当然。でも、そんな話のあとはどことなく寂しい気持ちになる。

時が経てば皆同じように歳を取る。集団として考えれば、単純にその分だけマンパワーが減少し、できることが限られてくる。実際、地域の草刈りは年を追うごとに、参加者ひとりひとりに掛かる負担が大きくなっている。今年できた行事が来年はできないかもしれない。そんな不安はいつも頭の隅っこにある。

一方で、集落に住みはじめた若者が家庭を持ち、子どもの声が聞こえるようになった。「子どもは地域の宝」という気質のある土地柄だから、新しいいのちが増えると皆自分ごとのように喜んでくれる。こんな環境で育つ子どもたちは、この時代をどんな風に生きていくのだろう。

若い世代が身近にあると、「これから」を考える機会が増える。彼らが活躍する将来のためにいま何ができるのかと考えることは、僕らの生き甲斐となり、地域活性にも繋がるだろう。

止まることのない時間はときに無慈悲だが、だからこそ世代の移り変わりを受け入れ、未来を想像し、今を楽しみたい。

 

写真:うちの四兄弟近影。希望のカタマリ。

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笹のいえ

風景と僕

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自然に囲まれて暮らしてると、はっとするような風景に出会うことがある。

それは、夜中外に出たときふと見上げた空で瞬く満点の星空だったり、朝日や夕日で焼けた雲が刻々と色を変える時間だったり、冷え込んだ朝に大根を収穫しようとしたとき葉についた霜の美しさに気が付いた瞬間だったり。

作業の手を止めて見惚れてしまうほど素敵な場面に立ち会えて、こんな土地に暮らせて本当に幸福だなと改めて感謝する。

と同時に、果たして僕はこの環境とともにしっかりと生きているのか?と自問する。日々の忙しさを理由に、見逃していることがたくさんあるんじゃないか、と思う。

冒頭で「出会う」と言ったが、それはこちらの一方的な想いで、僕が気付こうが気づかなろうが、風景はそこにある。心にも身体にも余裕を持って、ここに居ることを楽しみたい。

 

写真:笹からほど近い川の春の様子。普段は橋から見下ろしている風景も、別のアングルから見てみると全く違う印象を与えてくれる。

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