2018年12月

図らずもTPP。あっちのTPPではありません。

土佐町在住の写真家、石川拓也がひと月に1枚のポストカードを作るプロジェクト。

2016年11月から始まり、たまに遅れたりもしながら、いちおう、今のところ、毎月1枚発表しています。

各ポストカードは土佐町役場の玄関と道の駅さめうらにて無料で配布しています。

写真:石川拓也 宛名面デザイン:品川美歩

土佐町ポストカードプロジェクト

2018 Nov.

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高峯神社 | 宮元千郷

 

以前もポストカードに登場した高峯神社。峯石原をさらに登った安吉という集落にあります。登山道のような参道、山頂に突然現れる本殿。山全体が清浄な神域であるという、中世から続く信仰心の強さを感じる場所です。

高峯神社、毎年12月の第一日曜日には神祭を行います。今年は12月3日に行われました。宮司さん、総代の方々、地区長さんたち、高峯神社の一年で最も賑やかな1日なのでしょう。

宮司の宮元千郷さんにお願いして撮影させていただきました。宮元さんがそこにいることで初めて完成した風景です。

 

2018 Feb.

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私の一冊

鳥山百合子

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「ヒコリみなみのしまにいく」 いまきみち 福音館書店

先月11月に土佐町に来てくれた西村繁男さんといまきみちさん。お住いの神奈川県に戻ってから、いまきさんは絵本を送ってくださいました。

そのうちの一冊「ヒコリみなみのしまにいく」、この絵本は刺繍でできています。海の波も、ヤシの木の幹も枝も、おじいさんが来ているTシャツも、いまきさんがチクチクと一針ずつ縫ったのだそうです。

すごいなあ!一冊の本になるまで、どれだけの時間がかかっているのでしょう。

この本を開くと、いまきさんの穏やかな声が聞こえてくるようです。

またお会いしたいです。

鳥山百合子

 

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山峡のおぼろ

懸樋の水

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今はどの田舎も水道水が来ているが、かつては自然水を引くのが普通だった。特に山村では殆どの家が谷川の水や湧き水を使っていた。その水を家まで引くのは、主に懸樋であった。

戦後は各種パイプ、ホースが次第に使われ始めたが、それまでは孟宗竹や、木をくり抜いた懸樋が主で、どの家でも見られたものだった。

 

私の実家でも懸樋で水を引いていた。源泉は湧き水で、その水の湧き口から家までは約100メートルの距離があった。

その間を孟宗竹を二つに割った樋や、木材に溝を切り込んだ樋などでつないだ。

地面が低くなったところでは、つっかい棒で支えて懸樋の水平を保ち、水の流れを止めないようにしていた。

我家への水はまず隣家で分水し、そのあと我家まで届いていた。

その水を目的に応じて、大小二つの桶に溜めた。

小さい方の桶は縦50センチ、横60センチ、深さ60センチの長方形のコンクリート製で、懸樋の水を受けていた。その水を常時溜めておき、炊事全般に使った。

大きい桶は縦1.5メートル、横2メートル、深さ60センチの長方形の木製であった。防火用水としての目的が主で、時には三椏(みつまた)や楮の皮をさらしたり、色んなものを汚れ落としに浸したりしていた。釣ってきた川魚を飼ったりもした。

 

色々思い出も多い。

小学校の3年生か4年生の頃から、家族が山仕事などに出た日は、風呂を沸かすのは私の役目であった。かまどの風呂だった。まず浴槽を洗い、それから水を溜める。水は木桶で運ぶのだが、風呂場までは少し距離がある。

水を入れた木桶は重い。運ぶ回数を減らそうとして、どうしても欲張って水を多く入れるので余計に重い。浴槽をいっぱいにするには10回は運ぶ必要があったので、結構苦労した。

石にけつまずいて転び、木桶の水を全部撒いてしまったことも何度かあった。

 

当然のことながら、火の用心については、家族皆から厳しく言われていた。家族だけではなく、村の大人たちからも、耳にたこが出来るほど言われた。

山火事などを見て、火の怖さは子供心にもしみ込んでいたので、風呂を沸かすには大変気を使った。湯が沸いて、火が落ちてしまうまで、焚き口から離れなかった。用心のため、かたわらには水を入れた木桶を置いていた。

最近は谷川の水や湧き水とピロリ菌との関係がよく言われる。当時からこの菌があの懸樋の水に居たとすれば、毎日ピロリ菌を飲んでいたことになる。

 

そうではあっても、思い出の中の懸樋の水は、生活を支える温かい水であった。

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私の一冊

藤田純子

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「小さな生きものたちの不思議なくらし」 甲斐信枝 福音館書店

幼い頃、外で遊び疲れて草の上に仰向けに寝転んだ。

太陽がまぶしい。空をすぐ近くに感じる。音がいつもと全く違って聞こえる。

その時の気持ちを今も思い出すことができます。

不思議な感覚の中で、まわりの草たちは気持ちの良い風に揺すられながら、手をいっぱいに広げて、仲間たちとつながりあおうとしているように見えた。

この本を読んでいると、作者が私と同じ感覚を持たれていることを感じ、すごくうれしかった。

彼女はずっとずっと深く小さな目立たない存在に向き合って、面白く付き合っていて、新しい世界を教えてくれた。

藤田純子

 

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お知らせ

情報求ム!!!

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情報求ム!!!土佐芝刈唄のハッピを探しています!

色: 黒
特徴:前側の衿に白字で「土佐村」「芝刈唄」と入っている

 

土佐町の無形文化財「土佐芝刈唄」。

土佐町の棚田の名所である高須地区に、その唄い手である池添博喜さんという方がいます。
とさちょうものがたり編集部は、土佐町の素晴らしい伝統文化のひとつである芝刈唄を後世に残していきたいと、池添さんが土佐芝刈唄を唄う姿の撮影をしたいとお願いしていました。

池添さんは「それやったら棚田の前で撮影しよう!」と快諾してくれましたが、その後「先代の池添好幸さんから土佐芝刈唄のハッピを受け継ぎ、唄うときにはハッピを着ていたが、そのハッピをどこにしまい込んだかわからなくなってしまった」とのこと。

せっかくの機会、その黒いハッピを探し出し、ぜひともそれを着た池添さんに土佐芝刈唄を唄ってもらいたい!

他にも持っている人はいないのか?何か知っている人はいないか?頭を悩ませた編集部は、相川地区の仁井田作太郎さんを訪ねました。

作太郎さんは、冒頭写真にある一枚のチラシを探し出してくれました。

なんと、以前、作太郎さんが「芝刈唄を保存しよう」と呼びかけ「土佐村土佐芝刈唄保存会」を作り、そのときに何枚かハッピを作ったのだそうです。そのうちの一枚が、博喜さんが好幸さんから引き継いだもの。

他の数枚は、一体どこへ?!

 

土佐町のみなさま、

どなたか、このハッピを持っている方はいませんか?

どなたか、このハッピについて何か知りませんか?

どんなに小さなことでもいいので、心当たりのある方は、ぜひ、とさちょうものがたり編集部まで!

 

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ほのぼのと

かじ蒸し

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旧森小学校への通学路、直線コースに入った辺りの中ほどに、「かじ」を蒸す場所がありました。

 

朝早くからおばさん達が集まり「かじ」を蒸すのです。

早朝の寒さの中、薪のはぜる音と笑い声、楽しげで、華やいだ雰囲気だったのを覚えています。

いわば、その時期の風物詩だったのですが、登校時の通学路が密度の濃い空気で満たされ、小学生の私はその独特の臭いに辟易していたように記憶しています。

 

大きな桶状の物体がカパッと開いた瞬間、サウナ状態の中「かじ」が束にされ、潔くまっすぐに並んでいたのを、何度か目撃しました。

 

あの桶の中には実は楽しい秘密が隠されていたそうです。

副産物として、そこで「さつま芋」を蒸かしていたらしいのです。

大人になってから知り得た事実です。

 

一仕事終わった後の「さつま芋」はきっと美味しかった事でしょうね。

お相伴にあずかりたかった。

 

遠いむかしの懐かしい記憶です。

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私の一冊

藤田英輔

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「日本の色辞典」 吉岡幸雄 紫紅社

【目下の悩み】

「江戸時代、元禄の頃、大都市における町民の繁栄ぶりは目を見張るものがあった。
富を築き、贅沢な暮らしを目指すようになったため、幕府は庶民の華美、贅沢を禁ずる奢侈(しゃし)禁止令により、華やかな衣装を着てはならないというお触れを出した。町民は止むを得ず、茶やねず系統の地味な色相を着るようにしたが、知恵と矜持によりさまざまな変化をつけた。その数は「四十八茶 百鼠」といわれるように、茶色には48、墨(ねず)にいたっては100種もの色相があったようで、染法を記する文献によると、茶系は80種あったといわれる」(以上文中より)

この本から唐茶(からちゃ)、樺茶(かばちゃ)、雀茶(すずめちゃ)、檜皮色(ひわだいろ)、煤竹色(すすたけいろ)、蝉の羽色(せみのはねいろ)など知った。それぞれは微妙に色相が違い、どれもが良い。(この色は?と問われても答えられないだろう)

これら茶系のどれかの色で、自動車のボディに表現したいと思う。が、どの色にしようか…。

このような呼び名があったよ、と気付くと顔も自然にほころぶ。

藤田英輔

 

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笹のいえ

はし拳

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「いらっしゃい!」

「さん!」

 

はし拳をご存知だろうか。

お互いに隠した箸の合計本数を当て、負けた方がお酒の入った盃を飲む。高知県に昔から伝わるお座敷遊びで、年一回県大会も開かれるらしい。

地元の方との飲み会の席で、僕も数回挑戦したことがある。が、お酒が入っているところでやるものだから、いつまでもうろ覚えだった。

ちゃんと教わったのは、なんとフランス人のソフィアンから。彼は笹のいえに数日滞在している間、ある地域の運動会に参加し、競技の「はし拳」を集落の方から教わってきたと言う。

やってみると、シンプル故に、奥が深い。

瞬時の判断力、観察力などが問われ、心理戦となる。

このゲームに強い興味を持ったのが、長男の玄人(げんと)。

普段陽気(というか、どちらかというとヘラヘラしてる)な彼が真剣な面持ちで、ソフィアンからルールを何度も聞いては対戦していた。その集中力は素晴らしく、メキメキと上達していった。僕はというと、やっぱりお酒を飲んでいるので、あっさりと負けてしまうのであった。

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私の一冊

上田大

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「満月」 相川小学校PTA文集

文集「満月」は、相川小学校のPTA活動として昭和48年から始まったそうです。

毎年発行していたこの文集は、子育ての話だけでなく、何気ない暮らしのエピソード、誰も知らないような地域の昔話、俳句や短歌、漫画などなど多彩な内容で、当時の地域の方々の想いが綴られています。

自分の親が書いた文章も残っていて、なんだか懐かしく感じました。

小学校の廃校とともに、この文集の発刊も終了しました。

相川の人の暮らしや想いを綴り、将来地域を担う子どもたちに残す文集「満月」、復活できたらうれしいなあ…。

上田大

 

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土佐町ストーリーズ

つながるということ

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私の祖父は、33年ほど前に亡くなりました。

当時は葬祭会館などなく、川田葬儀社さんという葬儀社が道具などを手配してくれて、自宅でお通夜、葬儀を行っていました。

小さかった私の記憶に強烈に残っているのは、祖父の唇を湿った脱脂綿で濡らしてあげたこと。

お墓に大きな穴が開いていたこと。

その穴の中に祖父の入った棺が入っていったこと。

その時に誰かが「これが最後やきね、よく見ちょきよ」と私の肩を抱きながら言ったこと。

祖母が泣いていたこと。

 

昔は土葬が主流で、近所の人達が集まってお墓を掘っていてくれていたのです。

車が入れないような山の中のお墓です。

棺もそこまでみんなが協力して運んでくれたのでしょう。

 

葬儀のあとは、親戚や近所の人達が残って一緒に食事をとってくれ、呑みながら故人の話をするのです。

その時も、近所の方々が料理を作ったりお酒の用意をしてくださったりと、お世話になったのではないでしょうか。

お通夜の時も近所の方々が集まって、翌日の葬儀の段取りの相談などをしてくれていたのだと思います。

 

今では土佐町でも火葬が主流になっていて、土葬の申請はここ数年ほどで1件あるかないかだと聞きました。

我が家も納骨堂を建て、お墓は引き払いました。

葬祭会館ができ、お通夜、葬儀を自宅でしなくてよくなりました。

どうすればいいかは、業者さんが全部教えてくれます。

 

もう土を掘る労力も、棺を運ぶ労力も、自宅でお通夜・葬儀をするために準備をする労力も必要ありません。

 

それでも、そんな時代もよかったな、とふと思うことがあるのです。

そうやって、地域のつながりができていたのだな、と。

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