笹のいえ

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三世代家族

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僕らは夫婦と子ども五人の七人家族。親は東京や千葉県在住。

そんな環境で暮らしていると、時々「家族」について考えることがある。

僕は常々、家族は「三世代」がベストなのではないかと考えてる。

都市部では核家族が当たり前だけど、田舎では二世代三世代が同居したり、近くに住んでいたりすることも珍しくない。「味噌汁の冷めない距離」を地でいく家庭は少なくない。

同じ集落に住むある方は、町内に息子さん家族が住んでいて、お孫さんが数名いる。行き来も頻繁にあって、孫の世話もよくするそうだ。 「今週末も孫が泊まりにきてて、朝からてんやわんやで仕事にならん」 と全然困っていない表情で、目を細めて語る彼の話を聞くと、気持ちがほっこりすると同時に羨ましく思う。

一方、都内に住む僕の両親。今年82歳の父親と三つ下の母親とのふたり暮らし。

年老いていく彼らのこれからを考え、「高知に引っ越してみない?」と何度か誘ったこともある。でも、住み慣れた土地や病院、友人たちを離れ、新しい環境で老後を過ごすのは酷だとも思う。結局申し入れは断られ続け、遠距離家族のままだ。

三世代家族には良いところがたくさんありそうだ。おじいちゃんおばあちゃんの存在意義が高まるし、孫たちも多世代と交流を持つことで生きていく知恵を学べるだろう。薪割りを教えてもらったり、川で釣りを楽しんだり、昔の遊びを体験したり。

地域外からこの地にやって来た僕らの場合、個人的に年配者と関わる機会は多くはない。それでも、子どもたちが地域のイベントで竹鉄砲やベーゴマなどの遊びを教えてもらったり、集落で見守ってもらったりと、まるで自分たちのおじいちゃんやおばあちゃん的な関わりを持ってくれる方々がいる。本当にありがたいことだと思う。

地域のご高齢者たちは、子どもたちを地域の宝として大事にしてくれる。地域の神事では踊りやしきたりを教えてくれる。そういった関わりを通じて、子どもたちはこの地域により親しみを感じ、自分の故郷だと強く意識できるようになるのだろう。

大先輩たちにとっても、下の世代と関わることで自分の居場所や役目を持ち続けられる。地域や他人の役に立っていると実感できるんだと思う。

しかし、このような恵まれた環境や風土にあっても、血のつながっている実の祖父祖母とは違うのだ。
三世代家族のような状況であったら、どんなに素晴らしいことだろうと妄想する。

うちは三世代家族じゃないけど、たくさんのおじいちゃんおばあちゃんがいる。そのことが、子どもたちの人生により豊かな多様な時間を与えていると感じる。多世代の地域で育つことで、いろいろな価値観を学び、中立な立場から物事を判断する機会に恵まれるだろう。

もちろん、高齢者たちの考えは彼らの時代の常識であって、それが子どもたちの時代に合っているとは限らない。むしろ時代遅れかもしれない。でも、そんな時代もあったんだと知ることは大切だ。

理想的な「三世代家族」や「多世代コミュニティ」って何だろう。僕は、どんな考えも切り捨てたり無視したりしないコミュニティが理想だと思う。でも、何かを決めるときは選択しないといけない。全ての意見を認識したあとで判断することが大事だろう。

核家族が当たり前の現代は、親類による繋がりに加えて、友人家族や近所仲間との横のつながり、同じような背景を持つ人たちとの縁を大切にすることで、次世代へ残せることが多くなると確信している。

僕が、次の世代に伝えたいことは、、、実はない。

子どもたちは彼らの時代を彼らの価値観で生きればいい。それより、前の世代は子どもたち世代の邪魔をしないことが重要だ。彼らに選択肢を与え、彼らの考えや行動を尊重し、行く手を遮らないこと。親身になり寄り添って、影に日向に次世代の応援をすることが大切だと思う。

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笹の夏休み2024

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笹のいえの暮らしを体験する宿泊イベント「笹の夏休み」が無事終了した。コロナで休んでいた年もあったが、それ以外は毎年続けてきた。今年は二回、四泊と三泊の回を催行し、計14名プラスうちの子たちの参加となった。

笹に来てくれた子どもたち、サポートしてくださった保護者の皆様にたくさんの感謝を申し上げます。

イベントの核となる「自分たちで決める」という約束は、子どもたちの自主性を育む大切な要素だ。スケジュールや食事メニューを自分たちで決め行動することで、自主性や協調性が育つと考えている。

かまどでの調理や五右衛門風呂の準備など、普段の生活では体験できない「むかし暮らし」は、子どもたちにとって新鮮な刺激となったと思う。

食を通じて「身土不二」や「一物全体」「もったいない」の考え方に触れ、自然に寄り添う暮らしを体験する。これらの経験は、食の大切さや環境への意識を育むきっかけとなるだろう。

僕自身、このイベントを通じて多くのことを学んできた。当初は参加した全ての子どもへ均等に体験をさせようとしていたが、今では個々の個性や興味を尊重し、得意不得意を見定めて見守ることの大切さを実感している。

さて今夏、特に印象的だったのは長女の成長だった。これまで参加者のひとりとして経験を重ねてきた彼女が、今年は初めてスタッフとして関わりたいと希望した。箸つくりのときに木工ナイフの使い方を教えたり、釜戸や薪風呂の火をつける手伝いをしたりなど、参加者の子どもたちをサポートする姿を見て、親としての喜びと共に、彼女自身の新たな学びの機会になったことと思う。

2015年から毎年のように開催してきたが、振り返ると、これまでの歳月は様々な変化ももたらした。うちの子どもたちの成長に伴い、笹のいえが手狭になってきたことや、毎年同じアクティビティを繰り返すための慣れなど、新たな課題も見えている。

来年の春には千葉への引っ越しが決まり、このイベントも新たなステージを迎えることになりそうだ。古巣であるブラウンズフィールドでの再開を予定しているが、新しい環境での開催に向けて、これまでの経験を活かしつつ、新たな挑戦も考えている。

新しい仲間を募り、リスクを分散させながら、長期的に継続可能な形を模索したい。イベントの本質的な価値は変えずに、関わる人々の個性を活かした新しい展開を期待している。

「笹の夏休み」は、単なる子どものイベントではない。食の大切さ、家族の重要性、遊びの楽しさ、そして何より自主性を育む場だと自負してる。これらの価値を大切にしながら、さらに楽しい時間を共有したい。

新しい環境での再開には乗り越えるべき課題もたくさんあると想像するが、このイベントの主旨に賛同してくれる親御さんと子どもたちと共に、新たな「笹の夏休み」(名称は変更すると思います)を創り上げていきたい。世の中には様々な生き方、暮らし方がある。その中のひとつの選択肢として、自然と調和した暮らしや食の大切さを伝え続けていきたい。

引越しは半年先のことだし、予定変更も十分あり得る話だ。はじまってもいないことをあれこれ言うのは好きじゃないだれけど、ここで文字にすることで頭の中を整理させてもらった。

*下記タグ「笹の夏休み」をクリックすると、関連記事が検索されます。

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かあちゃん讃美

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奥さん、妻、嫁、家内、パートナー、、、
女性配偶者の呼び方はいろいろあるが、僕は彼女の本名の「シネマ」と呼び、子どもたちは「かあちゃん」と呼ぶことも多い。
今回は、そんな彼女の話。

うちではできるひと総動員で家事をする。理由は明快で、そうしないと暮らしが回らないからだ。掃除洗濯食事つくりに後片付け。その家事の大部分を担ってくれるのが、シネマだ。名もなき家事の数々もこなしている。

暮らしの大黒柱と言おうか、生活における縁の下の力持ちと言おうか、ともかく、家族が健康に過ごせるよう、毎日献身的に動いてくれている。

特に日々の食事は彼女が賄う。

毎日三食作るだけでも大変なことだが、うちは釜戸や七輪を使い、火を熾すところからスタートだから当然時間が掛かる。
薪の火加減によって調理方法も変わってくるし、他の家事や用事と併せて、時間との戦いでもある。それこそ一日中台所に立ち、美味しい料理をあれこれ作ってくれていることもある。段取りから片付けまでテキパキとこなす彼女の姿に見惚れる。

約十年前この町に引っ越してくる前、移住先を探していた僕たちは、高知県はおろか、四国に縁もゆかりもなかった。土佐町にはひとりの知り合いもいなかった。しかし、自然の豊かさや空気の清々しさに魅了され、なにより地域の人たちのたくさんのサポートがあってこの地に根を下ろすことを決めた。

三歳の長女と乳児の長男を連れた僕ら夫婦は、右も左もわからないまま、町営アパートを借り、新しい暮らしをスタートさせた。

千葉の住み慣れた実家を離れ、慣れない環境での生活。幼子ふたりと誰もいない公園で遊ぶ日々は、彼女にとって寂しさの連続だったに違いない。子どもを保育に行かせる前で、どこにも所属していない不安もあったそうだ。それでも文句ひとつ言わず、家族の暮らしを支え続けてくれた。

そのときの罪滅ぼしとしてはいまさらながらで、大変恥ずかしいことなのだけど、最近(本当にここ最近)僕は彼女の負担を減らそうと、意識的に家事や子育てのフォローをするようにしてる。いままで自分の作業や仕事にほとんどの時間を費やしていたことへの償いもある。

そうすることで思わぬ効果があった。

僕自身の家族との時間が増え、より親密になったと感じる。自分の仕事は進まないが、得られる充足感はこれまでより大きい。

シネマ自身も地域活動に積極的に参加したり、出かけたりするようになり、子供会やPTAの役員を引き受け、コミュニティに溶け込んでいる。下の子にかつてほど手がかからなくなってきたことも要因だが、子どもたちの成長と共に、僕ら家族が新たな段階に入ったことを実感する。

母として、また妻として彼女の姿を見るにつけ、感謝し愛おしく感じる。照れくさくて、なかなか口に出せなかったけれど、言葉や行動にして伝えることが大切だと今更ながらに気づいた。

言葉で伝えると共に、ハグをしたり手を繋いだり、より彼女を身近に感じる表現をしている。これまでの隙間を埋めていくように、ふたりの時間も増やしている。

シネマとの出会いは僕の人生最大の幸運だ。

健康的で美味しい食生活、五人の子どもたちとの暮らし、やりがいのある生き方。全ては彼女と一緒にいるおかげで実現している。これからも一緒に歩んでいきたい、そう強く願う。

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土間

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十一年前の母屋改修について、今さらながらの思い出話を少し。

もともと台所は土間だったが、長年の使用で土が削れたり凹んでいたりして全体的に痛んでいた。そこで、コンクリートを使った新しい土間に作り替えようということになった。しかし、そんな大掛かりな作業は僕にとって初めてで、どこから手をつければいいのかさっぱりわからなかった。

幸い、別の改修作業を頼んでいた友人の陣さんが力を貸してくれた。彼は香川県で廃材を使って家を建ててしまったツワモノで、「廃材建築」の達人だ。彼の指示とアイデアのおかげで、作業はぐいぐいと進んだ。

まず土の上に砕石を敷き、水平を出す。地域の石屋さんからもらった石や墓石の切れ端を嵩ましとして使い、さらにコンクリートを流し込む。レベラーで水平をチェックしながら、左官鏝(さかんごて)で床面を整える。このようにして、新しい土間が完成した。

台所の床を土間にしたいと希望したのは奥さんだった。その最大の利点は「床が汚れても気にならない」こと。食べ物を床にまけようが、田畑から戻ってきた僕が泥だらけの長靴で歩こうが、土間ならそんなに気にならない(気にならないぶん、掃除の回数が減ってゴミは溜まっていくのだが)。

掃除も外箒でさっと履き出せるし、水で汚れを一気に洗い流すこともできる。ただし、表面が磨かれた墓石は濡れると滑りやすいので、雨の日などには注意が必要だ、ということがのちに判明する。

いろいろと改善点はあるものの、いまでは土間無しの生活は考えられない。靴を脱がずに食事が取れたり、ストーブで暖が取れるこの場所は、毎日のように野良作業や外での仕事がある僕らの暮らしにぴったりだ。ただ、土間に慣れていないゲストが靴下や素足で歩いて足の裏が真っ黒になるので、その度に説明が必要だけど。

日本家屋の素晴らしさにはいつも感心する。日本の気候や地域の環境にぴったりと合った造りは、住めば住むほどその利点がわかってくる。

改修から十一年、あの日土間を作ってよかったなあと、今でもしみじみ感じている。

 

写真に写っているのは、陣さん。

僕が彼と知り合って以来、いつも影響を受けている。超かっこいい生き方。

YouTubeもやってるので、気になった方は「廃材天国」で検索してみて。

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十三年ぶりの夫婦時間

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今年度に入って、僕たち夫婦の生活に大きな変化が訪れた。それは、「子どもがいない時間」が現れるようになったことだ。今年度から末っ子が保育園に通うようになり、実に13年ぶりに夫婦だけの時間ができるようになった。

第一子である長女が生まれてから今年の三月まで、特別な場合を除き、僕ら夫婦の周りにはいつも子どもたちがいた。しかし、四月からは平日には毎日のように二人きりになる機会が訪れるようになる。

数ヶ月前、この事実に気づいたときの僕たちの反応はある意味対照的だった。

僕は、これまで子どもたちに時間を割かれてなかなかできなかった農作業を一緒にしたり、静かな環境でお互いが思っていること考えていることの共有、それから子どもがいると行きづらかったカフェや美術館に行くことなど、何からはじめようかと考えていた。
一方で、妻は「子どもがいない日が来るなんて」と涙ぐんでいた。もちろん、僕と同じように新しいことを楽しみにしている部分もあっただろうが、寂しさが先に立っていたようだった。

さて、実際にはどうなったか。

思っていたほど夫婦の時間が確保できないことがわかってきた。子どもが五人もいると、誰かが学校や保育園を休むことがあるし、夫婦それぞれの用事や作業もあり、相変わらず忙しい。

つまり、これまで通り過ごしていたのでは、やりたいことはなにも起こらないのだ。

Googleカレンダーをチェックして相手の希望と都合をLINE*で確認し、新しい予定を入力し、その日を迎える。要するに意識的に計画しないと実現しないのだ。当たり前と言えば当たり前、しかし13年の間にすっかりやり方を忘れてしまったようだ。

子どもの成長フェーズによって、僕ら夫婦の在り方や付き合い方も変わってくる。常に意識しておきたいことのひとつだ。

 

*歳のせいか、約束や聞いたことをすぐに忘れるようになった。後々やりとりを確認できるように、大事なことは記録に残すようにしてる。

 

 

写真:土佐町の「Ombelico」さんで友人に撮ってもらった一枚。ふたりでレストランでランチなんて、何年ぶりだろう。

Thanks to 前田きおみ

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次女の一言

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ある日のこと。

保育園から帰ってきた次女が「とうちゃん、あそぼ!」と声をかけてきた。倉庫で何かの作業をしていた僕は、いつものように「これが終わったらね」と答えた。しかし、同時に「これ」が今日中に終わらないことを知っていた。

それを聞いた次女は僕の方をじっと見つめて、はっきりとこう言った。

「とうちゃんとあそんでもらったことない!」

驚いて振り返った僕の頭は真っ白で、言葉が出てこなかった。彼女がそう言うなんて、思ってもみなかった。

遊んでもらったことがないなんて、そんなことはないだろう。時間があるときには遊んで「あげている」じゃないか。あのときも、このときも。反論の言葉が喉まで出かかった。

しかし、ともうひとりの僕が疑問を投げかける。

本当にそうか?

もっと彼女との時間を捻出することはできなかったか?

「あとでね」と言いながら、次の瞬間スマホでどうでもいい投稿をスクロールしていたことは一度や二度ではなかったはずだ。そんな僕の様子を彼女は観察していて、だからこそ、口を突いて出てきたのが冒頭の言葉だったのではないか。

その考えが心に広がったとき、なんだかとても恥ずかしくて、気持ちがソワソワした。忙しい毎日に流され、いつも何かに追われているように感じていた僕は、彼女の一言で、子どもと遊ぶ時間さえ惜しいと思っている自分に気づかされたのだ。

僕は家の周りで仕事をすることが多い。それは、子どもたちに親の働く姿を見てほしかったからだし、親としても子どもたちの成長を身近に感じたかったからだ。しかし、その環境に慣れてしまうと、いまの僕のように時間の使い方を勘違いしてしまう。

たとえば、農作業をしているとき。子どもたちが遊びたがっているのに、「いまは忙しい」と言ってしまうことが何度もあった。その度に子どもたちは残念そうな顔をしながら去っていく。しかし、彼らが僕のそばで遊びたがっている理由は単純で明快だ。今日あった嬉しかったこと悔しかったことを聴いてもらい、今日初めてできた何かを見てほしいのだ。

そんな大切なことを、忙しさにかまけて見過ごしてしまう自分がいた。自分が何をしているのか、何が本当に大切なのかを自覚しなければ、家族との大事な時間を見過ごしてしまう。次女の一言は、そんなことに気づかせてくれたのだった。

 

写真:次女と三女。こんな表情もいまだから見られるのかもしれない。心身の成長とともに変化して、記憶はどんどん過去になっていく。

 

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父子醤油搾り旅

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今冬は二年ぶりの醤油搾りとなった。

水と塩を混ぜ、天地返ししたり発酵具合を観察したりして大体一年が経過した醤油麹。子どもたちに味見をしてもらうと「しょっぱい!でもおいしい!」と評価をいただいたので、いつもお世話になっている搾り師・トキさんに連絡をして、搾りの段取りを付けてもらう。

長野県まで軽トラでの移動となるので、助手席のパートナーとして毎回子どもをひとり連れて行くことにしている。

これまで、長女長男がそれぞれのタイミングで同行し、貴重な体験をした。醤油搾り旅は、うちの子たちにとって、成長の登竜門的イベントなのだ。今回、小学二年生の次男・耕丸(たがまる)に声を掛けると、「行く!」と元気な返事が返ってきた。

移動距離600キロ弱、休憩しながら片道約10時間。この時間をふたりでどう過ごすかが旅の快適度を左右すると言ってもいい。

息子には、車内で何をするか考えておいて、必要なものを荷物に入れておくように伝えておいた。さぞたくさんの遊ぶものを用意してくるのかと思ったら、彼が用意したのは、「ドラえもん」の単行本一冊だった。

かくして、当日早朝6時ごろ家を出発し、親子ふたり旅がはじまった。

早々に本を読み終わった息子は、オヤツに手を伸ばし、Youtube鑑賞をし、何度かウトウトしつつ、僕としりとりなどした。もっと退屈するのかと思ったら、楽しそうなのが意外だった。普段兄妹と一緒だと自分のやりたいことをやりたいだけすることが難しいので、狭い座席の上とは言え、自分だけの時間を満喫していたのかもしれない。

暗くなる前にはトキさん宅に到着し、翌日翌々日と醤油を搾らせてもらった。

*搾りの様子は、記事「醤油搾り」にあるので、ご興味ある方は覗いてみてください。

作業中、耕丸はたくさん手伝いをしてくれた。醪をお湯で溶いたり、醤油を移し変えるときも、とても慎重に動いていた。知らない間に、僕のスマホを操り、記録動画すら撮ってくれていた。

さて、無事に搾り作業を終えて、予備日として空けておいた四日目はノープラン。雪が積もっていたら、スキー場で遊ぶのも楽しそうだなと考えていたが、一日中しとしとと雨が降る予報で、外出は諦めて室内で過ごすことにした。

トランプなどして大人たちも一緒に遊んだが、特に彼がのめり込んだのは、絵を描くことだった。

壁掛け時計や寝ている猫など目に付くものを、もらった木板の上に、彼独特の捉え方でペンを動かしていく。

その姿を見て僕は、思い出した。彼はこだわりの強い芸術家タイプなのだ。

苦手なことはやりたくないが、好きなことはとことん集中して力を発揮する。彼の場合、それは対象物を細部まで描くことだったり、魚一匹を骨になるまで丁寧に食べることだったり、昼寝中の猫をずっと撫でることだったりする。

五人兄弟の中で、身体は華奢な方だし、口下手だし、勉強はあまり得意とは言えない。のんびり屋でナイーブ、年齢より幼く感じる場面もある。だけど、そんなことは些細なことなんだ、と僕はこの旅で彼を見直すことになった。どんなことでも、それが他の子たちと違っていても、気が済むまでやらせてやりたいと思う。

 

多忙な暮らしの中で埋もれてしまいがちな子どもたちの成長や変化に、僕はもっと気づかなければ。

 

 

お醤油関連の記事はこちら。

 

息子と旅に出る

醤油搾り

醤油と暮らし

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十回目の米つくり

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新年のご挨拶を申し上げます。

地震や事故が続き、驚きとともに明けた新年。被害に遭われた方々のことを思いながら、今年はどんな一年になるのかと心配が先に立つ。心がモヤモヤするが、それでも巡る季節とともに自分ができることをやっていこう、といつもの結論に至る。

 

つい先日稲刈りを終えたと思っていたのに、いつの間にか年が変わり、最初の月も三分の一が過ぎた。

高知に来て田植えをはじめたのが2014年と記録にあったから、去年で十回目の米つくりだった。

米つくり一年目は、笹の敷地内にある五畝ほどの田んぼではじまった。知識も農具もほとんど揃っていない状態だったから、ご近所さんにお知恵や道具をお借りしたり、見よう見まねで作業していた。時間と労力は掛かっていたが、新しい暮らしの中で、家族が食べる主食を自給する喜びは大きかった。失敗も多々あったが、有り難くも毎年収穫をすることができた。その田んぼの様子を認めてもらえたのか、その後地域の方々に声を掛けてもらって、いまは四枚約二反半で稲作している。家族で消費する以上の量が採れ、余剰分は物々交換したり、ポン菓子や米粉などの加工品にして活用している。

引越し前の千葉でも田んぼをやっていたが、場所が違えば、気候もやり方も違う。地域の方にアドバイスをもらいつつ、自分が理想とする農法を十年たった今でも模索している。

なるべく道具に頼らないようにと、田んぼに作った苗床に直接種を播き苗を育てた年があった。農機械が登場する前の農法で苗箱などの資材を必要としないが、作業が大変だった。手で苗を一本一本引き抜き束にしなければいけないし、いつの間にか隣に生えている稲そっくりの稗(ひえ)を選らなくてはならず時間がとても掛かった。腰は痛くなったが、意外と苦ではなかった。陽春の中、友人たちとおしゃべりしながらの作業は心地よいひとときだった。

ポット式の育苗箱(*1)約80枚に種籾を三四粒手で蒔いた年は、ひとりで作業をはじめたが、これはとても間に合わないと急遽友人たちに連絡とって手伝ってもらい、五六人で丸二日掛かった。またある年は竹で建てた「はで(*2)」が台風で倒壊し、濡れて重くなった稲藁束を掛け直したこともあった。ピンチを脱したのはいまでは良い思い出だし、翌シーズンへの改善点となった。

最近では、より長く続けられるようにと考え、ある程度の機械化をしている。

田植え機や稲刈り機は古い型ながらも利用しているし、前作ではコンバインを友人から借り、あっという間に稲刈りが終わってしまって、今更ながら機械の力に脱帽した。

ここまでの道のりを振り返ってみると、日本の稲作の歴史をこの十年で辿ってきた感がある。

いろいろ試してみて、「地域の農家さんのやり方が一番」という結論に落ち着きそうだ。彼らが長い時間を掛けて改善してきた結果がいまの農法やシステムであり、それは人の負担を大幅に減らしてきた。各作業にはそれぞれ理由がある。そんな当たり前を自分の身体で実感できたのは貴重な経験だ。

 

そんなこんなで、十一回目の米つくりがはじまる。

今回はどんなやり方をしようか、収量や味はどう変わるか。

いまから心配しつつ、楽しみにしてる。

 

 

写真は、2013年の稲刈りの景色。はでの竹竿に寄りかかる当時三歳の長女・ほの波は、この春で中学校二年生になる。

 

*1:ポット式育苗箱 地域では苗箱と呼ぶ。苗を育てる育苗箱一枚に448個の穴が空いており、そこに専用の機械で育土と種籾を入れて、田んぼの苗床に置き育苗する。田植え時に根を切ることがないので、活着しやすい。

:2:はで 刈り取った稲束を掛けて天日乾燥させる干し台。地方によって様々な形があり、「はぜ」「はざ」「稲木」などとも呼ばれる。

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笹のいえ

暮らしの周りにある命

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ある日、家で作業をしていると、バス停から走って下校して来た長男が、

「父ちゃん、にわとりの羽が道にたくさん落ちてるよ!」

と息を弾ませながら教えてくれた。

うちではいま四羽の雌鳥を放し飼いにしていて、彼女たちは日中その辺を自由に行き来している。

母屋からすぐの道路に行ってみると、確かに羽が散乱している。色から判断して、うちの鶏のものだろう。

ああ獣に襲われちゃったか、タヌキかハクビシンか。でもいつだったんだろう、僕はずっと家に居たのに襲われたときの叫び声は聞こえなかったな、などと考えていた。そして、そのあと心に思い浮かんだ気持ちは、悲しいとか可哀想ではなく、

「こんなことなら、早く食べておけばよかったな」

そう思った自分が少し意外だった。

そこには、我が家における貴重な動物性タンパク質を失った落胆があった。

実際これまでも、卵を産まなくなった雌鳥や年老いた雄鶏を絞めてきたから、「鶏は家畜であり、卵と肉を僕たちに提供していくれる有り難い生き物」と理解してる。しかし他方では、獣に喉元を噛み付かれ山中に引きずられて食べられてしまったであろう鶏の心中を想像すると、飼い主として申し訳ないという思いもある。

自然に寄り添う暮らしをしていると、生と死が隣り合っていることを実感する場面を目にすることがある。トンビが田んぼのカエルを捕まえ啄んでいたり、飼い猫がネズミやトカゲを咥えていたり、車に撥ねられたであろう狸の亡骸を道路の端に見ることもある。数時間前まで生きていた鶏の肉を調理し口に運び、僕たち生き物は他の命を取り込んで生き続けているという事実を経験する。

 

さてその後夕方になり、放し飼いの鶏たちが小屋に戻ってくる。最後扉を閉めるときに数を数えてみる。「いち、に、さん、、、し?」 なんだ四羽全羽いるではないか。

鶏が襲われたというのは早とちりであった。でもそのお陰で、暮らしの周りにある命と僕たちの繋がりについて向き合う良い機会となった。

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笹のいえ

九月を迎えて

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九月になった。

夏休みが終わっても、子どもたちはまだ遊び足りなそうだし、学校組が久しぶりの登校準備でバタバタしているのを見ていると、彼らはもっと夏休みが続いてほしいと思っているだろうな、と思う。でも、僕は8月が終わって心底ホッとしてる。

今年は僕にとって、長い夏だった。

夏休み前から上のふたりは小笠原に旅に出掛けた。帰ってくるとすぐに「笹の夏休み」がはじまり、今年もたくさんの小学生たちが遊びに来てくれた。そのあと息つく間もなく、土佐町と交流のある青森県十和田市の小学生の受け入れがあったり、地域のイベントであるレイホクゴロワーズ(注1)やとさっ子タウン(注2)へ参加したり、と毎日のようにあちこち出掛けていった。これらのイベントに親が参加することはなかったが、それでも送迎やらその間の下の子たちの相手やらがあるし、その間も田畑や鶏の世話、草刈り、そしてもちろん家事もいつもどおりある。

日々の暑さにも辟易としていた。

ある日少し無理をして炎天下で草刈りしたら熱中症の手前になってしまったらしく、珍しく熱が出た。二日ほど寝てなんとか復活したが、仕事は二日分遅れた。加えて台風などの影響で雨が多く、予定通りに進まない。そんな気の焦りもあって、心がいつも落ち着かない状態が続いた。もうくたくただった。

それでも、できることをコツコツやっていると、そのうち朝晩は涼しくなり、日中の殺人的とも思えた太陽の日差しが穏やかになり、草の伸びもいっときの勢いはなくなった。自然はうまくできてるなと思う。

なんだか愚痴のようになってしまったけれど、もちろん喜びもたくさんあった。

ひとりバスに乗って福岡県の友人に会いに行った長男、笹を訪れたお兄ちゃんお姉ちゃんたちと交流したことでグンと成長した感のある次女と三女、まだまだ幼いと思っていた次男は習っているソフトバレーボールのリーダーに抜擢された。長女は小屋で飼いはじめた鶏の世話をよくしてくれる。それぞれできることが増えて、みな頼もしい限りだ。一緒に過ごす時間が長い夏休みだからこそ、彼らの心身の変化も身近に感じられた。

新学期がはじまって一週間が経ち、子どもたちから「夏休み気分」が少しずつ抜けてきたようで、ペースを取り戻しつつある。親も夏の余韻をまだ暮らしのあちこちに感じながら、次にやって来る季節への準備をする。でもまあたいていは間に合わないので、僕らなりにできることを無理せずコツコツやっていこう。

 

写真:夏休み終盤には親しい家族たちと徳島県海陽町へキャンプに行った。広い砂浜と空に、山育ちの子どもたちは大興奮だった。

 

注1:レイホクゴロワーズ 嶺北の自然の中で行う二泊三日のアドベンチャーレース。ラフティングやマウンテンバイクなど、様々なアクテビティーを子どもたちが協力しながらクリアしていく。

注2:とさっ子タウン 高知市内施設内に二日間の架空の町が出現し、コミュニティ運営を体験する。

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