私の一冊

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

古川佳代子

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「岡潔 数学を志す人に」 岡潔 平凡社

科学的愉快にも数学的自由にも全く興味はなく、もちろん数学を志すなんて露とも考えたことはありません。わたしには一番縁遠い本だなあと思っていたのですが、いろんな偶然が重なって「読まねばなるまい」と意を決して手にとりました。

ところが意外や意外、面白いのです。共感することが多々あって、さくさくと読める読める。あまりに面白くて我ながら不思議だったのですが、数学する、を文学するや思考する、に脳内変換して読んでいるからだとハタと気がついて納得した次第。

「数学の研究を知的にやり、あるいは意志的にやる人はいるが、まだ感情的にやるところまではいっていない」とか「数学は起きている間だけやっているのではない。眠っている間に準備され、目ざめてから意識に呼出し、書き進めているような気がする」などなど。

岡潔は数学者ですから「数学」になるけれど、音楽家や画家、あるいは一般人である私にも、それぞれが生きるうえで大切にしているものがあり、それに置きなおせる普遍的なものについて、数学者らしい知的な語り口で綴られています。

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私の一冊

西野内小代

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「読書術」 加藤周一 岩波現代文庫

何ヶ月か前の高知新聞「きょうの言葉」欄に「読んだふりでもいい」という言葉が取り上げられていました。

「読んだふり」ってどういう事?その言葉の書かれている「読書術」という本がとても気になり取り寄せてみました。色々なジャンルに即した読み方を紹介してあり、その中の一つが「読んだふり」なのです。

実際には読んでいなくてもその本が話題となっている会話の中に読んだふりをして加わっていると、他の人の話す内容に注意深く耳を傾ける事により自然に知識として備わってくる。

限られた時間内で全ての本を読み尽くす事は当然不可能、このような端折った方法も時には必要、興味を持てるようであれば読めばいい。この様に私は理解したのですが…。

その他、専門書は原書で読む方が意外に簡単等…、納得のいく説明がなされていました。

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私の一冊

川村房子

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「死に支度」 瀬戸内寂聴 講談社

そろそろ断シャリしようか?自分の思いを書き留めておこうかと思うことはあっても、現実的でないような、その時はその時かと呑気さとルーズさが顔を出す。

寂聴さんはたくさんの人の心を法話で救っている。時々テレビに出ていることがあって、その話しに聞き入ってしまう。

「呆けることだけは避けたい。だから、今のままで死にたい。今夜死んでも悔やむことは一切ないという」

誰でも呆けたくないと思う。

死にたいと言葉では言っても、クスリを呑み、悪いところは手術をしあがき続けるものだとおもう。

足腰が弱り、髪の毛が少なくなり、歯がぬけてしわがより、気力はあっても体力がついていかなくなり、自分の中のすべてが老い支度はいやでもはじまっている。

寂聴さんにだって、つらいせつない苦しい思いをしたことたくさんあって、眠れぬ夜も何度もあったろう。

何事も達観したお歳になって、自分の思うままに生きてきたからこその言葉かもしれない。

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私の一冊

古川佳代子

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「あな 」 谷川俊太郎,和田誠画 福音館書店

何かのためでなく、役に立つものでもないただの「あな」。

日曜日の朝、何もすることがないひろしはあなをほることにします。ただそれだけの絵本。 構図もシンプル。色数も最低限に抑えられ、文章も状況描写のみ。 ほとんど何も起こらない絵本なのに、何度読んでも飽きないお気に入りの絵本です。

ふっと肩から力を抜いて掘るのをやめて、あなの底に座り込むひろし。「ここはぼくのあなだ」。このシーンがとても好き。なんだかいいんだなぁ~。

読み終わった後、表紙絵をもう一度見てみてください。どこのシーンかわかりますか?

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私の一冊

西野内小代

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司馬遼太郎」で学ぶ日本史 磯田道史 NHK出版新書

司馬遼太郎さんは読んだ人間を動かし、次の時代に影響を及ぼすことのできる「歴史をつくる歴史家」の一人だそうです。非常に稀な存在だということです。

死を美化された戦争を経験し、不十分な装備で突撃させられた経験のある司馬さんが生涯のテーマとした事が、歴史小説・エッセイそして学校の教科書への文章の提供等の中に普遍的に説かれている。

戦国時代→昭和前期までの流れは必然であり、そういった空気感を歴史から学び再び過ちをおかさないという深いテーマを読み解いています。

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私の一冊

川村房子

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「コーヒーが冷めないうちに」 川口俊和 サンマーク出版

最近なくなった人に会えたり、戻ってきたり、という小説に縁がある。

この小説は、コーヒーが冷めないうちに、過去に戻ったり未来に行ったりするという、不思議な噂のある喫茶店「フニクリフニクラ」でおこる物語です。

過去に行けてもその未来が変えられるわけじゃない等、非常にめんどくさいルールがある。

4人の女性たちが紡ぐ家族と愛と後悔との物語。それぞれが体験した後も、お互いがつながっていく優しくて心あたたまる物語。

20万部を突破したベストセラーで、帯に読者からのお便りがのせられている。

「心の病気を患って仕事をやめた今、涙を流しながら読みました。過去に戻って相手の心を確認してこなくても、もう私は大丈夫。そう思えました。また外に出て行く勇気をもらいました」と。

なんだか心が悲しい人に読んでもらいたい作品です。

 

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私の一冊

矢野信子

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「ほたる」 神沢利子 文, 栗林慧 写真 福音館書店

土佐町では、田んぼに水が張られ、田植えが終わった所も見られるようになりました。

この頃になると、我が家の回りでは蛍が見られるようになります。

今年も最近、飛び始めたところです。田んぼの水面に映る蛍の光、空高く飛んでゆき、やがて瞬く星に届くかと思うような蛍の光、本当に私の大好きな光景です。

子どもが小さいときに出会ったのがこの絵本。毎年繰り返される光景の間に水辺で起こっている知らない世界。子ども達と「卵が光るってどんなんだろうね。」「幼虫も光るんだ。」と語り合いながら読んだものでした。

勿論、この時期には毎晩のように蛍を見に出かけ、そのときの気温、風の具合で蛍が草陰にじっとしているときもあれば、盛んに飛び交うことがあることを知りました。

また、この場所は近所の方々と「今年は○日頃飛び始めたよ」「今年は蛍が多いねえ」などなど情報交換の場でもあります。

忘れてはならないのは、土佐酒造さん(桂月)の先代社長さん。蛍に詳しい方で、会うと毎年飛び始めた日を記録しているとか話されて、生態についてもお話をよくして下さいました。懐かしい思い出です。

見に来られるならば、一応畦は草刈りをしていますが、ひょっこり蛇が現れる場合がありますので、足元にはくれぐれもご注意を。

 

2020 June

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私の一冊

石川拓也

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「ボッティチェリ 疫病の時代の寓話」 著:バリー・ユアグロー 訳:柴田元幸  ignition gallery

 

衝撃。この文章を書いているのは2020年6月4日の午後です。

今日、私に宛てて届いた封筒の中から、この小さな本が出てきました。

差出人は愛知のignition gallery。中から出てきた本の表紙には私が親交もあり尊敬してやまない英米文学翻訳者の柴田元幸先生のお名前がありました。

著者はアメリカ・ニューヨーク在住の作家、バリー・ユアグロー。翻訳はもちろん柴田元幸。「★この本について」と題された柴田先生のあとがきによると、この物語は現在の都市封鎖状態の続くニューヨークにいるユアグローから柴田先生のもとにメールで届いたとのこと。

届いたのは2020年4月5日から5月11日にかけてのことだそうです。

一本目の「ボッティチェリ」が添付されていたメールには、「正気を保つため」に書いた、とあった。少しあいだが空いてから、二本目以降の作品が続々送られてくるなかで、どうやらこの非常事態が契機となって、作者が自分の中の深い部分に降り立っていることが伝わってきた。もちろん日本で翻訳が出れば喜んでくれただろうが、出版したいからというより、ただただ書かずにいられないから書いていることがよくわかった。

「★この本について」 柴田元幸 より引用

「正気を保つため」。物を作る理由や動機として、これほど切実なものが他にあるでしょうか。そして「自分の中の深い部分に降り立って」、そこから拾い上げたものを12の寓話に変換し、この時代のこの空気を封じ込めるという作業をこのスピードでやる(もしくはやらざるをえなかった)という作者ユアグローの力業。

それを受け取った柴田先生の翻訳、ignition galleryのデザイン・装丁・製本のこのスピード感。

この一冊はもう完全に(良い意味で)野蛮人どものしわざだなと、封筒から取り出した瞬間に大きな衝撃を受けるのと同時に、「自分の『作る』という行為は、そこまで切実な理由を持ってやれているだろうか」という少し焦りにも似た、小さな棘のような感情を持ってしまったのも、実は正直なところです。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「お蚕さんから糸と綿と」 大西暢夫 アリス館

土佐町の和田地区を訪れた時のこと。和田地区の方から、昔は土佐町でも養蚕が盛んだったと聞きました。その方の母屋の隣には平屋建ての長い小屋があって、昔の農機具などがたくさんしまってありました。

「昔、ここでお蚕さんを飼ってたのよ」

家の周りに桑の木がところどころ生えているのは、蚕を飼っていた名残だと教えてくれました。

「蚕さんが葉を食べる音が夜の間も聞こえてきたのよ」と懐かしそうに話してくれたことを思い出します。

その方が「お蚕さん」と話していたことがとても印象的だったのですが、そう呼ぶ意味がこの本を読んでわかりました。

『「お蚕さん」や「お蚕様」と大切に呼んでいることや、牛や馬と同じように「一頭」と数えることなどから、人びとにとって、大切な存在だったことがわかった』。

このお蚕さんを中心に、人の行き来もたくさんあったことでしょう。

この本の舞台である滋賀と岐阜県にまたがる地域は、以前有数の養蚕の地だったそうですが、今では蚕を育てているのは、表紙の写真の西村さんご家族だけとなってしまったとのこと。土佐町で蚕のお話を聞かせてくれた方も、2年ほど前に山をおりました。

蚕は約5000年前に中国で飼われ始めたそうですが、時を経てその文化が日本へ伝わり、高知県の土佐町までたどり着いたのかと思うと感慨深いものがあります。

 

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私の一冊

古川佳代子

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「スィート・メモリーズ」 ナタリー・キンシ―=ワーノック作, 金原瑞人訳 金の星社

だれもが忘れられない“美しい素敵な思い出”を持っていると思います。 わたしの思い出は、体が大きくて無口で少し怖い祖父と、どうしてだか家の周りのウバメガシを一緒に剪定することになってしまった時のこと。

切る枝選び方とどのように鋏を入れるのか。簡単に習った後はただひたすら、ちょきちょきちょき…。気づまりで緊張していたのが少しずつ平気になって、祖父と鋏の音で会話している心持になった時間が、今は大事な思い出です。

20年ほど前、この本を初めて読んだとき、鋏の音が通奏低音のようにちいさく聞こえてきました。楽しみにしていたことが流れてしまった残念さ。好きと嫌いの狭間を行ったり来たりする女の子。なにげないエピソードの積み重ねから生まれる幸福な読後感。

久しぶりに読み返したら「佳代ちゃんの切ったところがいちばんきれいじゃねぇ」と言ってくれた祖父の声がして、しばらく余韻に浸ったことでした。

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