こんにちは。いよいよ8月である。
連日の猛暑に「今年は酷暑日が何回あるのだろう」と、空恐ろしくなる今日この頃だ。
さて、8月といえば原爆の日、そして終戦記念日がある。私の趣味は俳句なのだが、俳句の世界で“8月”という季語を用いる時、そこには「原爆があった、終戦を迎えた」という歴史的な背景を含んで使われることが多いらしい。原爆忌という季語もそうだ。
(※テレビ番組で、俳人の夏井いつき氏が仰っていた言葉。)
土佐町のWebサイトで、原爆忌について語ることが可能であるか?
執筆にあたってそんな迷いもあった。しかし私は、自分なりのアンサーを見つけることができた。そしてその答えは、私自身の古い記憶の中に、ちゃんと散りばめられていたのだ。
夏休みのことだ。確か低学年だった記憶があるが、定かではない。しかし忘れもしない、登校日の「平和学習」で初めて原爆の話を聞いた時。私は、その恐ろしさに心底縮み上がり、帰宅一番優しかった父方の祖母の元へ駆け込んだ。
「ねぇおばあちゃん、原爆って知っちゅう? すごい怖いでね。また使う人がおったらどうしよう…….。」
キンキンに冷えた麦茶を出してくれた祖母に、不安いっぱいで尋ねたのを覚えている。
祖母はいつにもなく真剣な目をし、1945年、子どもだった頃の記憶を辿るように話し始めた。
「大川に住みよった時、ちょうど朝、山に登りよってねぇ。そしたら遠くの北の空がピカッと光ったがよ。びっくりしてしばらく見よったらねぇ、どんどん空が真っ赤になってきて……後から聞いたら、あれが原爆やったんやないろうか。」
当時の私は「そんな遠いところまで見えるものなのなんだなぁ…。」と驚きつつも、祖母のその言葉は幼心に深く刻み込まれた。

しかし大人になるにつれ、私は「あれは祖母の勘違いだったのではないか」と思い始めるようになった。何しろ距離が離れすぎている。瀬戸内海もあれば四国山地もあるのだから。
そこでふと思い立ち、現代の技術である「AI」に尋ねてみることにしたのだ。
返ってきた回答を要約すると、こうだった。
『十分にあり得ます。原爆の強い閃光(ピカ)は、100キロ以上離れた空をも白く染めます。実際、愛媛や四国の山間部でその光を目撃したという証言もあります。また山に登っていたのであれば、その後の火災によって空が赤く染まった様子を視認できた可能性も十分に考えられます。』
(※もちろんAIも間違えることはあるが、科学的・地理的な裏付けとして十分だった。)
「おばあちゃんは、間違っていなかった。本当にあの原爆の光と空を見ていたんだ」
祖母の言葉を裏付ける事実を知り、驚くと同時に、一瞬でも疑ってしまった自分を深く恥じた。
現在は特別養護老人ホームに入り、家族の顔も分からなくなってしまった認知症の祖母。けれど、彼女がかつて語ってくれた戦争の確かな記憶は、こうして私がしっかりと受け継ぐことができたのだ。
祖母は大川村で育ち、のちに早明浦ダムの建設に伴って土佐町へと移住してきた。父も6歳まで、今は水底となった大川村の集落に暮らしていた。
「戦時中はとにかくひもじかった」と祖母はよく言っていた。さつまいもを煮て干し芋を作る際、同じ鍋で何度も煮込むと、最後に甘いエキスのようなものが残る。それをすくって食べるのが、当時の祖母達兄弟の密かな楽しみだったそうだ。「芋飴」と呼んでいたように思う。また、非常食にしようと彼岸花の球根の毒抜きに挑戦し、毒抜きが足りずにトイレに駆け込む羽目になった、という笑い話も教えてくれた。(彼岸花はかなり毒性があるという事なので、笑うに笑えない話だったが…)
また、相川に嫁いだ祖母の姉(私にとっての大叔母)は、学徒動員で長崎にいたそうだ。実際にあの巨大なキノコ雲を、この目に焼き付けたと話していた。もっと詳しく話を聞いておけばよかったと、亡くなった今になって悔やまれてならない。
土佐町に直接爆弾が落とされたという話は、私は聞いたことがない。(※もしご存知の方がいたら教えてほしい。)
けれど、祖父母や曾祖母の世代に耳を傾ければ、そこには確実に生々しい戦争の記憶が存在している。土佐町にも忠霊塔があるように、戦争の痕跡は私たちが気づかない意外な場所に転がっているのだ。

今の平和は、先人たちの苦難と後悔、そして「二度と繰り返さない」という強い信念の上に成り立っている。その志を受け継ぎ、次の世代へと繋いでいくことこそが、今を生きる私たちの役割ではないだろうか。
都市部の大空襲や原爆の被害だけではない。地方の小さな町や村にも、それぞれの戦争の記憶が確かに残っている。語り部となる世代が極めて少なくなった今、もしご家族に戦争体験者や当時の空気感を知る方がいらっしゃるなら、ぜひその話を聞いてみてほしい。そしてそれを、これからの時代を生きる「人生の指標」にしてほしいと切に願う。




