鳥山百合子

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

鳥山百合子

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「もりのなか」 マリー・ホール・エッツ 福音館書店

「保育園で “はんかちおとし”、したよ」。
5歳の娘がある日、保育園から帰ってきた時に言いました。

あ、確かこの本にも“はんかちおとし”が出てきたはず。そう思って一緒にページを開きました。

「ぼく」が森へ散歩に行くといろんな動物がついてきて、一緒に歩いて、ひと休みして、誰かがピクニックをしたあとのピーナッツやジャムやアイスクリームを食べたり、かくれんぼしたり…。

そして、

「それから、“はんかちおとし”を ひとまわり しました。」

その文章で「一緒やねえ」と嬉しそうに笑った娘の顔を見たとき、絵本の世界と娘の生活がつながった瞬間に立ち合ったような気がして、何だか感慨深いものがありました。

マリー・ホール・エッツの描く線はとても温かい。もう亡くなっているので会うことはできませんが、エッツの残した作品から本人の人柄や大切にしていたことが伝わってくるようです。

作品を残すことは、私はこのように生きた、というひとつの証でもあるのだと思います。

鳥山百合子

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私の一冊

鳥山百合子

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「ふしぎの国のバード」 佐々木大河 KADOKAWA

友人に勧められて手に取った「ふしぎの国のバード」、今発売されている5巻まで一気に読みました。

イザベラ・バードは、イギリスの女性冒険家。1831年に来日し、通訳の伊藤鶴吉と共に横浜から日光、新潟、北海道へ至る旅をした実在の人物です。

消えていく日本の文化や風習をイギリス人の視点から記した本があるとのこと、今度読んでみたいと思っています。

笠を被り、蓑を着て馬に乗り、虫や蜂、蛇と格闘しながら道を進むバード。

汗だくになりながら人力車を弾き続けた「ヤへーさん」に薬を手渡そうとしますが、ヤへーさんは受け取れないと断ります。

その時にバードは言いました。

「あなたにはわからないでしょう
人力車から降りる時、さしのべてくれた手が
目隠しのかわりにと言って吊るしてくれた蚊帳が
あなたのくれた小さな木苺が 
私をどれほど励ましてくれたか
その優しさに私がどれほど感謝しているか」

毎日のなかにある、一見ささやかなちいさな出来事に私も支えられて生きている。そのことをあらためて思い出させてくれました。

 

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山の手しごと

おもち作り

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11月の最初の日曜日、土佐町の各地区では運動会が開かれます。

その時に盛大に行われる「もちまき」。

土佐町相川地区では、運動会前日に地域の人たちが集まっておもちを作ります。

 

 

前日から水に浸けておいた全部で90キロ(一俵半)のもち米を3回に分けて蒸します。このもち米はもちろん相川地区で収穫したもの。相川地区は土佐町の米どころ。美味しいお米が収穫できることで有名です。

大きな蒸し器にもち米を入れ、その真ん中を掘るようにしてくぼみを作っておきます。

「こうしとくと、火が通りやすいきね!富士山みたいな感じよ。」

蒸し器の口に布をかけ、ひもで結びます。

「あとでぷーっと膨らんでくるきね!それから30分よ!」

 

 

ぷーっと膨らんだ!

 

 

 

30分後、美味しそうに蒸しあがりました。

 

 

 

もち米をもちつき機に入れ、ガタゴトガタゴト、ガタゴトガタゴト…、もちつき機4台がフル稼働。3升のおもちがつける餅つき機は相川地区の人が自宅から持って来たもの。こんな大きなもちつき機がそれぞれの家にあることが驚きです。この地の人たちにとって自分でもち米を育て、おもちをつくことは「日常」なのでしょう。実はそれは、とてもゆたかなことなのだと思うのです。

 

 

 

おもちがつき上がりました。ぴかぴか、つやつやしながら、ホカホカと湯気をあげています。
もちつき機がまだ動いている時におもちを手ですくい上げるように取り上げ、もち取り粉をふった台の上におきます。

つきたてのおもちはまだ熱く「あちっ、あちっ!」と言いながら転がして粉をまぶし、2つに分けます。

 

 

相川地区の上田美和子さんの手さばきは、ほれぼれするほど美しかったです。

美和子さんが、おもちの端を内側へ内側へ小さく折りたたみ、たたんだ先をきゅと握ってできた丸いぷくんとしたおもち。それを「手刀(てがたな)」で切り、ころんと転がす。それを近くの人が受け取って、手のひらの中でなでるようにころころと、まあるいおもちにしていきます。

美和子さんが手刀で切ると、切れ目のないきれいなおもちになるのです。

それはまるで魔法のようでした。

 

 

いろんな世代の人たちがおもちを丸めます。きっと昔から大人たちは、子どもたちに働く姿を見せることで、地域との関わりかたやその季節の仕事を伝えて来たのでしょう。

 

 

 

こちらはお土産用のよもぎもちを作っています。このよもぎは春に新芽を摘み、重曹を加えて茹で、細かく切って冷凍しておいたもの。話に花を咲かせながら、手はいつも動いているお母さんたちです。

 

 

よもぎもちにあんこを包んでいるのは川田絹子さん。おもちにあんこを包み込み、きゅ、と握ってちぎる。おもちを置くときに上から手のひらで優しく抑えると、その時にはもう、まあるいおもちの形になっている!見事!

 

 

 

丸めたおもちを違う部屋へと運び、時々裏返しながら冷めるまで待ちます。

 

 

赤で「祝」と書かれた袋に一つ一つ入れ、口をテープでとめていきます。

 

 

そして次の日…。

 

 

できたおもちは次の日の「もちまき」で、次から次へと空を飛び、あっちへこっちへ転がります。(ちなみに、飛んで来たお餅がおでこに当たるとめっちゃ痛いです!)
子どもたちも大人たちも夢中になって拾い、持参した袋に入れていきます。

 

「拾えたかね?」と小さな子の袋をのぞいて、自分のおもちをいくつか入れてあげるおじいちゃんやおばあちゃんがいます。もちまきの時にはいつもどこかで見られるその光景は、なんだかあたたかい気持ちになります。

このおもちはこれからの季節、お鍋にうどんにお味噌汁に入れたりと大活躍。冷凍しておくと長い間楽しめます。

 

収穫したもち米を蒸し、おもちをつく。みんなと顔を合わせて、つきたてのおもちを頬張ったりしながら笑い合う。
今年の収穫に感謝し、お互いの一年間の農の仕事をねぎらうこのいとなみは、ずっと昔から楽しみのひとつでもあったのだと思います。

 

 

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お母さんの台所

りゅうきゅうの塩漬け

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土佐町では夏から初秋にかけて、畑で収穫できる緑色の野菜が少なくなります。そんな時、畑の片隅で青々と大きな葉を茂らせている「りゅうきゅう」は、毎日のおかず作りを助けてくれる頼もしい存在です。食べるのは茎の部分。みそ汁の具にしたり、柚子酢とお砂糖、じゃことあえて酢の物に。すき焼きに入れても美味しいそうです。

りゅうきゅうは、一年中食べられるように塩漬けして保存することができます。塩漬けしたりゅうきゅうは、コリコリ、シャキッとした歯ごたえで生のままとはまた違った食感です。

塩漬けする方法を土佐町石原地区のお母さん、窪内久代さんに教えてもらいました。

 

 

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土佐町ストーリーズ

台風がきた!

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「台風がきた!」

そう言いながら、ベランダにいた私のところへ飛び込んで来た5歳の娘。

ゴォォォォォー。ゴォォォォォーー。

横なぐりの雨が何百本ものまっ白い線となって、上からも横からもしぶきをあげる。

風に押されて横へ、横へ、横へ。

白い幕をゆっくりと引いていくようにあたりの風景を隠していく。

 

目の前の山の栗の木も柿の木も、杉も桜も竹もなんだかわからない木も、ぼさぼさになりながら枝をわっさわっさと揺らし、葉も草もあっちを向いたりこっちを向いたりひっくり返ったりしながら、なんとかみんな地面とくっついている。

「台風がきた!」

娘が顔を隠す。

ゴォォォォォー。ゴォォォォォー。

風が地面を這うようにうなり声をあげながら、山の向こうから追いかけてくる。

 

 

あの山のあの人たちは、みんなどうしているだろう。

 

 

あとからやって来た息子が外を眺めながら言った。
「明日は栗がいっぱい落ちてそうやな。」

 

息子はこの時期、毎朝、バケツと火ばさみを持って山へ栗を拾いにいく。

「今日は23個やった。」とか「いくつあったと思う?67個!」といつも嬉しそうにバケツの中身を見せてくれる。
明日はもしかして100個以上になるんじゃないだろうか。

 

屋根に叩きつける雨音で長女が「すごい雨やね。」と目を覚ます。
「明日早起きして、栗、拾おう。」そう言いながら眠った息子。
「台風が来た!」と走って来た娘。

子どもたちは、こんな台風の日の風も雨も音も、風に揺れていた栗の木のことも、きっと心のどこかに住まわせながら大きくなっていくのだろう。

 

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土佐町の人々

この山に暮らす 4 

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(「この山に暮らす 3 」)

 

話していると雨が降ってきた。

濡れるから上へいきましょう、と声をかけると佐登美さんはうなずいて、一緒にもと来た道を歩いて戻った。

 

坂道を上がり切って、ありがとうございました、と言いながら佐登美さんの方を振り向くと、佐登美さんは「土佐町のために頑張って仕事をしてください。お願いします。」と友人の目をしっかりと見つめて、頭を下げた。

そして次はこちらに向き直り、私の目を見て「鳥山さんも一緒です。がんばってください。」と頭をさげたのだった。

 

 

その時の気持ちをなんと表したらいいだろう。

 

私は驚きと震えるような気持ちで「はい」と頭を深く深く下げ、胸の奥底からこみあげてくるものを抑えることしかできなかった。

 

 

この時の佐登美さんのまなざしや佇まいは、今も目の奥に焼きついている。

 

きっとこれからずっとずっとずっと、私の根本を支え続けるだろう佐登美さんの姿だった。

決して忘れない。

決して裏切れない。

そう思った。

 

 

 

 

「また寄ってくださいよ。」

 

佐登美さんは近くにある水場で腰をかがめて手を洗い、そのあと私たちの方を向き、手を振って見送ってくれた。

車が動き出して、それまでバックミラーに映っていた佐登美さんの姿が見えなくなった。

 

涙がこみあげた。

 

 

 

いつまで元気でいられるのかわからないのに、こんなに山奥でふたりで暮らし続ける。

一週間に一度しか町におりない、ふたりだけの暮らし。

家を訪れるのは郵便屋さんと猿と、いのししだけ。

 

もういつお迎えがきてもいいし、早く来てもらいたいと言っていた。

あきらめたような表情でそう話す姿を見ているのは、切なかった。

 

 

 

でもおふたりは、種をまく。

かやを刈り、畑に敷く。

来年の薪をつくる。

今日より先のことの準備をする。

ひとつ、ひとつ。

今まで積み重ねてきた道のりのうえに、今日もまたひとつ。

また明日目が覚めたら、同じようにその日のするべきことをふたりで静かに積み重ねるのだろう。

 

そのように一日を、ひと月を、一年をつくってきたのだろう。

もっというとこれまでの人生という道のりをつくってきたのだろうということを考えると、毎日ちいさな積み重ねをしていくことが、人が生きるということそのものなのかもしれない。

 

私が歳をとった時、和田さんのように、毎日の仕事をこつこつと積み重ねていけるだろうか。

 

 

失礼な言い方かもしれないが、和田さんのような暮らしをしている方は土佐町にも日本中にも世界中にもたくさんいて、でもそういう方たちは一見目立たなくて、見ようとしなければ気づこうとしなければ、そのまま知らないまま通り過ぎてしまう。

でも実は、和田さんのような方たちが地域や町、日本という国や世界を今までずっと支え続けてきたのだと私は思う。

 

自分の場所で自分のやるべきことをこつこつと静かに積み重ねる。

その方たちの存在が本当に尊く、決して忘れたくないと思うし、私もそういう存在でありたいと思う。

 

 

 

遠くから和田さんのお家を見つめる。

あの場所で、おふたりが暮らしている。

 

「私は山の方が好きなのよ。」

 

その言葉に込められているのは、ただここにいたいということだけではない、おふたりのひとつの覚悟のようなものであり、誇りでもあるのかもしれないと後から気づいた。

でももしかしたらそんなに気負わずに、今していることを明日もする、と、ずっと昔から引き継がれてきたことを当たり前のようにしているのかもしれない。

 

 

また和田さんに会いに行こう。

そして、出会えてほんとうによかったと思っています、と何度でも伝えたいと思う。

 

 

 

和田佐登美・芙美子 (和田)

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土佐町の人々

この山に暮らす 3 

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(「この山に暮らす 2」)

 

和田さんが毎日使う水は山水で、家の裏のどんぐりの林のなかをだいぶ登ったところに水の取り口があるそうだ。

昨年、山を登って水の取り口へ行く途中、佐登美さんは山の斜面を転げ落ちてしまったのだという。デイサービスの日まで何日か痛みを我慢し、やっと診てもらって、幸い骨が折れていることはなかったそうだ。

こんなこともありうるのが、山で暮らすということなのだと思う。

 

 

佐登美さんは出会ったばかりの頃、多分私のことをちょっと警戒していたのだと思う。でも電話ではないやりとりをするために何度も何度も通ううち、やっと笑顔を見せてくれるようになったのはつい最近のことだ。

 

背中は曲がってはいるが足取りはしっかりしていて、いつも地下足袋や長靴を履いている。

行くとたいてい家の前の斜面にある畑でカヤを刈ったり仕事をしていて、上から私が大きな声で挨拶すると、働く手を止めてこちらを振り返り、ああ、という感じで、今までしていた仕事をしずかに中断して私がいるところまで上がってきてくれるのだ。

 

この日、話している途中に「え?今のは土佐弁ですか?」と私が聞き返した言葉がいくつかあったが、それは芙美子さんに言わせると『お父さんが勝手に作った言葉』なんだという。みんなで笑った。

そうやっておもしろい言葉を言って、私たちがその意味に気づくかなと待っている目はちょっとしたユーモアと親しみを込めたものだった。

 

 

芙美子さんがりゅうきゅうが生えている畑の斜面をしっかりとした足取りでおり、鎌でざくっ、ざくっと根元を切り、上の葉を落として茎の部分を手渡してくれた。

なんてよく切れる鎌。佐登美さんが研いでくれているのだそうだ。

大人の腕くらいある太い茎のりゅうきゅうのうちの一本は、お願いして葉を残しておいてもらった。そのりゅうきゅうは私の背丈よりも大きくて、持って立つとまるで傘をさしたトトロのようで、この時もみんなで笑った。

 

 

 

佐登美さんは70代の時、がんになったのだという。

「あの時死ねばよかった。」

「生きていても仕方ないことよ。」

 

 

佐登美さんは、背中を曲げながらまっすぐに立ち、私の目を見てそう言った。

その目を見たら、なんと答えたらいいのかわからなかった。

 

何も言えなかった。

 

 

 

帰り際、佐登美さんはこの日一緒に訪ねた私の友人がカメラマンということを知って「あの柚子の木がとてもきれいに見えるところがある。よかったら案内するけんど。」と言った。

最初は友人にそう言ったけれど彼の返事は曖昧なものだったらしく、私にもう一度同じことを話してくれたのだ。

 

佐登美さんの後について畑におりる。

道をもう少し下って行ったところで佐登美さんは立ち止まった。

そして、ここがそうだ、というように私たちの方を向いた。

 


佐登美さんが立つその場所までおり、そこから母屋の方を眺めると、少し遠くに見える母屋の下にある柚子の木が、まるで黄色の灯りをともしているようにそこにたっているのが見えた

 

わぁ、と思わず声が出た。

 

佐登美さんが教えてくれた場所から見える風景はまるで、おふたりの今までのながいながい道のりや生きざまを描いた一枚の絵のようだった。

 

目の前にはお茶の木があり、手前の斜面にはもう何十年も、もしかしたら何百年も耕し続けた畑があり、その上に佐登美さんと芙美子さんが暮らす家が見えた。

おふたりはここで暮らしているという実感が、ずしんとわいた。

そして、この場所で暮らしてきたというこれまでの歴史がじわじわとみえてくるようだった。

 

 

芙美子さんがこの場所へお嫁に来たこと。

この場所でこどもを産んだこと。

こどもたちは毎日歩いて山々を越えて学校へ行き、また同じ道を帰ってきて、今日あったことを佐登美さんと芙美子さんに話しただろうこと。

こどもたちは高校へ行くために町へ出て、山へは戻ってこなかったこと。

それからはふたりだけでずっと暮らしてきたこと。

佐登美さんが、この場所から写真を撮ったらいいと言ったのは、それはもしかしたら、自分たちがこの場所で生きてきたという証を心のどこかで見せたかったのかもしれないし、自分が毎日見ていて美しいと思う風景を教えたいと思ったのかもしれない。

 

どんな思いであっても、案内するけんど、と言ってくれた佐登美さんの気持ちに心打たれた。

(「この山に暮らす 4」へ続く)

 

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土佐町の人々

この山に暮らす 2

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(「この山に暮らす1」)

 

最後の坂をのぼり、車をとめて家へ向かおうとすると、すぐそばにある倉庫の戸が開いて中から和田芙美子さんが出てきた。
いつもは奥にある母屋にいるのに、今日は車の音が聞こえるこの場所で私たちのことを待ってくれていたのだということがわかった。

挨拶したあと、芙美子さんは私たちへ「私は野菜をつくるのが好きでね」と八頭(ヤツガシラ)や八頭の茎を干したものを見せてくれた。

八頭の茎は何本かを束にしてひもできれいに結ばれていて、そして「これはこの前掘ったの。」と八頭がたくさん入った袋を私に手渡し、食べ方を教えてくれた。

八頭は泥を丁寧に落としてあった。

八頭はお芋同士がくっついているようなところがいくつもあるから、くっついているところ同士の間をこれだけきれいに泥を落とすのは大変だったろう。
八頭の表面はすっかり乾いていて、何日も前から今日のこの日に私たちに渡そうと考えて、掘って洗って用意しておいてくれたんだなと思うと、受け取った八頭の重さが心にずっしりと響いてくるようだった。


母屋の方へ歩いて行くと、縁側に柚子のたくさん入ったかごが置かれていた。芙美子さんは、そのかごを指差して「今日来ることがわかっていたから、取っておいたの」とはにかみながら言った。足が痛いと言っていたのに家の前の斜面をくだって柚子の木のそばに立ち、木を見上げながら収穫することはどんなに大変だったろう。

母屋の南向きの窓には、干し柿がたくさん。柿のへたがT字に残されて、ひとつひとつがひもに通されずらりと干してある。こんなにたくさんの干し柿を作るのにどれだけ時間がかかっただろう。

木に手を伸ばして手の届くところだけの柚子をひとつひとつ取っている姿や、座って柿の皮をひとつひとつこつこつとむいている芙美子さんの姿が見えるようだった。

 

 

芙美子さんが畑を案内してくれた。

母屋の下の斜面にある畑へ下りたのは、この日が初めてだった。

葉を大きく広げたりゅうきゅうや、間引きされて大きくなり始めた大根、昨日掘って置き忘れてしまったという八頭の小芋があった。

家の周りには柚子、栗、柿、桑、椿、さるすべりの木があり、足元には青紫のリンドウが咲いていて、南天や千両の赤い実もあちらこちらにある。

芙美子さんが、「ここへお嫁に来た時は、あの松があっただけだったのよ」と指差して教えてくれた。今はもう見上げるような大木になっている松は、芙美子さんがお嫁に来た時は指先から手首までの高さだったのだという。

 

芙美子さんは松しか生えていなかったこの地に、木を植えた。

花を植えた。

孫が誕生した時は記念に栗の木を植えた。

 

「私は接木(つぎぎ)をするのが上手なのよ」とひかえめにそっと笑いながら話してくれた。

柚子の実がなるまでに本当は10年くらいかかるところが、接木をすると3年で実がなるようになったり、さらに味がよいものになるのだそうだ。

 

そうやって松しか生えていなかった土地に柚子や栗や柿を接木しながら、こつこつと増やしてきた。

年を重ねるごとに植えていったその木々がつける花や実の色が、この場所に新たに加えられていっただろうことは、きっと芙美子さんの心を励ますようなことでもあったのかもしれない。

(「この山に暮らす 3」に続く)

 

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土佐町の人々

この山に暮らす 1

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この日は曇っていて、和田地区へ向かう道の途中は黄色や赤、茶色に紅葉した木々がもう葉を落とし始めていた。

くねくねとした山道の途中には、落ちたら決して助からないだろう崖と隣り合わせの道がいくつもあり、道の下方には自分が立つ山と向かいの山の間からできている谷が見下ろせる。

そのような道をのぼって、まがって、のぼって、まがって…。

そしてある時、突然視界が広がる。向かって右側の奥には徳島の山々が見え、少し視線を左にずらすと、正面の山にはりつくように建っている和田さんの家がある。

 

はじめて和田さんのお家に伺った時は、心底驚いた。

こんな山の奥で、よくふたりだけで暮らしているなあ、と。

和田芙美子さん88歳、和田佐登美さん92歳。

和田地区は土佐町の町中から車で30分くらいかかる。
近所に家はあるけれどほぼ空き家になっていて、実質ここで暮らしを営んでいるのは佐登美さんと芙美子さんだけ。

 

家の前は山、山、山。
ぜんまいが育つ向かいの山の間に、和田さんのお家へ通じる細い道が見える。

和田地区は猿やいのししが出て、家に向かう道の途中には、先のほうだけかじられたひょうたんかぼちゃ(ひょうたんかぼちゃは先のほうが甘いのだそう)がいくつも転がっていたし、柿も下の甘いおいしいところだけかじってそのまま置いていくという。

 

佐登美さんは働き者で聞かれたことだけを話し、芙美子さんが何か言うと「何をそんなことを言うて」と少しけなすようなところがあるようだった。それは照れかくしなのか本気で言っているのかまだわからない。芙美子さんはひかえめだけれど柔らかく、でも思ったことは伝える人やなあと出会った頃はそう思っていた。

 

 

和田さんは土佐町の田井地区にもお家を持っている。
田井地区は土佐町の中でも便利な地域で、歩いて行ける範囲に病院やスーパー、銀行などがあり人も多く住んでいて、何十年も前に、将来年をとったら便利なところで暮らそうと買った家なんだという。でも佐登美さんと芙美子さんは田井の家を人に貸して、今でも和田にある山の家で暮らしている。

芙美子さんは「町の家より山の方が好きだから山の家にいる」と言っていた。
年を重ねて体のあちこちにしんどいところが出てきても、和田さんはこの山深い場所にいたいと言う。

 

おふたりは車を持っていない。
週に1回だけデイサービスの車が家まで迎えに来て、その車に乗って町へ行く。
そしてデイサービスで過ごし1週間分の買い物をして、また山へ帰ってくる。
1週間のうちの残りの6日間はこの山の家から出ることなく、畑を耕したり家の仕事をしながらふたりで暮らしている。

 

 

昨日電話をして、今日お家へ伺うことを伝えていた。和田さんの山での暮らしのことや、昔の話を聞かせて欲しいと以前からお願いしていたのだ。
でも和田さんは何だか困っている様子だった。

「最近なんだか頭がおかしくなってね…。物忘れが多くなってね…。すぐ忘れたり…私にちゃんと話ができるかしら。」と何度も言っていた。

「家に来るのは郵便屋さんだけ。それからお猿さんといのししと…。鳥山さんと会いたいから、お話したいと思っているの。」と迷いながらもそう言ってくれた時、和田さんが受話器を持って静かに絞り出すように話している姿が心に浮かんで、何だか申し訳ないような切ないような気持ちになった。

お話を聞きたいということは本当にする必要があることなのか、何度も何度も自分に問いかけて迷いながら悩みながら出した答えは、私は和田さんというおふたりの存在を心から尊いと思っているということだった。

やっぱりまた会いたい。
だから会いにいこう、
そう思った。

(「この山に暮らす 2」に続く)

 

 

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山の手しごと

迎え火

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いつもお世話になっている澤田清敏さんが「迎え火、見たことないんやったら見てみるかえ?」と声をかけてくれ、お盆の過ぎた8月のある日、わざわざもう一度「迎え火」を焚いてくれた。

もう日が暮れかけた頃にお家を訪ねると、家の入り口に運動会の玉入れのカゴのようなものが立っているのが見えた。

そばでよく見てみると、地面に立てられた竹の先にカゴがくくりつけられていて、その中には木切れがたくさん入っている。

 

まず、坂道を登った先にあるご先祖さまが眠るお墓へ向かった。自分の足音と草むらの中からの虫の声とが耳元で響く。

先に続く道を見通せる場所にお墓はあった。その両側には家の前にあったものよりふた回りほど小さなカゴが、やはり竹の先につけられていた。

橙色の火がパチパチと音を立てながら、辺りの黒々とした山々の輪郭を照らす。

ご先祖さまは、この火に迎えられて家に帰るのだ。

「昔はこの火を持ち帰って、飯ごうでごはんを炊いたものよ。」清敏さんは懐かしそうにそう教えてくれた。

 

「迎え火の話は、お母(沢田千恵野さん)に聞いたらえい」。

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