
わけあって、深い森のなかで生活を始めた。
静かな雨が降っている。もう夏のころのように、窓を開け放つこともないから、その雨音はかすかなものだ。
住んでいる平屋の周りに人家はない。こんなにも人里から遠く離れたところに住むのは初めてのことである。平屋から少し離れた県道を走る車もほとんどない。あんまり車が走らないものだから、たまのエンジン音に、いつもはっとする。
ここは孤絶した場所である。集落と集落の中間にある。それぞれ集落の人たちは、それぞれ町中心部に結ばれた2車線の幹線道路を行き来する。東の集落の人は、西の集落に行く用がない。
西の集落の人もまた、東の集落に用はない。そのようにして、この山道は静けさの中にある。
このような私の新たな生活を親しい友人たちは隠遁と揶揄する。隠遁。そうであったとしても、隠遁にも「生活」というものがある。衣食住のない隠遁を持続することはできない。
朝に目覚めてから、真っ先にする家事は掃除である。仕事場と居間と寝室となる一室に8枚の畳が敷き詰められている。それは久しぶりの畳の暮らしだった。そして何かしら畳というものは、フローリングやカーペットといった床よりも、清潔さを訴えているような気がしてならないのだ。だから毎朝、畳の目に沿って掃除機をかける。一日が始まる。
深い森の生活では、料理も切実なものとなる。
掃除機を始動する前に、小鍋に卵を入れて火にかける。無印良品のキッチンタイマーを14分にセットする。居間、囲炉裏部屋、洗面室、台所と掃除機を振り回す。掃除を終えたころ、ゆで卵が出来上がる。包丁で卵の白身を刻み、マヨネーズと胡椒と塩であえた黄身と交ぜ、卵のサンドイッチを作る。
林檎も剥く。小鍋で味噌汁を沸かす。ヨーグルトも添える。このところの朝食はこんな具合であって、時に林檎が梨に変わり、ヨーグルトの味がイチゴからブルーベリーになるぐらいのバリエーションだ。
食器を洗ってから、YouTubeから流れるラジオ体操第一の音楽と掛け声に合わせて、体を動かす。その運動には、小学生のころなどには分からなかった切実さがある。こわばった筋肉や関節が緩んでいくのを自覚するのだ。
そうしてまた小鍋に水を入れて火にかける(そう、わが家にやかんはないのだ)。町の中心地にあるコーヒー店で買ってきた豆を手動のミルで挽いているうちに、水が沸騰する。小鍋からドリップポットに湯を移す。少し大きめの柳宗理のコーヒーカップにドリッパーをセットし、できるだけポットからの湯を細くしながら、コーヒー豆に注ぐ。
豆を蒸らす30秒ほどの時間は、とても大切な時間となる。その30秒ばかりで「家事」から「仕事」へと気持ちを切り替えていくのである。コーヒーを飲みながら、アーロンチェアに座ってパソコンに向かう。まずはデジタル配信される地元紙のPDF紙面をディスプレイで丹念に読む。そうして意を決するようにテキストエディターを開く。iPhoneのタイマーをセットする。執筆にあてる時間を決めているのだ。
苦心の時間が、深い森の奥の平屋で流れていく。静かな雨が降り続いている。仕事場の窓からの景色は、半世紀も前に人の手によって植えられた杉や檜の鬱蒼とした植林の山のすがたであり、窓の上部にわずかばかりの空が広がっている。
文を紡ぐことは、快楽と苦痛と充実と茫漠が入り交じる行為である。この孤絶した深い森の中は、きっとそれにふさわしい場所なのだろう。
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とさちょうものがたり編集長である写真家の石川拓也さんから「連載」を勧められた。この孤絶した平屋にいらっしゃって、さまざまなことを話した。その日も静かな雨が降っていた。
連載の内容、締め切り、文字数…編集長らしい注文はないのが、なんだか愉快だった。そこには、このウェブサイトならではの伸びやかな自由があった。ただ長年にわたって「紙」に印刷される文ばかりを書いていたから、その自由さに戸惑いも感じていた。
さて、どうしようかな。
ずっと考え込んでいたところに、石川拓也さんが撮影した写真が送られてきた。それら3枚のモノクロームの写真に見入った。私の平屋のそばで撮影されたものだった。
写真とは現実を限定する行為でもある。私たちの目は美しさを捉えてはいるけれども、とても移り気なものであって、その美しさを凝視することは稀だ。写真は、そんな移り気な目線を構図として固定し、美しさへの凝視を促す。
色のないモノクローム写真は、事物の形そのものを際立たせる。そして何よりも、この世界に「光」が、あまねく存在していることを気づかせてくれる。
この連載初回の石川拓也さんの写真は、舗装道路から平屋へのアプローチを撮影したものである。立ち並ぶ杉と檜の枝葉によって天空は遮られ、いつも道は薄暗い。山からの流水を逃すため、いったん道は、がくんと落ち込む。その落ち込みを先に進めば、太陽の光がさんさんと注ぐ谷間へと出る。谷間の一方に鬱蒼とした山があり、一方に私の平屋がある。
薄暗いアプローチの先には「光」があった。愛おしかった。何か書いていくことができるかもしれない。そんなふうに彼の写真が思わせた。
わけあって、深い森のなかで生活を始めた。その訳をふわり書いていこう。





