
ひすばった
【動】干からびた
例:バッタがひすばった (バッタが干からびた)
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【動】干からびた
例:バッタがひすばった (バッタが干からびた)



「ふくろうくん」 アーノルド・ローベル作 文化出版局
座ってお茶を飲むのが大好きで、いつも大まじめ。それでいていつもクスッと笑わせてくれるふくろうくんが大好きです。
この本の中には5つお話があって、その中でも『うえとした』というお話を子どもたちは気に入っています。
「ぼくんちの2かいはどうなっているのかなあ。いっぺんに2かいと1かいにいられるやり方があるはずだぞ」。
そう考えたふくろうくんは、階段をものすごい勢いで一晩中上がったり下がったり駆けどおし。
「ぼくがうえにいるときは、ぼくはしたにいないんだ。ぼくがしたにいるときには ぼくはうえにはいないんだよ」。
ふくろうくんはそう悟ります。
ふくろうくんのような人と一緒に暮らしたらきっと楽しい。
表紙の写真にある羽は、ふくろうくんが階段を駆けのぼったときに抜け落ちた羽。。かな?
鳥山百合子


また古老によるとこの手洗石を運び始めたのは、明治10年のこと、地蔵寺の岡田勝次なる者で、神社まで6kmの坂道を運ぶ計画をたてた。
「石は大きな木のまた枝でつくった木馬にのせ、しばりつけて、おん綱めん綱をかけた。おん綱には赤ハチマキの男衆。めん綱には赤手拭い赤だすきの女衆が、声をそろえ力を合わせた。
石の上には高知から来た歌い手が乗り、赤手拭いでほうかむりし、手に紅白のざいを持ってこれをかつぎ、
高峯神社の石引きは、忠臣蔵のお芝居か、お石はおかるぢやヤレコケヤサアノウウン
など木遣節のはやしを合わせ数百人、人海戦術で山坂をずるずる引き上げたものだそうな。
引き手を引き子といい、若い元気な男女は遠くの者も聞き伝え、嶺北地方の各村、群の中部、南部、高知や遠く高岡郡南部、東は岸本あたりからも参加し、毎日数百名が奉仕したらしい。
当時は酒も土地酒をつくり、毎日40ℓから50ℓもあけることがあったというし、直径1メートルものひきなべ3杯の汁を炊き、大釜で20kgから、時によると30kgの飯を炊いたので、米が食えるという魅力で参加する者も増したという。
農閑期を利用し年中行事のようになり、明治15年、5年目、安吉部落の入り口、通称「境」というところで中止となった。
当時経済上の問題や宗教上の問題やで四国で讃岐の琴平と並び称され信仰の篤かった三宝山高峯神社の神仏合祀の大権現に紛争が生じたりして中止になったものと思われる。
爾来、歳月は流れて1928年、石が座ってから43年目、昭和の御大典記念事業にと昭和3年3月、時の地蔵寺村村長・西村繁太郎さんの肝入りで石引きが再開された。
当時の青年が中心になって奉仕したが、今度は知恵と工夫、機械器具の進歩がモノを言って人海戦術に頼らず、ぞうさなく引きつけた、とも言われている。
町史

高峯神社の倉庫には、その時に使用した綱が現在も保存されています。
以下も併せてお読みください



“New York City Transit Authority Objects” Standards Manual
以前、NASAなどいくつか紹介したデザイン・マニュアルシリーズ。
この一冊は、ニューヨーク市交通局が制作していた様々なものを、若きデザイナーたちが収集して編集して出版して、一般の人の目にも届くようにしたもの。
おかげでなかなか面白いものを見ることができます。
ニューヨークのバスや地下鉄関連の出版物などはもちろんのこと、メトロカードのデザインや地下鉄乗務員の制服、はたまた作業用の分厚い手袋まで。ちなみに手袋は作業で実際に着用した痕跡がはっきりと付いています。
これを一冊にまとめたのはとてつもない”交通局オタク”なんでしょう。
石川拓也


ここなあたりをまだ森郷と言うたころ、高峯神社は讃岐の金毘羅さんと並んで四国ではえらい神様であちこちは沢山お詣りにきょった。
神社の下から段々になって平い(ならい)宅地があるが、あこには宿や料理店が並んでいたそうな。
そんな頃の話よね。
三宝山(=稲叢山)の八合目ぐらいの所に土俵の大きさ位の石で、中の窪んで四・五斗ばかりの水が入る石がある。
あれは手洗石よ。
石原から平石に行く途中の、有馬林道入口のあたりの川原にあったそうなが、それをあこまで担いあげたそうな。
沢山の信者が何十人何百人となく縁日には来よったから、その信者たちが毎年毎年少しずつ引き上げて、あんな高い所まで運び上げたというから偉いもんよ。
明治になって神仏混淆はいかん言うて、三宝山も信仰が薄らいで、引き上げる人も無うて、ああやって八合目で止まっているそうな。
それが昭和三年御大典記念として村がとりあげて現在のような位置格好になった。

高峯神社の手洗石
後編に続く!
以下も併せてお読みください!


「ぼくと象のものがたり」 リン・ケリー作 すずき出版
貧しさのために学校に行けず、一日中働かなければならない少年ハスティンは、妹の治療費のためにサーカスに出稼ぎに売られます。
そこで密漁によって家族と引き離された子象のナンディタと出会う。
人権を無視し、動物を虐待しもののように扱うサーカス団での生活は絶望的とも思えた。
子象とハスティンはどのように解放されてゆくのか…。
世界の国々の中の最低限の子どもの権利が保証されていない子どもたちについて、この本は目を開いてくれます。
そして、象が誰かを助けるために自分の命をも差し出す、愛情深い動物であることも教えてくれます。
藤田純子



「海べのあさ」 マックロスキー文・絵 岩波書店
ロバート・マックロスキーは素晴らしい絵本の数々を残しています。この「海べのあさ」をはじめ「かもさんおとおり」「サリーのこけももつみ」「すばらしいとき」など、絵も文章もとても美しく大好きです。
「海べのあさ」は、ある日、サリーの歯が一本ぐらぐらし始めたところからお話が始まります。
お母さんと話をして、いつ歯が抜けるのか楽しみに待つサリー。
海べで今晩のスープにするためにハマグリを取りに行っていた時、気づくと歯が抜けていたのです。
歯が抜けてもサリーは買い物に行ってお店の人とおしゃべりをして、アイスクリームを食べて、ハマグリのスープを楽しみに家に帰ります。
大人には「あたりまえ」になってしまったことが、小さな人にとってはどんなことも特別なこと。
毎日は「あたりまえ」なことでできているようですが、でも実はそうじゃない。
マックロスキーのまなざしは、いつもそういったことを思い出させてくれます。
すえの娘の同級生のお友達が何人も歯がぐらぐらしていたり、抜けて大人の歯が生え始めている子がいます。
娘は、自分の歯もぐらぐらするのかな?いつ抜けるのかな?とちょっとドキドキしながらも何だか楽しみにしているようです。
娘の歯がぐらぐらし始めた時、このお話をもう一度読んであげたいなと思っています。
鳥山百合子


ひとつづつ表情が違います

地域協働学部のロゴを焼き印しました

組紐の赤は下記のブランドブックとお揃いです
まず、話を最初から始めると‥。
以前、地域協働学部のブランドブックを作成させていただきました。

プロデュース・写真: 石川拓也 デザイン: 品川美歩 文章: 山崎はるか

今では珍しい「糸綴じ」です。赤は今回のUSBメモリのヒモとお揃い
今回紹介しているUSBメモリは、このブランドブックと同時進行で作成したものです。
作成したのは土佐町の職人さんである川田康富さん。

川田康富さん
康富さんの本職は板金職人さんですが、革細工や木工などもできてしまうオールマイティな職人さんです。
その康富さんの発案により、材料は槐(えんじゅ)という木材。土佐町にも生息しています。
槐はその丈夫な性質と「延寿」につながる語感から、「長寿の木」「幸福の木」とも呼ばれています。
その槐の木材を康富さんが加工し、紐留には鹿のツノを使用しました。鹿のツノも土佐町のものです。ロウ引きのヒモを編んでくれたのは森舞香さん。

鹿のツノの紐留
このUSBメモリとブランドブックは、高知大学地域協働学部が、卒業生が採用される可能性のある企業の採用担当者に向けて、学部のイメージを伝えるために作成したものです。
USBメモリの内部には、ブランドブックのPDFデータと、同時に作成した学部のイメージ動画が格納されています。
来春に初の卒業生を送り出す高知大学地域協働学部、ブランドブックとUSBメモリが少しでも彼らの未来の手助けになれればいいなと思っています。
実物を見たい方はいつでもご連絡くださいね。



「国民総幸福度(GNH)による新しい世界へ ブータン王国ティンレイ首相講演録」ジグミ・ティンレイ(著)日本GNH学会(編) 芙蓉書房出版
「ブータンの名宰相」と呼ばれるティンレイ首相が、2010年に高知(!)を訪れ講演を行った際の講演録です。
GNHを基にした国づくり、理想を掲げつつ口だけの理想論に終わらせないGNHという新しいモノサシについて、その推進役であるティンレイ首相自身が非常に丁寧な言葉で解説しています。とても漠然とした抽象度の高い「幸福度」というモノサシは、政策につながる具体性があってなんぼ。「言ってるだけではダメですよ」とティンレイ首相が発言しているわけではないけれど、行の合間からそんなメッセージを受け取りました。
この講演が高知で開催されたということに、なんらかの巡り合わせの妙を感じます。


昔、土佐郡土佐町の山中に大きな山猫が居ったそうな。
山から出て来て人を化かしたり、家畜を取って喰うたりして、村人を困らせた。
何んとかして山猫を退治せにゃいかんと村人達は相談したが、山猫は仲々人目に見付からない。
そこで土佐町伊勢川の猟の名人次郎スと太郎スと云う仲の良い猟師二人に頼んで退治して貰うことにしたと。
次郎スと太郎スは毎晩毎晩山へ行き山猫の出て来るのを待ったが、いくら待っても待っても山猫は出て来ざったそうな。
とうとう節分の晩になったと。
次郎スと太郎スは今夜こそは退治しようと話合って山へ行って少し待っていたら、大木の倒れた上へ大きな山猫が二匹上がって、
今夜は節分、大年の夜ぢゃ。伊勢川次郎スも来まい、太郎スも来まいもん
と云うて踊り始めた所を二人はすかさず射止めて見事退治したそうな。
それで村人達も安心して暮せるように成ったと云う事じゃがのーし。
昔はそんな事もあっつろーかのーし。
山下忠文 「土佐の民話 156号 土佐民話の会」
今回の「山猫退治」は、土佐民話の会が月一回発行していた雑誌「土佐の民話」156号(昭和59年12月1日発行)より転載しています。発行人である市原鱗一郎氏に快く許諾をいただいたことで実現しました。現在の私たちが多くの民話に触れることができるのも、各地に伝わっている民話を収集し出版するという、このような先人の仕事に負うところが多いことと実感します。改めて感謝を伝えたく思います。